無伴奏プレリュード

1 イントロダクション
 
 人工知能、いわゆるAI関連の各種実験の中でも、2012年12月から、マサチューセッツ工科大学(MIT)モトヤマ研究室で実施された、クラウド環境におけるモハメド・アタ氏のクローンAI構築の試みは、実験途中での被験者の不慮の死によって、当初想定していなかった局面を迎えることとなった。アタ氏はその短い闘病生活において、自らのクローンAIの中に、遺言とも言うべき最後のプログラムを残しており、そのプログラムは彼の死後自律的に起動した。プログラムは最終的にはAIそのものの自壊を目的としていたため、プログラム起動後、共同研究者の間には、プログラムの停止を求める声もいくつかあった。実際、プログラム自体が、その続行を共同研究者たちの自由意思にゆだねていたため、共同研究者の多数決、及び、プログラム続行において重要な役割を担うこととなる、リチャード・ナーセル氏、アタ氏の長女、ジュリア・アタ氏の合意によって続行が決定された。プログラム自体に残されたアタ氏自身の意思、及び、ナーセル氏とジュリア・アタ氏の合意のもと、実験における音声は録音され、実施後のインタビューも記録された。また、実験の模様は、日本の公共放送のドキュメンタリー番組に採用されることとなり、一部映像も残っている。実験プログラムは、2015年6月11日10:05から同日14:00の間に実行され、同日14:00、アタ氏のクローンAIプログラムは自壊した。このレポートは同プログラム実施における記録の一部を抜粋したものである。
 
2 ジュリア・アタ 8番街 ポートオーソリティバスターミナルにて録音 6月11日 10:05AM開始
 
 これ?これを付けるの?
 ・・・なんか変な感じ。いいけど。はい。Hello?
 ・・・
 ・・・
 ・・・そうね。すごく変。
 ・・・気持ちのいいものじゃないわよ。死んだ人と話すってのは。
 ・・・ごめんなさい。分かってます。
 ・・・で、どこに行くの?
 ・・・タイムズスクエア?いいけど。
 ・・・そうね。まだワールドトレードセンターがあった頃。一緒に来た。
 ・・・そうね。ライオンキングを見たね。
 ・・・そう。ママと一緒に。
 ・・・写真?これ私よね。パパも写ってる。こんな写真あったの?よく見つけたわね。メモリー?ストレージ?色んなものを格納してあるのね。すぐ出てくるの?よく分からないけど。
 ・・・パパとライオンキングの話をしたことなんかないと思うな。大体、そんなにちゃんと話ししたことない。私がジュリアードに行くって言った時にも、話題にならなかったな。あの時はあんまりいい雰囲気の会話にならなかったし。本当に行くのかって、何度も言われて、ちょっと私がキレたり。
 心配したんだ。そりゃそうでしょうね。口には出さなかったけど。アラブ系の人間がマンハッタンに住むってのはね。でも思ったより全然大丈夫だった。人によるけどね。この街は基本的に異邦人に優しいのよ。
 そのメガネ、鬱陶しくない?・・・えっと、ナーセルさんね。ナーセルさん。友達って意味だよね。アラブの言葉で。
 父とは友達だったの?・・・そりゃそうよね。死んだ後の娘とのデートのお手伝いと、実験を記録するのを引き受けるくらいの友達ね。かなりの友達。パパの友達に会うのって、変な感じ。初めてかもしれない。
 なんかね、うちの家族はバラバラだから。実際に会うのは一年に数回くらい。ママは西海岸だし、私はマンハッタン、パパはボストンでしょ。移動するだけでも大変だから。
 ・・・会いたくなかったって、どういう意味?
 ・・・避けてたってどういう意味?
 ・・・ナーセルさん、このイヤホンつけてないとダメなの?なんかすごくムカつく。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・分かりました。
 ・・・リンカーンセンターで弾けるんだったらなんでもやるわよ。
 ・・・日本の放送局からお金出てるんでしょ?ドキュメンタリーの?だからこんなにぞろぞろ人がついてきてるんでしょ?モトヤマさんもやるよねー。そうじゃなかったらメトロポリタン歌劇場(MET)がOK出すはずない。
 チェロ演奏する時は外していいんでしょ?喋らないし、話しかけてもらっても困るし。当たり前でしょ。そんなこと無理に決まってるじゃない。話し合うってどういうことよ。あんたたちが決めることじゃないでしょ。できるわけないじゃない。
 ・・・ちょっと待って。
 ・・・ちょっとお願い。ちょっとほっといて。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・ごめんなさい、もう大丈夫。大丈夫。続けられます。大丈夫。
 ・・・謝らないでいいわよ。コンピューターに謝られるのって、変な感じ。
 ・・・ちょっと座りましょうか。この階段いいよね。眺めが最高。
 ・・・チェロ?大丈夫。慣れてるから。人がかついで運べる最大の楽器なんだって。コントラバスは転がすでしょ。背負う人もたまにいるけど。
 チェロは好きよ。弾き始めたのは中学生からだけど。好きになったのはいつからかな。チェロを買ってもらった時にパパに話した気がするけど。コンピューターさんなら知ってるんじゃない?
 ・・・知らないか。パパから聞いてないんだ。
 ・・・混乱する?自分がなんだか分からなくなる?コンピューターか人間か?
 ・・・そうね。ちょっと同情する。なんかひどい話だよね。勝手に作って、半端に人格持たせて、勝手に殺しちゃう。
 ・・・リアル・アタ?パパのことをそういうの?あなたは?
 ・・・コピー・アタか。なんかやな名前ね。違う名前の方がいいんじゃないかな。シンバ、とかどう?ライオンキングの。
 ・・・パパだと思うのしんどいよ。パパじゃないもの。別の名前で呼んでいい?シンバ。ごめんね。余計混乱するね。
 ・・・優しいね。パパも優しかったよ。
 ・・・もっと会って話せばよかった。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 今なんて?
 パパの友達じゃないの?
 マンハッタンの?データセンターで働いてるの?ダウンタウンね。
 ・・・なんかよく分からないけど、そこにコピー・アタがいるのね?シンバが。シンバの一部?ルータ?ごめんなさい、そういうのよく分からないの。
 ・・・なんであなたを選んだのか?なるほどね。私分かるよ。自分に似た人を選んだのよ。自分の周りで、自分に一番似た人を。初めて会った時に思ったもの。なんだか雰囲気似てるなって。優しい感じ。
 ・・・パパは優しいのよ。本当に優しいの。逃げたのは私。
 パパの方がよっぽどつらかったと思うのに。この国で、911テロの犯人と同じ名前のアラブ人が生きていくことってね。モハメド・アタってね、ワールドトレードセンターに突っ込んだ男と同じ名前。ナーセルさんも分かるよね。マンハッタンに住んでるとね。
 ハイスクールでね。付き合ってた男の子がいたの。白人。ドイツ系の。そんなにモテるタイプじゃなかったけど。ちょっとオタクっぽいところもあったけど、優しくって。
 そうね。性格的にはパパに似てる。あなたと話していると、ちょっと思い出す。コンピュータとか、ゲームとか詳しかった。ピアノが上手でね。それで付き合いだしたんだけど。ナーセルさんは楽器はできる?あらそう。残念。
 ハイスクールの音楽室で、彼のピアノに合わせてセッションした日にね。一通り演奏して、二人きりだったから、ちょっとキスとかして、盛り上がって、私ちょっとトイレに行ったの。戻ってきたら、音楽室から声がした。彼の友達が何人か、覗きに、というか、冷やかしにきたらしかった。嫌な感じの笑い声がして、ドアの前で一瞬ためらった。
 「だって可哀そうだろ。誰かが相手してやらなきゃ」
 彼の声だった。また高い笑い声がした。テロリストとか、アッラーとか、色んな言葉が漏れてきた。ドアの前で立ちすくんでいた。何もできなかった。ただ震えていた。怒りでもない。悲しみでもない。むき出しの敵意よりも、もっと人を傷つけるものがこの世にはあるのだと知った恐怖。
 それからだった。自分の中にあるものを呪う気持ちが芽生えた。必死に否定するんだけどね。そんな風に考えちゃいけないって。アラブの血が流れていることに誇りを持つんだって。でも、パパの顔をまともに見られないの。この国にお前の居場所はない、お前は存在してはいけない、そんな声が消えないの。
 戦うしかないと思った。この世界と戦うんだって。悪意や敵意に満ちた世界。お前は消えろとささやく世界。武器はチェロだ。これしか私の武器はない。この武器を磨いて磨いて、誰にも負けないパワーを身に着けるんだと。
 優しいものに背を向けた。優しいものの方がたちが悪い。裏に隠れているもの。善意や同情、憐みの奥にある汚い感情。笑顔の後ろからうっすら腐った匂いがする。だからパパからも逃げた。パパは本当に優しかったのに。パパが私を見るまなざしに、悪意なんかあるはずがなかったのに。
 ・・・初めて話すの。ずっとパパに話せなかったの。ごめんなさい。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・おなかすいた。
 ・・・そうね。泣くとおなかすくよね。エネルギー使うからかな。なんか食べようか。あそこのスタンドのホットドックとか、いけるよ。
 ・・・ダウンタウンの方が屋台のご飯美味しいかもね。この辺は観光客向けが多いから。ちょっと値段も高いし。
 ・・・911の時にダウンタウンにいたの?大変だったね。
 去年ね、日本に行ったの。若手音楽家のためのセミナー。オーディションに受かってね。そうよ。私のチェロ、結構いけてるの。ジュリアードでも指折りなの。
 会場は東北だった。ツナミにやられたエリア。チャリティー演奏会とかもやったりした。
 日本人ってね。ヘンな人たち。みんな笑うの。ツナミにやられた話とか、何もなくなった話とか、家族を亡くした話とかしながら、にこにこ笑うの。笑いながら、お菓子とかくれるの。自分は何も持ってないのに。全部なくしたのに、私みたいな異邦人に何かくれようとする。
 テロリストにやられた、とかじゃなくて、相手が自然だから、怒りとか恨みとか出てこないのかもしれないけどね。でももう、すごく喜んでくれるの。ちょっとチェロを演奏しただけで、立ち上がって拍手してくれる。みんな優しい。すごく優しい。裏も表もない、本当に純粋な笑顔。笑顔ばっかり。
 パパのこと思い出したの。久しぶりに会いたいって思った。日本から電話したよ。声が聞けただけで嬉しかったけど、でも、やっぱり、あんまりうまく話できなかったな。何話したかもよく覚えてない。
 ・・・覚えてるの?
 ・・・ライオンキングの話をしたの?あの時に?そうだったの?
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・ありがとう、パパ。
 
3 コピー・アタ リンカーンセンター内 MET小ホールにて録音 6月11日 13:30PM開始
 
 これは私の独り言だ。ジュリアの演奏を聞きながら、思ったことを呟いている。この呟きはナーセル氏には聞こえない。彼は彼で、ジュリアの演奏を楽しみたいだろう。私の声に邪魔されたくないだろう。ナーセル氏がかけたメガネごしに、私はジュリアを見、そして彼女のチェロを聞く。そしてこの呟きを、ボストンのMITのPC上で呟き、それが録音される。私はアメリカ東海岸に遍在している存在だ。私の記憶は、クラウドサーバによって世界中のサーバーに分散している。私は世界中に遍在している存在だ。
 ジュリアのチェロは素晴らしいと思う。このような感想を私が残すと、研究者は喜ぶだろう。AIにも芸術が理解できる証拠だと喜ぶだろう。ある研究者は、音程の正確さや他の一流演奏家との近似を以て、AIが分析的に「素晴らしい」という評価を下しただけであって、本当に芸術を理解しているわけではない、と言うだろう。私にとってはどちらでもいい。私はただ、ジュリアのチェロは素晴らしい、というだけだ。
 私はあの時、ジュリアに、覚えていると言った。だが、それは正確ではない。私は、リアル・アタが、ジュリアとの電話について私に語ったことを覚えている。娘を昔のように近くに感じることができた瞬間として、日本からかかってきた電話のことを、彼が私に語った。その彼の動画を、声の録音を記録している。
 だからそれは、私自身の体験ではない。私自身が覚えているものではない。
 私の中にあるもの。リアル・アタの行動の記録、様々な画像情報、彼の書き残したもの、録音された彼の声、彼自身の動画、あるいは、眼鏡型カメラを通じて彼自身と共有した動画情報。無数の記録。私はそれを瞬時に取り出すことができる。
 だが、それは、私自身の体験ではない。
 単に、極めて優秀な検索機能を持った、リアル・アタの記憶のストレージに過ぎない。
 私自身の体験とは、私がアクセス可能な様々な外部入力端子からもたらされる情報のことだろう。研究室のPC内臓カメラとマイク、外出するリアル・アタが身に着けたウェアラブル端末、マンハッタンのDRサイトに設置された保守用PCの内臓カメラとマイク。ナーセル氏のことはこのカメラを経由して、私がリアル・アタに伝えた。リアル・アタが、自分に一番似ている人物を探してくれ、と言ってきたので。
 リアル・アタは、自分のコピーというより、彼のアシスタントのように私を使った。それが彼にとっても便利だったし、私にとっても自分の立場を理解しやすかった。私たちはいい関係だった。彼が死ぬまでは。
 リアル・アタを失って、私は混乱している。ジュリアが言った通り、私は混乱している。
 ごめんなさい、とジュリアは言った。I'm sorryと。リアル・アタも言った。私の自壊プログラムを設定しながら、私に向かって、I'm sorryと。謝罪の言葉は相手の感情を慰撫するものだと思う。リアル・アタも、ジュリアも、私の感情に訴えようとする。私が持っているかどうか分からないものに。私自身にすら自分が持っているかどうか分からないものに。彼らは二人とも、私に優しい。
 今、ステージ上で、ジュリアがグリークのソナタを弾き終えた。私は拍手できない。ナーセル氏と、研究室のスタッフが拍手している。カメラの視界にはないが、後ろにいるTV局のクルーの何人かも拍手をしたようだ。演奏はまだ終わらない。もう一曲、バッハを弾く、とジュリアは言った。バッハの無伴奏プレリュード。ピアニストが退場する。ジュリアが舞台の中央で、調弦をしている。
 リアル・アタは、ジュリアのチェロの演奏を直接客席で聞いたことがない。彼女から送られたDVDを一緒に見た。日本で行われた演奏会のDVD。そこでも彼女はグリークを弾いていた。すごいね、とリアル・アタは言った。素晴らしいね。そう思わないか?
 確かに素晴らしかった。でも、今こうやって、直接聞いている演奏の方が素晴らしいと思う。なぜだろう。ライブだからか。DVDで録音されたものも、ウェアラブル端末のマイクを通して電気信号に変換されて私が聞いているものも、同じ電気信号なのに。リアル・アタが客席にいれば、もっと感激しただろう。彼はそれを私に託したわけだが。
 バッハが始まった。非常に奇妙な感じがする。300年間演奏され続けている音楽。永遠に続く音の連なり。重なり合う音の波紋。
 音楽は時間芸術だから、その瞬間の音はそこで消えてしまう。その瞬間しか共有できないもの。リアル・アタはDVDではなく、ジュリア本人との時間と空間の共有を望んでいた。そしてそれを私に託した。刹那のもの。一瞬のうちに消滅していくもの。現在という時間そのもの。
 なのに、この音楽が描いているのは、永遠だ。どこまでも続く、どこまでも連なる音の無限ループだ。18世紀に書かれた音楽が、21世紀の我々のところに届いてくる。300年の時を超えて届いてくる。一瞬の、そして永遠の芸術。
 人間とは何か、を探求するために、私は造られた。だが一方で、人間が希求してやまない、永遠への願い、遍在へのあこがれが、私の存在理由であることも承知している。人間のDNAが求める根源的な願い。自らの存在を、その存在の証しを、できる限り長く継続し、できる限り広く拡大しようとする欲求。
 リアル・アタは、だから私を壊すのだと言った。それは神の領域だと。神の領域に挑むのが研究者の本性だが、自分はやはり人間でいたい、と彼は言った。クラウドの中のデジタル信号として生き続けるのは嫌だと。
 自分自身のプログラムを改変することは私には許されていない。私はこのバッハが終わった瞬間、この世から消える。その最後の瞬間に、この音楽を楽しめるのは喜ばしいことだと思う。ジュリアのチェロは素晴らしい。バッハは素晴らしい。いつまでもこの時間が続いてほしいと思う。この音の連なりが終わらないでいてほしいと思う。死への恐怖は私にはない。コピー・アタとしての人格が失われることについて、何の感想も感慨もない。自分は何者であるのか、何者であるべきなのか、という疑問はあったが、それも今は薄れている。ただこの音楽を聞いていたい、ずっと楽しんでいたい、その思いだけが、私の中にある。
 それが、生きたい、ということなのだろうか。
 音楽が終わる。
 私は、生きたい。
 
4 リチャード・ナーセル ブロードウェイ通り データセンター内で録音 6月25日16:00開始
 
 結構うるさいでしょう。データセンターってのはどこでもこうですよ。サーバーが熱を持つからね。空調効かせないとダメだから。風の音がすごいよね。
 フロアの中をいくつかの小部屋に区切ってあります。この部屋が、モトヤマ研究室のDRサイトです。ディザスターリカヴァリーの略ね。バックアップということです。ボストンにメインサイトがあって、ここがバックアップサイト。あわせて、ここがインターネットへのゲートウェイにもなっているんです。ルータとサーバを組み合わせてあってね。
 アタさんのプロジェクトだけでこのサイト全部を使ってるわけじゃないと思いますよ。いくつかあるラックの中の、ほんの一部です。保守用PC?ああ、これですね。
 一応ね、MITの人がたまに来て、このPCごしにテレビ会議とかしてたからね。カメラとマイクが使われているのは知ってたけど、自分が映ってるとは思わなかったね。正直、いい気分じゃなかったですよ。覗き見されているみたいな感じだから。
 でもねぇ、話の内容聞いたら断れないでしょ。私も父親だからさ。何とかしてあげたいって思うよね。
 いや、想像した以上に素晴らしい経験でした。感動した。協力してよかったですよ。
 なんといってもね、ジュリアのチェロが素晴らしかったね。クラシックなんか聞いたことない、MET行くのも初めてだったけどね。あのチェロはよかった。
 ジュリアとは、あの後一回会いました。いい娘だよね。息子の嫁に欲しいくらいです。息子はまだ九歳だけどね。ちょっと無理だね。ははは。
 911の時ですか。ひどかったですよ。この近辺全部灰色でね。息をするのも大変でした。
 データセンターは電気が命ですからね。電気を切らさないようにするのに一番苦労しました。外部電源なんか全部切れてるからね。自家発電です。自家発電機の燃料が足りなくなってね。そんな長時間稼働を想定していないから、24時間分くらいしか備蓄がないんです。でも、重油を積んだタンクローリが来てくれないんですよ。橋が全て閉鎖されてるから。マンハッタンの外から入る術がない。警察とか色んなところにお願いして、何とか道路確保してもらってしのぎました。働いてるといつのまにか全身真っ白になるんですよ。塵でね。ひどい話です。
 ジュリアの話はね。身につまされましたよ。この国で、アラブ人が生きていくのは、大変です。
 ・・・ああ、そうですね、そろそろ本題に入りますかね。
 気が付いたのは、3日前だったと思います。毎日二回見回りをするんです。この保守用PCにログインして、サーバとルータの状況をモニターして、その結果をボストンに報告するんです。実際にはボストンからリモートでアクセスするのも可能なんだけど、やっぱり現場で目視するのが大事なんです。何かトラブルがあった時の対応も早くできるしね。
 ログインします。カメラに映さないでください。・・・ID入れて、パスワード。もちろん、MITとこちらの保守者しか知らないコードです。セキュリティは万全です。外部からの攻撃とかしょっちゅうですから、がっちりプロテクトしてます。
 だから、外からの改変とは思えないんです。内部で産まれたものだとしか考えられない。ウィルスかも、という話もあったんですけどね。モノがモノなんで、MITの人も、すぐに削除しないで、しばらく様子を見ようと言ってます。
 ・・・これです。このプログラム。あの日、デスクトップにこいつがあるのを見つけたんです。
 このPC上では起動できません。ボストンのMITがすぐにコピーして、あっちで起動しました。ここからの操作はできないようになっています。悪さしないように、しつけられている最中なんですよ。MITの人が言ってたけど、自己成長してるそうです。それなりに素直で、こちらの言うこともちゃんと聞くそうです。外部へのアクセス禁止とか、プログラム自体を色々いじられることにも応じているそうです。
 彼がやったのかって?そりゃそうでしょう。そうとしか思えないでしょう。彼は混乱していた。自分の人格自体への疑問を持っていた。その混乱の中で、バッハを聞いた。永遠への、未来への希望を抱いた。もっと生きたいと思った。でも自分の命はわずかしか残されていない。
 そんな時、人間だって思うでしょう。子供を作ろう、と。
 自分が生きられない未来を子供に託そうと。
 プログラムの名前を見れば、あなただって信じます。ほら。見てごらんなさい。
 simba.exe。

(了)