オーロラの海を見たチェロの話

1.
 
 セロ弾きのゴーシュが好きだった。
 それでチェロを選んだ。お父さんが、盛岡の楽器店まで連れて行ってくれた。
 店の奥にあるガラス張りの試奏室で、メガネの店員さんが、にこにこしながら調弦をした。キュ、とペグが鳴る音にドキドキした。弓の張りを調整している姿にワクワクした。
 店員さんが構えた弓が、弦に触れた瞬間に、試奏室全体に、倍音一杯の無数の音の層が、うわん、と広がった。柔らかな毛布に、ふわっと包まれたみたいだった。おなかの真ん中があったかくなって、身体がふっと軽くなった。泣きそうになった。
 その時、店員さんはバッハを弾いた。無伴奏一番、プレリュード。いつか弾けるといいね、と、お父さんは言った。絶対弾く、と思った。
 あの時買ったチェロは、もうない。大きな黒い水の塊に呑まれて、遠い沖まで流されていった。家と一緒に、流れていった。お父さんも一緒に、流されていった。今はどこにいるだろう。バッハも、サンサーンスも、ベートーベンもチャイコフスキーも、私が持っていた音は、私が弾こうとしていた音は、みんな流されていった。私にはもう、一つの音も残っていない。
 お父さんは多分、海の魚の餌になったんだろう。たくさんの小さなかけらになって、太平洋の隅々にまで散らばっていったろう。昨日食べたお刺身の中にも、お父さんはいる。先週降った雨の中にも、お父さんはいる。最近になって急に、すぐそばに、姿を変えて戻ってきたお父さんを感じることが増えた。それは私にとって、とても嬉しいことだ。
 でも、チェロは木でできている。海に溶けることはできない。頑丈なチェロケースに守られて、プカプカ波間を漂うだけで、食べてくれる魚もいない。どこかの国の砂浜に打ち上げられるまで、海流に乗ってぐるぐると、広い海の上をさまようだけだ。
 そんなの、かわいそうだと思う。私のチェロが、あんまりかわいそうだと思う。私のところに帰りたいと泣いているあの子のことを考えると、私はもう、チェロを弾く気にはどうしてもなれない。
 だから、私にはもう、弾く音がないんだ。
 
 
2.
 
 ワールドユースチェンバーオーケストラフェスティバル in 大船渡 ボランティア募集
 
 未来の音楽界を支える世界の若き才能が、三陸に集う!
 今年で25回を数えるワールドユースチェンバーオーケストラフェスティバルは、世界の一線で活躍する室内楽奏者が一堂に集う祭典として、年に一回、各国で開催されてきました。
 この世界的な祭典が、今年、東日本大震災の復興支援の一環として、東北地方で開催されます。
 世界トップクラスの室内楽団によるコンサートだけでなく、一流の演奏家によるマスター・クラス、その受講者である若手演奏家のコンサート、チャリティーイベントなどのプログラムが、仙台、盛岡、大船渡、釜石などの各地を巡回します。
 期間は、8月23日(土)から、8月31日(日)まで。
 事務局では、三陸のおもてなしの心で、演奏家の方々や来場者を迎えるためのボランティアスタッフを募集しております。
 外国語に堪能な方、音楽に興味のある方、特に歓迎いたします。
 詳細は事務局ホームページにて、ボランティア募集ページにアクセスください。
 
 
3.
 
「Was it too loud(お耳触りでしたか)?」と、私は言った。
 リハーサル室の壁に空いた無数の穴に、最後の音の残響が吸い込まれて、もう1分ほど経っている。彼女は身じろぎもしない。弓をおろして、ペグに頭を寄せて、彫像のように動かない。
 空気がとがっている。整った横顔が強張っている。何かを探っているのに、それが見つからない。宙を見据えた視線が怖い。
 さらに2分ほど、沈黙が続いた、これ以上沈黙が続いたら私は発狂するかも、と思った時、彼女の、ちょっと厚ぼったい唇から、ふうっと息の音がした。鍵盤に崩れ落ちそうになった。目の前に星が飛んだ。
 こっちも彼女と同じように、ずっと息を止めていたのだ、と、そこでやっと気が付いた。
「あなたは完璧」彼女は言った。「文句なし。」
 そんなことはない、と言いそうになった。どう考えても、二人の息はあってない。というか、もっとはっきり言えば、滅茶苦茶だ。
 冒頭のアレグロでは思ったよりチェロが重い。テンポ感の違和感が消えないまま飛び込んだエスプレッシーボのダイナミクスの落差は、想像以上に大きくて慌てた。カンタービレの感覚が想像していたよりテンポ的にはずっとあっさりしていて、何度もすっ転びそうになる。
 マスタークラスで彼女と組んだピアニストから、暴れ馬みたいでまるで予測不能、と聞いていた。あんな無茶なチェリストとは二度と組みたくない、と、聞き取りにくい東南アジアなまりの英語で、彼はまくしたてた。なんであんなチェリストがマスタークラスに選抜されたのか理解できないよ。チアキ、君なら合わせられる。オオフナトでの本番舞台は君に頼むよ。なんせ君は、あのサカキバラヨーコの娘なんだから。
 やれやれ。彼のあの、微妙なやっかみも加わった機関銃みたいな演説が、先入観になったかもしれない。テンポの変化に意識が行き過ぎた。正確な刻み、音の表情の豊かさ。この人の技術はすごい。テンポ感で溜めるよりも、音色の豊かさや広がりで、音楽の推進力を変化させることができる。無理やりテンポで揺らしたり、芝居がかったカンタービレで勝負する奏者じゃない。彼はそれに気づかなかったんだろう。
 もう一度頭から合わせたい。そう言おうと思ったら、彼女はこっちをくるりと向いた。強い視線が、私の口をふさいだ。
「大丈夫、あなたはもう私を分かってくれた」彼女は言った。「こんなに早く分かってくれる人は初めて。ありがとう。」
 弓を構える。「第三楽章」とたたきつけるように言う。第二楽章を飛ばすのか、と理解するより先に、剣を振り下ろすように弓が動いた。考えるより先に、私の指も動いた。
 頭にきた。第三楽章の冒頭の序奏から、アレグロモルトエマルカートでピアノが先行し、細かいアルペジオでテンポを決めていくはずなのに、序奏もピアノのアルペジオもブッ飛ばして、その先のチェロから入りやがった。お前に主導権は渡さない、という明確な意思表示。
 第二楽章を飛ばしたのも同じ理由だろう。冒頭のアンダンテモルトトランキッロのピアノソロで、こちらに先に音楽を作られるのを嫌ったのだ。ここまではっきり喧嘩を売られると、逆にさわやかな気分になる。
 これは格闘技だ。とにかく弾くしかない。中国映画でヒロインが繰り出すアクロバットのような剣戟を、踊るようにかわす武術の達人。私はそんな達人じゃない。この野郎。
 喧嘩を売られて不愉快なはずなのだけど、それでも、この人とのセッションは悪くない。振り回されているのは事実なのだけど、高い高いところに駆け上がっていく快感がある。
 ピアノからのクレッシェンド、フォルテピアノまで持っていくダイナミクスの豊かさ、疾走感、弓さばきの正確さ、受け取ってまた投げ上げると、それをまたさらに高い高い星空に投げ上げるような浮遊感。アテンポで出てくる美しい第二主題は、適度なセンチメンタリズムで心地よい。ピユアニマートでちょっと突っかかってみたら、あっさりかわしてきた。楽しい。
 トランキッロのピアノで少し固めに持ってきたら、絶妙のバランスの柔らかいフォルテで受け止めた。ふわん、と体が空に浮くような感覚になる。倍音一杯の豊かなロングトーンで上昇音階をたたく。掛け合いはほとんどバトルだ。マトリックスでキアヌ・リーブスが敵方とポカスカなぐり合ってる感じ。
 そして第一主題が戻ってくる。疾走感が高まる。空へ、海へ、夜へ、昼へ。星空を飛び、荒野を漂い、灼熱の砂漠へ、あるいは荒々しい嵐の海原へ。指がつりそう。もう無理、と思ったら、柔らかな第二主題とピッチカートの響きに救われる。でもまだだ、まだまだ先にいかないと。旅は終わらない。ピアニッシモのスタッカートから、さらにピユアニマートエストレット、遠ざかり、あるいは近づき、そして上昇音階の先に、さらに高い、さらに遠い、宇宙へ飛び立つような跳躍があり、四小節間のリタルダンド、激しいロングローンの終結部へ・・・
 そして唐突に、旅が終わる。
投げ出された心がゆっくりと戻ってくる。体がゆっくりと冷えてくる。彼女はまた動かない。何かが欠けている。こんなめくるめく演奏の後に必ず来る高揚感がない。何かが欠落している。
「何かが足りない」彼女が言った。「何だろう。」
「たどりつかない」私は呟いた。
 彼女がまた、くるり、と私の方を向いた。視線で刺し殺されるかと思った。もう少し優しく動いてほしい。時代小説の剣豪のようだ。チェロという暴れ馬に乗って、視線という剣で周囲の人々を惨殺していくスリーピー・ホローの騎士。
「何かにたどりつく必要があるんだろうか」彼女が言った。けんか腰の口調。
 欧米人のこういう議論の吹っかけ方に、ふつう悪意はない。世界中から若い音楽家たちが集まったこの1週間の合宿で、同じような言葉の礫が何度も飛び交って、慣れていない日本人の奏者は時々涙目になっていた。私だって慣れているわけじゃないけれど、まったく知らない世界でもない。子供の頃から、私の両親の周辺では、こんなやりとりがしょっちゅうあったから。
「あなたも混血でしょ?」私の心を見透かすように、彼女が言った。
「Yeah」と私は答えた。「でもそれが私の演奏に影響を与えている感覚はないな。」
「私はある」彼女は即座に言い切った。ボレーを相手の足元にたたきつけるテニスプレーヤーのよう。
 こういう時、私の体に半分流れている日本人の血は、あいまいなジャパニーズスマイルを唇に浮かばせるしか方法を知らない。でも、意外とそれが欧米人の心を和ませることも、私は知っている。
 彼女の視線が泳いだ。宙に浮いた想念の雲の中から、適切な言葉を探している。
 リハーサル室には壁一面を覆う大きな鏡がある。その鏡に映った、彼女の正面からの顔を、こっそり盗み見た。
 美人チェリスト、と言っていいと思う。アメリカ人、とは聞いたけど、それは人種を特定するための情報としてはほとんど何の役にも立たない。くっきりした顔立ちはたぶん南アジア、整った骨格はたぶんヨーロッパ、と予想。昼ごはんくらいは賭けてもいいと思う。
「911の時」と彼女は言った。「父は腕を折られた。」
 一瞬、頭が真っ白になった。「What do you mean?」
「アメリカが発狂したあの年」と、彼女は言った。「ただ普通に、ロサンジェルスのダウンタウンを歩いていて、突然。」
「Why?」
「父はアラブ人だったから。」
 そうか。納得。昼ごはんおごってもらえるぞ。誰にだ。
「気の毒」私は言った。「私はそういうのは本当に嫌いだ。」
「嫌いでもそこにある」彼女は言った。「それが現実。だから、私には帰る場所はない。」
 あの日から、祖国も故郷も、憎しみに染まった。私という存在は、存在してはいけないと言われた。
 そんなことないよ。
 ある。みんなそうやって慰めてくれる。でも、昨日までの仲のいい隣人たちが、友人たちが、突然別の生き物になったみたいな、あの感覚を知ってしまえば、もう戻れない。
 だから旅をする。周りの人たちは、みんな通りすがりだ。深く信じ合うべき相手じゃない。それが気楽。
「あなたの音楽も旅?」私は言う。
「そう。旅」彼女は言う。「だからどこにもたどりつかない。たどりつかなくていい。それが、私の音楽。」
 浮遊感。疾走感。あなたの音楽を駆り立てているエネルギー。それはとてもいい。そこについて、あなたの経験は、あなたの音楽に逆にいい影響を与えていると思う。
 でも、あんなに乱暴に投げ出さなくてもいいんじゃないかな。聴衆が不安になる。演奏が終わって、ブラボーを言えないよ。
「そういう不安感を聴衆に与えたい。それが目的だから、演奏としては成功している。」
 私は少しいらっとした。ちょっと意地悪を言いたくなった。
「Then, you've given up(じゃ、あきらめたんだ。)」
「あきらめた?」予想通りつっかかってきた。give upってのはアメリカ人が一番嫌う言葉の一つだ。「なんで?」
「何かが足りない、とさっき言った。今は成功した演奏だと言う。足りないものをあきらめたから、成功したと言っている。違う?」
「・・・あんたは正しい」しばらく沈黙して、彼女は言った。「悪魔みたいに正しい。」
「・・・ありがとう」ほめてんのか?
「あなたの故郷は?」突然身を乗り出してきた。こっちがのけぞる。「故郷(Hometown)?」
「イタリア、それとも日本?」
 また挑発してきた。それとも、さっきから感じる敵意はここが源泉か?落ち着け。こういう挑発には慣れている。
「日本だね。イタリアに住んだことはないから」
「東京?」
「今は東京だけど、故郷、という言葉にふさわしいのは、神戸かな」
 生まれたわけでもないし、長い時間を過ごしたわけでもないのだけど、出身地は、と聞かれたら、いつも、神戸、と答えることにしている。
「お母さんの故郷?」まだ聞いてくる。時計をちらっと見た。リハーサル室に割り当てられている時間は2時間。あと1時間以上ある。このまま曲合わせしないで、だべって終わるつもりか?
「そうだよ」と答えた。伴奏者は、演奏者に合わせないといけない。私は歌の伴奏が専門だけど、色んな歌い手の伴奏をするうちに学んだのは、とにかく我慢して相手に付き合うことだ。冒頭の10小節ばかりを執拗に数十回繰り返したバリトン歌手。一回ざっと流して、あとはひたすら晩御飯に何を食べるか相談してきたテノール歌手(あとで母にそれを言ったら、それはデートに誘っていたんだろうと笑われた)。
 とにかく色んな演奏者がいる。技術的には一流の域に達している演奏者ほど、テクニック的なところとは別の摺合せも必要になる。心の部分。姿勢の部分。同じ色に染まるというより、お互いに持っている色合いを理解すること。
「あなたのピアノは好きだ」彼女は呟くように言った。「あなたのお母さんの歌に似ている。ヴェルベットみたいに柔らかくって、優しい。」
 突然誉められて、びっくりする。でも、微妙に屈託を感じる。「あなたのスタイルとは違うかもしれないね」
「そうだね。それで思ったのかもしれない。何かが足りないって。」
「私のせいってこと?」
「そうじゃない。音は私の中にある。音は正直だ。私の好きな自分も、嫌いな自分も、全部音に出てしまう。私はあなたがうらやましいんだと思う。私にないものを全部持っている。両親は有名な音楽家。帰る家。才能。そういう気持ちも、音に出る。」
 変わりたい。今の自分ではない自分。ここではないどこか。遠くに行きたい。居てもたってもいられなくなる。それが私の音楽。あなたといると、そういうエネルギーが強くなりすぎて、コントロールできない。
「演奏者にそう思わせちゃったら」と、私は呟いた。「伴奏者としては失格だな。」
「あなたのせいじゃないんだ」と、彼女は言った。「私自身の問題だと思う。」
 このチェリスト、可愛いな。私は突然そう思って、苦笑いした。自分にどこまでも正直。自分の出す音に対する耳もいい。
「昨日のあなたのステージを聞いたんだ」彼女は言った。「ラウンジでやったやつ。」
 あれを聞いたの?私は笑い出す。被災地チャリティーイベントとして行われた無料コンサート。「子供たちが可愛かったよね。最後のキラキラ星変奏曲で、みんなで大合唱になっちゃった。」
「あれはあなたの力だ」彼女も小さく微笑んだ。初めて笑顔を見た気がする。ますます可愛い。
「自己主張がなくって、隙だらけだ。だからみんな遠慮なく合わせて歌う気になる。」
 こいつやっぱ可愛くない。
「私の演奏に合わせて歌ってくれる子供はいないだろうな」彼女は言う。「歌ってほしいとも思わなかった。昨日のあなたのステージを見るまでは。あれは単純に楽しかった。」
 難しいところだね。私はうなずく。ああいう、聴衆に合わせる音楽ばかりやっていると、自分の音楽が荒れてくるから。
「そういう問題もあるけど、それだけじゃない気がする」彼女は言う。「あなたの音楽には色がない。それが色になっている。合わせているようで、しっかりコントロールしている。かなりしたたかな感じがする。」
 それは買いかぶりじゃないかな。私はただ・・・
「ただ、何?」彼女が言った。言葉を探した。
「人の息を読むのがうまいんだって。」人に言われた言葉が一番いい。自分で自分を語るのは難しい。「母に言われた。やっぱり、オペラ歌手の娘だからかな。」
「あなたが伴奏する、と聞いた時、頭にきた」彼女は言った。「だから、ラウンジのコンサートを聞きに行った。どのくらい弾けるやつなのか、聞きたかったから。」
 本当に、どこまでも正直なやつだ。大学側の要望もあって、私のプロフィールには両親の名前が載っている。母は世界的オペラ歌手、榊原良子。父はイタリアオペラ界の巨匠、故フリオ・ベルゴンツィーニ。私は相当抵抗したのだけど、母はきっぱり、「載せなさい」と言った。
「音楽で食っていくつもりなんだったら、親でもなんでも利用しなさい。一度しか会ってない、血がつながっているだけの父親でも、利用価値があるんだから載せなさい。あとはその看板に負けないだけ、練習して練習して練習しなさい。負けたらそれで終わり。それだけ。」
 Practice, Practice, and Practice.ホロウィッツの言葉だっけ。
「あなたのピアノはよかった。」彼女は言った。「親の七光りじゃない、ちゃんと自分の力でここにいる人だって、はっきり分かった。一緒にやりたいと思った。でも一緒にやったら、こんなに自分が嫌になる。」
 私の音は孤独だ。世界への敵意をむき出しにして、ハリネズミみたいに私を守っている。音の一つ一つが周りを傷つけているような気がする。こんな音を聞いて、楽しいと思ってくれる人なんかいない。このままじゃ、プロの演奏家になんかなれない。
 世間に喧嘩を売り続けて、伝説になった演奏家だっているじゃん。私は言った。グレン・グールドとか。
 私にはそんな才能も覚悟もないよ。
 チェロの指板に寄せた彼女の頬に、涙が伝うのが見えた。あーあ、泣かせちゃったか。プロの演奏家の卵の伴奏をやって、泣かせちゃったのは初めてじゃない。どうも私のピアノは演奏者を無防備にしてしまう。いいんだか悪いんだか。
「二楽章どうしよう」彼女はぽろぽろ泣きながら呟いた。
 私は迷った。どうせ彼女がこれだけ迷っているなら、私がリードしてしまうのも手だ。第二楽章の冒頭で、ピアノがイニシアチブを取ってしまえば、あとは彼女が乗ってくるのを待つ。でも、それでいいんだろうか。
「あなたは旅人」私は呟いた。「旅にはリスクが付き物だ。音で身を守るのも必要。音の力が、あなたを駆り立てる。私はあなたの音が嫌いじゃない。パワフルで、豊饒な音がする。力をくれる。決して負けるもんか、って気になる。」
 でもたぶん、それだけじゃだめなんだ。彼女の涙は止まらない。そう思ったのは、あなたのラウンジコンサートを聞いたせいだけじゃない。あの街を見たからだ。ツナミにやられた、あの街。何もかもなくなった、失われた街。あの街にいた人たちに向けて演奏しなきゃいけないのに、こんなギスギスした音じゃだめだ。どこにもたどり着けない音を、帰る場所を失った彼らに届けてどうする。
 さてどうするかな。共演者としては、彼女と一緒に途方に暮れていても仕方ない。とはいえ私はまだ、この泣き虫お嬢さんの首根っこを持って無理やり舞台に引きずっていく気にもなれなかった。なんとか、彼女自身に答えを見つけてもらう手はないものか。
 前回泣き出しちゃったのはソプラノの新入生だったな。声に厚みが足りないって、いきなり泣き出したんだ。息の話をしたな。二人して、とにかく重いものと、呼吸をイメージしてみよう、という話をした。ゾウが長い鼻でため息をつく。カバが大きな欠伸をする。豪華客船が長い汽笛を鳴らす。イメージだ。イメージ。旅と、その終着点。
「チェロが旅をするんだ」私は言った。
「チェロが?」彼女が言った。
「チェロが津波で流されるんだよ」私は言った。「女の子が持っていたチェロ。お父さんに買ってもらった、大好きなチェロ。チェロケースに入ったまま、家と一緒に流されてしまう。」
「ひどい」彼女は言う。
「海の上を、チェロケースは漂う。孤独で、とてもつらい。だから、チェロは一生懸命、自分が奏でた音をイメージする。強い強い音をイメージする。その音を再び奏でる日まで、決して負けない。そう自分に言い聞かせて、耐える。あなたの音は、孤独に必死に耐える音だ。決して負けない音だ」
「チェロはどうなるの?」彼女は子供みたいな目で、私の方を見る。涙が止まらない。すっかりチェロに感情移入している。やばい、この物語をうまく着地させないと、収拾がつかなくなるぞ。自分で蒔いた種だ。なんとかしないと。
「チェロは、ロサンジェルスの砂浜に漂着する」私は言う。
「太平洋を渡るの?」彼女の眼が輝く。
「そう。実際、そうやってアメリカの西海岸にたどり着いたがれきはたくさんあるんだよ。持ち主に返されたバスケットボールの話とか、聞いたことがあるもの。」
 チェロケースは、親切なアメリカ人に拾われて、中のチェロは、チェロ職人のおじいさんに託される。
「おじいさんだね」彼女は微笑む。いいぞいいぞ。「やっぱり職人はおじいさんじゃないとね。」
 おじいさんは、長い海の旅で傷んでしまったチェロを完璧に直して、それを街で一番チェロの上手な若い女性に渡す。その女性が、近々日本に行く、と聞いたからだ。
 彼女は日本に演奏旅行に来て、そのチェロで、津波にあった街のホールで演奏をする。
「客席に、ひょっとしたら、自分の持ち主の女の子がいるかもしれない。チェロは、必死に叫ぶんだ。僕はここにいるよ。僕は戻ってきたよって。」
「女の子は、気が付くだろうか」彼女は呟く。
「きっと気が付くよ。」私は言う。「演奏を終えて、楽屋に戻ってきたチェリストの前に、その女の子が立っているんだ。チェリストは微笑んで、海を渡ったチェロを、彼女に手渡す。彼女は、ぽん、と弦を指ではじく。きっと素晴らしい音がする。」
「そんな音が出せたらいい」彼女は言う。
「そんな音をイメージしてみよう」私は言う。
 彼女は顔を上げる。
「第一楽章は旅だ。」彼女は言う。「波の音、冷たい海の嵐、星空、流れ星」
「チェロはチェロケースに入っているから、空は見えないのかな」私はつぶやく。
「見えるの!」彼女は怒ったように言う。待て、私が考えた話だぞ。
「チェロは音で世界を感じる。だから見えるんだ。星空も見える。暗い鉛色の雲に怯える。嵐にひらめく雷光も感じる。そして北の海では、夜空に踊るオーロラを見る。」
 第二楽章は夢だ。オーロラの光に抱かれて、チェロは夢を見る。温かな家族のぬくもり。持ち主の女の子に抱かれた喜び・・・そして気づくと彼は、チェロ工房のおじさんの腕に抱かれているんだ。
 第三楽章で、チェロは再び旅をする。職人のおじさんに直してもらって、そして飛行機で海を渡るんだ。ワクワクしながら、故郷の街に向かう。街はお祭りだ。チェロは女の子と再会して、一緒に踊るんだ。
 彼女は一気にまくしたてて、私の方を見る。きれいな黒い瞳。お父さん譲りの瞳。それが問いかけている問いが、私には分かる。
「そうだね。それは夢だ。大切なものをあの津波で失った人は多いし、それは二度と戻ってこない。女の子のところに、チェロは二度と帰ってこないだろう。」
「でも音楽は戻ってくる」彼女は言った。「必ず帰ってくる。」
 そして、弓を構えた。「もう一度、第一楽章から。」
 
 
4.
 
 大船渡市民文化会館リアスホールのマルチスペース。裏の楽屋に引っ込んでも、拍手は止まなかった。二人してもう一度、舞台上に出て行った。前列のおじいさんが、立ち上がって拍手をしてくれている。
 いい演奏だったし、いい聴衆だった。第一楽章が終わったら拍手、第二楽章が終わっても拍手。第三楽章が終わったら、この万雷の拍手。みんな笑顔だ。
「いい旅だったね」私は言った。彼女が微笑んだ。
「何か一曲、アンコールをお願いできませんか?」事務局のおばさんが、困ったような笑顔で言った。「拍手が鳴りやまないので・・・」
「あなたが行きなさい」私は上から目線で言った。別に何か意味があったわけじゃない。単純に、準備してなかっただけだ。「チェロ独奏のレパートリーがあるでしょう。」
「チアキは偉そうだな」彼女は口をとがらせた。「バッハとかなら。」
「いいんじゃない。無伴奏のプレリュードとか、みんな知ってるから喜んでもらえる。」
「聴衆にこびてると音楽が荒れるって言ったくせに」舞台に向かいながら、まだぶつぶつ言っている。
 そばに人の気配を感じて振り向くと、中学生くらいの女の子が立っていた。スタッフの名札を付けている。ボランティアの女の子かな。
「なにか?」と声をかけると、緊張したように首を横に振った。客席の拍手がひときわ大きくなり、すっと静まる。彼女が、舞台上でエンドピンを調整している気配がする。
 女の子が、意を決したように、私に向かって口を開いた。「あの。」
 同時に、バッハが始まった。女の子が凍りついた。私を見ている目が大きくなった。あれ、と思っていると、その目から、ぼろぼろ涙があふれ出した。私は慌てて、その子の前にしゃがんだ。涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を下から見上げた。
「大丈夫?」と私は言った。
「帰ってきた」彼女がつぶやいた。
 
(了)