雹の日

1. 6月24日 14時30分
 
 雹だ。
 天井の高い店の壁一面がガラスになっている、その大きなガラスの外で、空一面が真っ黒い雲で覆われている。墨を流したような雲の中から、白い点々が無数に落ちてくる。粒が大きい。普通の雹じゃない。街の光景が急に泡立ったみたいだ。広場を走る人々。改札を出て立ちすくむ人々。小さな無数の白い気泡が、あっという間に町全体を覆い尽くす。
「これは積もるぞ」彼がつぶやいた。
「6月だよ」私は言った。
「でもごらんよ。」
 雹はやまない。ばらばらと激しい音を立てながら、ガラスに無数にぶつかってくる勢いが怖いくらいだ。見ると、彼の言う通り、駅前の広場のアスファルトが白く染まり始めている。
「なんなの」私は茫然と言った。6月の雪景色。まさか。ありえない。
「君があんなこと言うからだ」彼が言った。見ると、頬を上気させて、まっすぐ私を見つめている。期待に満ちた微笑は少年のようだけど、その微笑が浮かぶ頬には、あの頃にはなかった皺が刻まれている。胸がきゅん、と痛くなった。
 こりゃやばい。私は思った。だからあの時、すぐ帰ればよかったんだ。
 
2. 6月24日 11時15分

「すぐ帰らないとだめなの?」と言ってきたのは、彼だった。
 久しぶりに会ったから、ちょっとお茶でもどう、みたいなロマンティックなニュアンスが、そこに少しでもあったのなら、私は速攻で断っていただろう。しかしその彼のセリフには、そんな色っぽい空気はかけらもなかった。私も彼も、血走った眼で、机の上に散乱したオーケストラ譜と格闘していた。
 大学のOBオケ演奏会にエントリーした時、彼と再会できるとは思っていなかった。帰国した知らせなど来るはずもなかったから、まだヨーロッパにいるとばかり思っていた。だから、仙川のキャンパスで彼を見た時は、正直驚いた。驚いたし、不愉快だった。なるべく目を合わさず、一言も会話せずこの演奏会を乗り切れればいいと思った。
 なのだけど、そういうわけにもいかないことはすぐ判明した。まず、事務局から、今回のオケが若手中心で、年齢制限が設定されていることが説明され、さらに、彼が、今回のコンサートマスターだと紹介された。私は内心頭を抱えた。集まったメンバーの顔触れが若い。ヨーロッパのオーケストラでの実演経験があるのは、私と彼だけだ。これはひょっとして、と思ったら、案の定、チェロのトップの欄に、私の名前があった。コンマスと一言も口を利かずに、トップが務まるわけがない。
 追い打ちをかけたのが、演奏会の2ステージ目の委嘱新作。作曲家はドイツ人。顔合わせということで立ち上がって挨拶した彼のドイツ語を理解したのは、事務局のコーディネーターと、彼と、私だけ。
 そしてとどめがこの譜面だ。あのドイツ野郎。人がよさそうにニコニコしてる笑顔に合わせて、愛想笑い浮かべて握手なんぞしてやった自分が憎い。
 オーケストラ譜は、フルスコアと言われる全楽器の音符が書かれた楽譜と、各楽器の部分だけを抜き出したパート譜に分かれる。譜面が分裂する分、双方の記述に矛盾や誤りが生じることが多いし、印刷されて出版されている楽譜を使う時ですら、フルスコアとパート譜の表情記号や演奏指示の確認に多くの時間が費やされる。そして今、我々の前に散乱しているのは、ドイツ語で細かく演奏指示が記入(というか、殴り書き)された手書きのフルスコアとパート譜だ。ちらっと見ただけでも、パート譜とフルスコアで指示が全然一貫していない。
 この混沌の束を、どん、と渡して、一週間後にまた会いましょう、と、丸顔のドイツ野郎はにこやかに去って行った。一週間後の初オケ合わせが楽しみです。私はその間、色々と予定がありますので。予定だと?我々を混乱の中に突き落として、自分は一週間、東京観光に励む算段じゃないのか。
「とりあえず」と私はパニックになりそうな頭を整理しようと、とにかく言葉を出した。「フルスコアをバイブルにして、パート譜側の記述を修正する。それはいいよね?」
「いいけど」と、彼は分厚いフルスコアを持ち上げようと格闘している。3センチくらいある。「修正していいかどうか、作曲家に聞かないとまずいだろう。とにかく確認しないといけないポイントを質問リストにまとめる。」
「それをトーマスにぶつける」私は作曲家の名前を言った。ぽちゃっとした丸顔が、あれに似ている。あの、子供向け番組の。
「きかんしゃトーマス」彼はぼそっと呟いた。吹き出しそうになって、必死にこらえた。いかん。無視だ。無視。
 さらに段取りを決めた。一方がパート譜の表情記号と音符を声に出して確認していく。一方がフルスコアの記述を追いかけていって、ずれがあったら書きだす。今日中に疑問点を洗い出し、作曲家に投げて、明日の初回練習までに回答をもらう。回答が返っていなくても、「作曲家に確認中です」とメンバーに言えれば、それだけで若いメンバーの安心感が変わる。コンマスの求心力が違ってくる。こいつの手伝いをするのか、と思うと業腹だけど、見捨ててしまうと、後でトップの私にしわ寄せが来るのは見えている。
「どこでやる?」彼が言った。
「校外がいい」私は言った。「駅前にカフェができたんだ。パン屋の上に。あそこでやろう。」
 図書館とか教室とか、探せば場所はあったかもしれないが、これ以上彼と、この学校の中にいたくなかった。あの頃の自分の、彼との思い出が、至るところにしみついている校内から、さっさと外に出たかった。あの頃の彼が、扉の向こうでバイオリンを弾いている。あの頃の二人が、人目を避けてこっそりキス(とかもっと激しいこととか)をした練習室がある。あの頃の二人が、音で決闘でもするみたいにお互いの音楽をぶつけ合ったホールがある。そんな場所で、これ以上彼と一緒にいたくない。
「早く行こう」私は早口で言った。「時間がない。」
 
3. 6月24日 13時45分

「昼飯どうする?」彼が言った。
 怒鳴りつけようと開きかけた口よりも、お腹の方が先に、ぐぅ、と返事をした。11時半くらいから混み始めたお店は、打ち合わせにちょうどいい開放的なカフェから、ランチタイムを楽しむご近所の主婦の方々向けの、洒落たレストランに変貌してしまった。スパイスの効いたカレースープと、チキンの香味焼きとミニサラダ、カリカリのフランスパンを載せたプレートランチ。隣のテーブルから漂ってくるターメリックの香り。あまりに暴力的だ。そういえば、今日は朝食もろくに食べてない。
「そろそろランチタイムが終わってしまう」彼が言った。「食べよう。何か腹に入れないと集中できない。」
 私は背もたれに寄りかかって、天井を見上げた。彼がウェイトレスさんに声をかけた。
「何にする?」彼が言う。
「何でもいい」私が言う。
 彼の視線が私のあごの線あたりをなぞっている感覚が分かる。昔とまるで逆だ。彼もそう思っている。同じ思い出をたどっているのが分かる。
「何でもいいよ。」
 あの頃は、デートの度に彼はそう言って、手にした楽譜を読みふけっていた。ウェイトレスさんを呼んで、色々注文するのは私の役目。「これでいいのか?」と何度も確かめて、そのたび生返事だけ返すくせに、出てきた料理に必ず難癖をつけて、文句を言いながら全部きれいに平らげる。それが彼だった。
 今から思えば、鼻持ちならない、嫌な男だ。なんだってこんな男に惚れたんだか。
「いつ日本に帰った?」帰ってくんじゃねぇ、ウザ男。
「今年の冬」彼は言った。「東フィルのオーディションに受かって」
「それはオメデトウ」私はありったけの嫌味を込めて言った。
「そっちだって仙台フィルの二プルだろ」彼は言った。「その年で、すごいじゃん。」
「東フィルの方にそう言われると嬉しくって涙が出る。」
「・・・帰国の連絡、しなくてごめん」下を向いて言っている。
「連絡受けたらこっちが日本脱出してた。」
 彼は視線を上げて、また下げた。なんだ。ペース狂うな。そんな困った顔するなよ。こっちがいじめてるみたいじゃんか。
「ランチプレートのかた」ウェイトレスさんの屈託のない明るい声が降ってきた。
 テーブルの上に散乱した譜面を片付ける。片付けるにしても、順序がある。チェック済の部分と、未チェックの部分。見ると、彼の方はとっくにバイオリンのパート譜を片付けて、きれいになったテーブルにお料理を並べてもらっている。昔から、要領のいい男だった。イライラする。
「ちょっと待ってください」と、ばさばさ譜面をそろえながら言うと、メガネのウェイトレスは、片手にプレートを持ち、もう片手には隣のテーブルから片付けたお皿を持って、にっこり愛想よく、「大丈夫ですよ〜」と答えてくれる。プロだ、と感心する。昔のしがらみ引きずってコンマスいじめるチェロのトップってのは、プロとは言えないな。なんとか片づけて、目の前に置かれたプレートを見る。しばし色んなことを忘れる。
「いただきます」と手を合わせて、パンをちぎってカレースープに浸して、口に入れた。美味しい。たまらん。ターメリックを我らに与えたもうた神に感謝。
「変わらないな、それ」彼が言う。
「それって?」サラダを頬張る。
「いただきますってさ」
「日本人として当然だろう」
「ザルツブルグでも、それやってたのか?」
「やってたよ。どこに行っても、私は日本人だ」そんなに親しそうに話しかけてくんな。
「男みたいに話すのもか?」彼が言う。
「ドイツ語に男言葉も女言葉もあるまい」私は言う。
「ずっと会いたかった。」
 チキンを膝に落っことしそうになった。「はぁ?」
「会いたかったんだ。だから今回のオケに応募した。シズカが参加予定だって、事務局から聞いたから。」
 そう来たか。そう直球を投げてきたかよ。だったらこっちも考えがあるぞ。
「スープをぶっかけるのはやめてくれ」彼は言った。「楽譜が汚れる。」
「・・・じゃあ、何をぶつけてほしいか言え」私は言った。
「まず話し合いで解決するのが民主主義国家だろう。」
「武力を持たない国家など国家ではない。」
「フォークを放してくれ。怖いから。」
 手にしたフォークで、チキンを突き刺した。コショウ入れとか、投げつけてやればいいのか。
「・・・エリザとは切れたのか?」代わりに言葉のナイフを投げつけた。
「・・・」小さくうなずいた。
「いつ?」
「・・・シズカがザルツに行って・・・3か月くらいかな。」
「たった3か月?」ざまあみやがれ。
「ざまあみろって思っただろ、今。」
「ふつう思うだろ。」
「・・・ふつう思うよな。」
「で、昔の彼女とより戻そうと、かつての母校に足をお運びになったわけですか。」
「そうだよ。」
 今だ、とコショウ入れに手を伸ばしたら、ブロックされた。「武力行使はよくない。」
「言葉の暴力ということを知ってるか?」
「愛と和解の申し入れの言葉が、暴力かよ。」
「裏付けも根拠もない愛の言葉は、暴力に等しい」私は言った。「コンマスという立場を利用したセクハラと言ってもいいぞ。事務局に抗議して、コンマス辞任を要求しようか。」
「裏付けも根拠もあるよ」彼は言った。
「こちらにはない」私は言った。「双方向で成立しなければ、和解も愛も存在しない。それはただの『片思い』というやつだ。」思いっきりの嫌味を込めて言った。
 彼はひどく傷ついた顔をした。どうも調子が狂う。さっきからそうだ。こんなに直接的な物言いをする男でもなかったし、こんなに感情を表に出す男でもなかった。もっとカッコつけて、斜に構えて、颯爽とバイオリンに向かっていく男だった。
「音が痩せたんだ」彼は言った。
 シズカがザルツブルグに行ってしまって、すぐに、音が変わった。その前から、シズカに会ってなかったのに、ずっとエリザがそばにいたのに、シズカがミュンヘンから発ったその日から、急に音が変わった。何が変わった、とうまく言えない。違和感がある、としか言えない。弾いていて、聞いていて、何か音の中にある違和感が消えない。どんどん気分が悪くなる。乗ってこない。それでも無理やり弾いた。仕事は順調だったから。
「でも怖くなったんだ」彼は言った。「周りが、その音の変化に気づかない。今まで通り、いや、今まで以上に、誉められたし、仕事も来た。」
 俺はこんな音を出すバイオリニストとして認められるのか、と思った。一生、この違和感を抱えて、舞台に立ち続けるのか、と。
「私と別れた方が、売れる音が出たってことじゃないのか」私は言った。
 正直、そこはよく分からない。音に対する違和感を感じていたのも、俺だけだ。一番そばにいたエリザにも、音の変化は分からなかった。
 たぶん、音が変わったんじゃない。俺自身が変わったんだ。シズカがザルツブルグに行って、もうシズカと一緒に弾くことがない、と思った時に、俺の中にぽっかり穴が空いた。穴の空いた俺と、俺のバイオリンがしっくりこない。
「だったらバイオリンを替えろ」私は言った。
「どうしてそんなに冷たいんだ。」
「お前が私を裏切って他の女に走ったからだ。」
「・・・それはその通りだ」彼は言った。私はフォークを握ったけれど、プレートの上は空だった。そのままフォークを置いて、ため息をついた。
 相手がただの女なら、あそこまで傷つかなかったかもしれない。エリザが色気ムンムンでどんな男でもクラクラするようなスーパー美女だったら、そんなに傷つかなかったかもしれない。エリザは私と同じチェリストで、美人だったけど、まぁ普通の美人だった。私だって、出るところに出れば美人チェリストと呼ばれることもある。
「今でも美人だよ」彼が言った。塩入れをすかさず取って、投げつけた。胸にあたっておたおたしている。やっぱりコショウ入れにしてやればよかった。
 エリザと私を分けたのは、チェロの音だった。初めてアカデミーで彼女の音を聞いた時、はっきり私は打ちのめされた。技術じゃない。クラシック音楽が生まれた欧州の歴史の厚み。音の後ろにある時間の厚み。彼女の音は豊饒で、熟成されていた。私とほとんど同じ年齢なのに、私が苦しんで苦しんで届いた高みを、生まれた時にはすでに飛び越えている。民族の音。血の奏でる音。
 才能とか、努力とか以前の問題だ。そこまで私を打ちのめした相手に、男まで取られた、私の絶望が分かるか。
「ザルツブルグに逃げても、エリザの音が追いかけてくるんだ」声がうるんだ。あれ、と思ったら、自分が泣いているのに気が付いた。こいつ、殺してやりたい。あの頃の私の地獄を思い出させやがった。もう絶対に思い出したくなかったのに。
「ザルツブルグで、子供向けのリトミック療法をやっている友達の手伝いをした」必死にこらえた。「子供たちに癒してもらった。歴史とか、血とか、そういう相手と闘うのは、意味がないと教えてもらった。もっと自然に、音に対して素直になれと教えてくれた。」
 私は色んなことを諦めた。エリザと同じ高みに立つことを諦めた。音楽は、高みに向かおうとする力だ。運動だ。ベクトルだ。結果として、高みに立てる人もいる。立てない人もいる。でも、目指し続ける。その過程を楽しむ。その瞬間の運動の力が、位置の差が、運動エネルギーが、人の心をつかむんだ。人は飛べない、でも飛ぼうとする、その姿を通して垣間見える一瞬の風景が、人に感動を与えるかもしれない。人の心を癒すかもしれない。それを信じて、飛ぶ。
「仙台フィルは、被災地向けの演奏会が多いから、自分の心も癒される」私は言った。言いながら気づいた。そうか。私の傷はまだ癒えていないんだ。だから目の前にいる男に、こんなに心乱れるんだ。「私をそっとしておいてくれないか。私はまだ治療中の身なんだ。」
「俺がエリザに走ったのは」彼は言った。「エリザの音楽に惹かれたんじゃない。お前の音楽についていけなくなったんだ。」
 俺は逃げたんだよ。エリザに。お前と一緒に高みを目指す旅から、脱落したんだ。
「言ってる意味が分からない。」
「エリザに言われたんだ。コーヘイは、どこまでシズカについていくんだって。」
 ヨーロッパはもう、昔のヨーロッパじゃない。19世紀に生まれたクラシック音楽は、今のヨーロッパでは既に受け入れられていない。モーツァルトもベートーベンも、ワーグナーもシュトラウスも、みんな死んでしまった。シズカはひたすら亡者を追いかけている。失われてしまった音を、今は誰も耳を傾けようとしない音を追いかけている。墓場を暴くような音楽に、どこまで付き合う気なんだと。
「エリザは正しいと思う」私は言った。「あの頃の私の音楽は、楽譜の中にどこまでも沈み込んでいく音楽だったから。」
 エリザにとっては正しかったかもしれない。でも俺にとっては間違いだった。エリザみたいに、ヨーロッパの血脈の中にいる人間が目指す今の音楽の、表面だけをとらえてしまった。シズカの音楽の深みに気づかなかった。音符の一つ一つ、演奏指示の一つ一つに込められた作曲家の願いを、彼らの目指したものを、ひたすら極めていく作業の地味さに飽きていた。同じ人間として理解できる精一杯を追及していく、気の遠くなるようなその作業の果てにあるものを疑ってしまった。アジア人の自分たちが、クラシック音楽の高みに至る唯一の道なのに。その道を必死に歩んでいるシズカの音に惹かれたのに。その道を共に歩むことで、世界の全てが光り輝く一瞬を目にしたこともあったのに。
「おれはエリザに惹かれたわけじゃない。ただ逃げたんだ。お前から。」
 エリザと何度も衝突して、結局別れて、一人になっても、音の違和感は消えなかった。俺の中に空いた穴は埋まらなかった。ザルツブルグに、シズカを探しに行こうかと思った。でも、どの面下げて行けるか、と思い直した。シズカにふさわしい男になるまで、シズカが目指したものを自分が得られるまで、会えない、と思った。もう一度、一から勉強しなおそうと。
 仕事を全部キャンセルして、アカデミーの初等部からやり直した。楽譜を毎日読みふけった。シズカだったら、どうするだろう、何を見つけるだろうと思いながら、音楽にもう一度向き合った。あの日からずっと、俺はお前と一緒に、音楽をやってきたんだ。
「気持ち悪いこと言うな」私は言った。「ストーカーみたいだ。」
「・・・そうだな」彼は言った。「全部おれの思い込みだ。お前の気持なんか、全然考えてない。ただの一方通行だ。」
 なんでそこで反省する。昔の彼なら、不貞腐れて黙りこんだのに。なんでそこで自分を責めるんだ。
「このオケの演奏会が終わったら」と彼は言った。「一度合奏しないか。」
「頭がおかしいのかお前は」私は言った。「私が全身でお前を拒絶しているのがまだ分からんのか。」
「もう一度付き合ってくれ、とは言わない」彼は言った。「ただ、一緒に音楽をやりたい。今のシズカの音と、今の俺の音が、どんな風に交わるのか、聞いてみたいんだ。」
 私は一瞬くらっとした。いかん。自分を保たねば。「絶対いやだ。」
「シズカも変わったはずだ。ザルツブルグで、違う音楽を見つけた。俺も変わった。自分の音楽の芯を見つけた。今の二人の音楽が、どう響くのか、シズカは聞いてみたくないか?」
「聞いてみたくない」私は言った。「さあ、時間がない。譜面のチェックを終わらせよう。」
「一度だけでいいんだ。演奏会が終わった後、本当に一度だけでいい。」
「嫌だと言ってるだろう。」
「どうすれば一緒にやってくれる?」
「雪でも降ればね」私は言った。「今すぐこの町が雪に包まれて、電車もバスも止まって、この店に私たちが閉じ込められて、しばらく身動き取れないっていうのなら、今ここで、二人で合わせてあげてもいい。」
「・・・なんでそんな無茶苦茶言うんだ」しばらく絶句して、彼は言った。「今は6月だぞ。」
「そういうことだよ」私は言った。「何か奇跡でも起こらない限り、私とあなたは合奏しない。もう一度付き合うこともない。一度プロとして引き受けた以上、この演奏会では同じ舞台に乗ってやる。でも今後、二人で同じ舞台に乗ることは、絶対にない。」
「・・・俺はそれだけの罪を犯したのか」彼は言った。
「私はそれだけ傷ついた。そしてまだ傷は癒えていないんだ。」
 彼はテーブルの上の自分の手に目を落とした。私も彼の手を見た。すらりと伸びた長い指。バイオリンの上を舞うたびに、足元から根こそぎ持って行かれるような飛翔感を与えてくれた、魔法使いの指。何度も私の体に触れた指。私の体の深いところも知っている指。
 もうこの指に触れられることはない。二度とない。失われたものは戻ってこない。
 永遠に。
 その時、世界が一瞬モノクロになった。え、と思った瞬間、床が振動するほどの大音響が轟いた。店中の人が窓の外を見た。そして再び、激しい雷光。
「通り雨?」彼がつぶやいた。
「ゲリラ豪雨っていうんだ」私は言った。「最近多いんだ。」
「雪になるかも」彼は言った。
「・・・本物の馬鹿だな、お前は」私は言った。
 そして、雹が降りはじめた。
 
4. 6月24日 14時55分

 アケミはどんなお客様に対しても、どんな状況下におかれても、常に笑顔を絶やさない。それがウェイトレスとしてのプロフェッショナリズムだと思っている。かしましいオバサマ方のオーダがどれだけ混乱しようとも、しつけのなっていないクソガキが金切り声をあげて店内を走り回ろうとも、アケミは笑顔を絶やさない。店のマスターである私に対してもその笑顔は変わらない。ビジネス上の上司と部下、という関係性を、この笑顔の仮面で演じきっている。そのプロ根性には、いつも脱帽する。
 しかし、彼女が雷にこんなに弱いとは知らなかった。そして突然大量に空から落ちてきた氷の粒にもおびえて、厨房の隅で震えている。まぁいいか。この天候では新規のお客様も来ないし、今いるお客様もしばらくは足止めだ。窓から見える駅前のロータリーはすっかり真っ白になり、立ち往生しているバスが見える。排水溝が氷で埋まってしまって、冠水した道路をのろのろ走る自動車が水しぶきを上げている。
「すみません」と、レジから男の声がした。
「はい?」と答えて、アケミを見た。猫のように背中を丸めて震えている。やれやれ。自分でレジに向かう。
「突然変なお願いなんですが」レジに立った男が言った。息が荒い。目が燃えている。「今、ここで、楽器の演奏をしてもいいですか?」
「はあ?」聞き返した。
「どうせお客様も足止めですよね?しばらく、生演奏を楽しんでいただく、というのはダメでしょうか?バイオリンとチェロの合奏なんですが。」
「いや、それは」と言いかけた。近所に音大があるのと、天井が高くて音が響く店構えのせいで、時々、「サロンコンサートに使わせてほしい」なんて言ってくる学生がいる。悪くない気もするが、一チェーン店の店長として、独断でできるイベントの範囲を超えている、と、いつも断ってきた。本格的な防音処理をしているわけでもないから、上下階のテナントへの気兼ねもある。
「是非お願いします」と、背中からか細い声がした。振り向くと、真っ青な顔の上のメガネが光っている。怖い。
「バイオリンとチェロの二重奏はあんまり聞かないですけど、モーツァルトにありますよね」アケミが言った。なんでそんなことを知っている?
「ケッヘル423番」男が言った。「いいですか?」
「モーツァルトが聴きたい」アケミが地の底から這いあがるような声で言った。「この異常気象が人類の滅亡の序曲でないと私に信じさせてくれるのは、モーツァルトの音楽であると私は思います。」
「モーツァルトは人類を救う」男は言った。「僕もそう思います。そしてこの異常気象を、音楽が奇跡に変えるのです」
 そして去った。
「アケミちゃんはクラシックに詳しかったのか」私は言った。
「マスターも救われたければモーツァルトを聴きなさい」アケミは言った。何かが憑依しているようだ。
 チェロとバイオリンの調弦の音が聞こえ始めた。ざわついていた店内が、少し静かになった。雷鳴の名残が、遠くで小さく鳴って、消えた。

(了)