風船の夢と銀杏の葉〜年老いた風船売りが物語る〜

 風船の夢、なんてこと、考えたことはあるまいね。
 こういう商売をしていると、風船の心が分かるんだ。ヘリウムをいっぱいため込んで、パンパンに膨れた風船は、この指が痛くなるほどに空への思いを伝えてくる。細い凧糸一本だけで私の体につながれて、空よ空よと泣き叫ぶ、耳に聞こえぬその声が、上へ上へとどこまでも地上の芥を振り棄てて、昇って行こうとする夢が、この掌に響くんだ。
 だから私は語るんだ。生まれたばかりの風船の空に焦がれるその声をなぐさめるためにぼそぼそと、空への夢を語るんだ。成層圏に満たされたオゾンが輝くその先に、雲がわき立つその向こう、はるかな広い世界へと、風船の心を誘うんだ。空の話を語るんだ。海の話を語るんだ。雲の話を語るんだ。虹の話を語るんだ。その時ばかりは風船の狂わんばかりの渇望が、自分を縛る引力のくびきを呪うため息が、少しは低くなるようなそんな気がして語るんだ。
 もちろんそれも気休めだ。風船の命は短くて、空への道は果てしない。成層圏ははるかに遠く、そこを目指して飛ぶ旅は恐ろしい苦難に満ちている。途中までガスがもつものか、日差しにゴムが耐えられるか、きまぐれな鳥の一突きで、たやすく破れる風船が、成層圏をはるかに超えて海の向こうの見知らぬ国へ旅を続けていくことなど本当にできるわけもない。大海原を渡りきった幸運な風船のお話を私も少しは知ってはいるが、お話になるほど珍しい、ほとんど奇跡に近いことも、やっぱりよく分かってる。知っている上でそんな夢を風船たちに語るのは、無責任で残酷なこの年寄りの感傷に過ぎない。自分自身が果たせぬ夢を、こんな頼りなげな風船たちに押しつけているだけの、そんなさもしい自分の姿が、風船の上のゆがんだ影になって、自分自身を笑っている。それでも語らずにはいられない、風船の命が短いだけ、希望がかなう可能性が小さいだけ、語らないではいられない。そういう思いでぶつぶつと、空の話を語るんだ。星の話を語るんだ。風の話を語るんだ。雨の話を語るんだ。
 そしてこのお話は、数週間前のこの広場から始まった。あの日は町のお祭りで、広場は朝早くから浮き立つ空気に満ちていた。私みたいな商売にはうってつけの一日だ。人出もまばらな朝早くから、大きなボンべを運び込み、いつものようにぶつぶつと、空の話を呟きながら、色とりどりのいくつもの風船たちを膨らませ、紐に重りを取り付けて、手袋をした左手にくるりとひとつ巻きつける。それをひたすらくりかえす。そのうち次第に広場にはお祭りの係の人たちや、期待に瞳を輝かせた子供たちの姿が増えてくる。私の手元をじっと見つめて、風船が一つ膨らむたびに、小さなため息をつく子供たち。その子供たちにも聞こえるように、私の独り言は少し大きくなる。夢を語る声が高くなる。
 広場には今や音が満ち、所狭しと立ち並ぶ屋台や模擬店のテントから、店員たちの甲高い客引きの声が響き始める。子供たちが連れだって、汗ばんだ小銭を握りしめ、ひとつふたつと風船を買い求めるためやってくる。その小さな掌に、私の夢を渡すのだ。風船の夢を渡すのだ。そんな私の思いなどまるで知らぬ顔をして、歓声をあげて駆けていく小さな頭の傍らで、色とりどりの風船たちが空に焦がれて揺れている。やわい子供の掌にしっかり握しめられた細い凧糸でつながれて、ただ悲しげにゆれている。
 あ、と声をあげかけた。小さな指先の一つから、赤い風船がするりと逃げて、空に向かって駆け上がっていく。子供の高い泣き声がその行く先を追いかける。いくつもの偶然のドミノの、最初の一つのピースが倒れ、空への長い旅路へと、小さな赤い夢のしずくがただまっすぐに駆け上がっていく・・・
 でも一瞬の幸運も、気まぐれな風のひと吹きであっという間に消え失せた。ビルの隙間を駆けてきた小さな風の一押しに押し流された風船は、よろよろとその進路を変えて、あの銀杏の木を包み込む、若々しい緑の重なりに吸い込まれていってしまったのだ。そのままその緑の中にすっぽり埋もれこんだきり、風船は外に飛び出してこない。どうしたのかと見てみれば、重なり合う若葉の奥に、ちらちらと赤いかけらが見える。さっきまで子供の小さな指が握りしめていた紐の端が、今度は木の葉に絡まって、再び赤い風船をこの地上へとつなぎとめてしまった。やんちゃな子供の一群が歓声を上げながら木に向かい、枝に向かって飛びつこうとわいわい声を上げていたが、すぐあきらめて駆けだした。
見上げる私の頭の上のはるかに高い枝の根元で、赤い風船が揺れている。風船が見る夢の中でも、これは最悪の夢の一つだ。空でカラスに突き破られるのと同じぐらいに悲惨な夢だ。人の手も届かず、自ら逃れる力もなく、蜘蛛の巣にとらわれた蝶のようにもがきながら、ゆっくりと自分の体からガスが失われていくのを感じている。自分の中の力が、夢が、ゆっくりと消えていくのを感じている。そしてなすすべもなく、静かに消えていく自分の命をただじっと見つめている。
 でもその時、ひどい目に会ったのは、この風船ばかりじゃなかったんだ。風船が引っ掛かったのは、銀杏の木から湧きだした無数の命そのものの若々しい木の葉の間でも、特にいじけた一枚のしけた色した木の葉だった。高い枝の根元のあたり、満足な光も浴びられず、それでもその小さな体の精いっぱいに、水と二酸化炭素を吸いこんで、精いっぱいの澱粉と精いっぱいの酸素とをせっせせっせと作りだす、そんな木の葉の一枚だった。出来上がった澱粉のほとんどは、お母さん幹に吸い上げられて、自分の体をうるおすだけのわずかなかけらも残っていない。それでも一番高い枝だもの、まだ幸運な方なんだ。人の手が届く低い枝だと、時々人が手をのばしては、手に触れた木の葉をむしるんだ。お母さん幹から離れてしまったら、木の葉に生きる術はない。気まぐれな人の手を離れて地面に落ちてしまえば、木の葉は焼けたアスファルトの上で、干からびて死んでいくしかない。だからこの小さな木の葉は、自分の生まれた境遇を心から感謝していたんだよ。
 にぎやかだったお祭りの光も音も静まって、帯とも見まごう夕焼けが空をゆったりと覆い始める。木の葉の短い一生の忙しい一日が静かに終わる。明日のための栄養と根から上がってきた水分を母さん幹からいただいて、どの葉も残らずうとうとと静かな眠りにつくころだ。でも、あの木の葉一枚だけは、眠るどころじゃない状態だった。自分の根っこに絡まった凧糸の先の風船が風に気まぐれに揺れるたびに、細い葉根が引っ張られてちぎれそうに痛むんだ。ぐいぐい空へと引っ張るんだ。いずれあきらめるだろうと思ってもこの赤い風船のなんともしつこいことったら!葉っぱを引っ張る凧糸はピンと張って緩むどころか、母さん幹から葉っぱの根っこを引きちぎるばかりの勢いなんだ。
 「よせよ、おい!」と木の葉は言った。
 「空よ、空よ」と風船は言った。
 「俺まで持って行っちまう気か!」木の葉は叫んだ。
 「ごめんなさい、でも、空が私を呼んでるの。空よ」
 「こら、そんなに引っ張るな!」木の葉は喚き、うんと踏ん張って、葉根のあたりに力を込めた。それこそ命がけで踏ん張った。風船は相変わらず夜風にふらふら揺れながら空へと必死に背伸びを続け、やがてシクシク泣き出した。
 「空よ、私は行けないわ。空よ」
 「泣いたってしょうがないだろう」木の葉が少し同情して、根っこの力を緩めたら、突然風船が風にあおられ空へぽんっと背伸びした。「いてっ」と思わず木の葉は叫んだ。「いい加減あきらめろよ!」
 木の葉はかなり疲れてきた。風が吹くたび風船は揺れ、そのたび天へと駆けあがろうとする。夜の空にまたたき始めた小さな星の姿を目がけ、涙ながらに思いを歌う。けれどその力も声も、次第次第に弱くなり、木の葉のか細い根っこにも何とか耐えられるほどになってきた。
 「ああ、ガスが抜けていく、空よ、空よ」と風船が言う。
 「空に何があるんだよ」うんざりしながら木の葉が尋ねた。
 「知らない」とシクシク泣きながら風船が言う。
 「なら一体何だって空へ行こうと思うんだ」
 「わからない。生まれた時からこうなのよ」風船はそしてまた歌う。「空よ空よ、私は行けません。空よ空よ」
 やがて空にはすっぽりと群青の夜の帳が下りて、木の葉は眠くなってきた。風船はシクシク泣き続け、木の葉はうとうとと夢の中へと落ちていき、涙のしずくが一杯に、空に向かって雨のように降り注いでいく夢を見た。
 
 そして朝がやってきて、木の葉はちょっと驚いた。母さん幹から送られてきたたっぷりの水と養分は、いつもの二倍は超えていた。小さな木の葉の体には有り余るほどの分量だ。
 「がんばってその風船を逃がさないでいてちょうだいな」母さん幹はご機嫌で木の葉に向かってそう言った。「この街のどの銀杏にもこんなかわいい飾りなんかありゃしないんだからねぇ。どいつもこいつも、薄汚い雀の巣なんかにたかられて、ぶつぶつ文句を言うばかり。もっとしっかりした木の葉になって、その風船を放すんじゃないよ」
 木の葉は小さくうなずいた。風船はもう声もなく、かすかな風に揺れている。ガスはそれほど抜けてはいない。それでも自分の根っこを引っ張る凧糸の力がずいぶんと弱まっているのに気がついて、木の葉の胸は少し痛んだ。ビルの隙間に顔を出す朝日の細い一筋で、葉緑素の一粒一粒が一斉に酸素を作り出す。風船は一日黙っており、木の葉を引く力も弱く、木の葉はさほど風船のことを気にすることもなく、わずかな光を精いっぱい小さな体に取り込んで、一日中せっせと働いて酸素と澱粉を作り続けた。
 夜になって空は晴れ、明るいお月さまがビルの向こうに顔を出したら、風船はこらえきれずに突然わっと泣き出した。
 「どうしたよ」木の葉が言った。
 「月よ、月よ」風船が言った。
 「月がどうした」
 「私を呼んでる」
 ちぇっと木の葉は心の底からいまいましげに舌打ちをした。どうしてこうもあきらめが悪い風船なんだろう。こいつのおかげで母さん幹によくしてもらうのはいいけれど、この調子で毎晩泣かれたらたまったもんじゃありゃしない。
 「もういい加減あきらめなよ、あんたも運が悪かったんだ」
 「もう少し力があったなら、同じセリフを私の方からあんたに向かって言ってやるのに」
 木の葉は心底ぞっとした。この悪態はこたえたよ。そもそも木の葉というものは悪態を聞くのに慣れてない。母さん幹から引きちぎられて風船と一緒にぎらぎらと輝く太陽の光に焼かれる、そんな光景が頭に浮かんだ。
 「冗談言うのはやめてくれ!」震えあがって木の葉は言った。「あんたに引きぬかれちまったら俺はそのまま死ぬしかない。あんたはこうしてここにいたってちゃんと生きていられるじゃないか」
 「いっそ死んでしまった方がどれほどましだか分からない」風船はまた歌いながらグスングスンと泣き出した「お星様、お月様、私はそこまで行けません」
 結局そのまま風船は一晩中を泣いて過ごし、木の葉は星や月の光がみんな涙のしずくになって、街の上に降り注ぎ自分を濡らす夢を見た。
 
 それでも翌朝目覚めたら、木の葉は少し風船に同情する気になっていた。風船はすっかり小さくなって、木の葉を引っ張る力もほとんど気にならない。その日は朝から雲が多くて、木の葉たちに降り注ぐ太陽の力も弱かった。木の葉たちはただぽかんと、泣き出しそうな空を見ていた。仕事がないからといったって、他にすることもないんだね。遊ぶ方法も知らないし、おしゃべりにだって慣れてない。灰色に濁った光のしずくを一生懸命かき集め、晴れた日の半分にも満たない酸素と澱粉を作り出す、それしかやることがなかったんだ。
 お昼近くのことだった。ただでさえ薄い日がかげり、激しい羽音が響き渡って、木の葉ははっと身を縮めた。カラスが一羽舞い降りて、風船の揺れるすぐそばの枝にばたばたつかまった。太く曲がったくちばしに含み笑いをひっかけて、ぎょろり、と丸い目を向ける。もちろんカラスは風船の不幸を笑いに来たんだよ。
 「何よ」と風船は言ったけど、声は不安に震えてた。
 「これはなんともみっともない」カラスはしわがれ声で言い、くちばしを突き上げてカァカァ笑った。「他のお仲間はもうとっくに成層圏のはるか彼方で紫外線シャワーを浴びてるっていうのに」
 「そんなこと言ってもしょうがないだろ」木の葉は思わず言っていた。「こいつは運が悪かったんだ」
 カラスはギロっと木の葉をにらんだ。「一つ提案があるんだが」カラスは風船に向かって言った。「あんたを自由にしてやろう」
 風船は風に激しく揺れた。
 「本当に?」風船が言う。
 「本当さ」カラスは言った。「俺がこのしけた木の葉を一突きコツンとつつき殺せば、あんたは何にも縛られないで空に向かって昇っていける。どう思う?」
 木の葉はブルブル震え始めた。
 「いらないわ」しばらくたって、風船は言った。風がひと吹き、痩せた風船をぽん、と叩いた。「あなたのお世話にはなりません」
 カラスはカァ、と声をあげると、しわがれ声で笑いながら、別の木の梢を目がけて飛び立っていった。
 
 夕暮れ時に、下から見上げた銀杏の枝の木の葉の連なりの間から、少し濁った赤い色がちらりちらりと揺れている。ガスがかなり抜けてしまって、ゴムの色が濃く見える。ああなってしまってはもう自分の体を支えるだけで精いっぱいな状態だ。だからといってこの私に何かしてやれるわけでもない。私にはなす術もなく、商売道具を車に積んで広場を去るしか仕方がなかった。朝から空を覆っていた雲が次第に厚みを増して、夜の空には星もなく、夜半を過ぎた頃合いに、街を覆う柔らかなベールのような霧雨がふんわりと空から降りてきた。
 「雨だ!」と木の葉は一斉に声にならない歓声を上げた。眠ってなんぞいられるもんか。雨の細かな粒子たちが木の葉のしなやかな表面をしっとり優しく湿らせて、しずくが木の葉をたたく音が無数の音階の重なりとなり、柔らかな自然の音楽が銀杏全体を包み込む。母さん幹はうっとりと全身を包む木の葉の歌と木肌を伝う無数の水の指の感触に酔っている。
 「雨だ!雨だ!」といつまでも木の葉の歌は連なり重なり、あの小さな木の葉もまた、夢中になって歌っていた。枝の付け根のところまで届いたわずかな雨の粒子に小さな体を湿らせながら。
 「素敵な歌ね」と弱々しい小さな声が呟いた。
 木の葉は歌を途中でやめた。あの風船が言ったんだ。それは分かっていたけれど、だけどなんだか信じられずに、木の葉はしっとり濡れそぼって痩せこけた赤い風船を下からそっと見上げてみた。そしてそっと囁いた。
 「どうしてお前・・・」とそこまで言って、木の葉は少し言葉を探した。
 「昼間のカラス?」と風船が小さな声で言葉を継いだ。
 「あいつは仲間の敵だもの。空に旅だった仲間たちが、いくつもあいつらのくちばしでつつき殺されて落ちていった。あのまま言うことを聞いたって、きっと何かひどいことを企んでいたに違いないわ」
 「でもお前、あんなに空に行きたがっていたんじゃないのかい」
 「こんなにガスが抜けてしまえば」風船は自分に囁くように小さな声で呟いた。「もう空には行けないわ」
 しばらく二人とも黙っていた。
 「雲の上がどんなだか」と突然風船が口を開いた。「あなた聞いたことがある?」
 「いいや」と木の葉は答えを返した。「お前だって知らないだろうに」
 「知らないわ」風船は素直に答え、自分の答えに自分で小さくくすりと笑った。「風船屋さんが言ってたの。年中お日様が照っているって。雲ははるかに視界の下で、成層圏はもう宇宙の色で、真昼の空にお星様が溶けているのが見渡せる。太陽の周りを丸い虹が幾重にも幾重にも重なって、見下ろせば地球の丸さまで感じることができるのよ」
 「地球が丸い?」と木の葉は聞いた。
 「そうよ」と赤い風船は夢見るように囁いた。「そんな大気の高みまで昇っていける風船はほとんどないって言いながら、それでも風船のおじさんは私たちにこう告げた。もし風向きに恵まれて、上昇気流に乗れたなら、そしてゴムの表面が光と風に耐えたなら、はるか彼方の高みへとお前たちは飛ぶだろう。星と月と太陽がともに輝く青い闇へとお前たちは飛ぶだろう。そしてそのさらに高みを見上げれば、神の影さえ垣間見える、そんな幸運があるかもしれない」
 風船は人が変わったように、ひたすらぶつぶつと呟き続ける。木の葉は口をさしはさまずに、黙ってそれを聞いていた。雨は次第に強くなり、木の葉たちはゆっくりと眠りの中へと沈み始めた。木の葉はうとうとまどろみながら、今夜の夢はどんなだろうと、そんなことを考えた。
 
 木の葉に夢は来なかった。夢の訪れるよりも前に、体を引き裂くような痛みで、木の葉ははっと目が覚めた。細かく優しい雨粒は、いつか大粒の雨になり、風は気まぐれな烈風になって雨と一緒に横なぐりに銀杏の木を激しく叩く。風船は激しく風に揺れ、雨に叩かれて悲鳴を上げた。木の葉は縦横に引っ張られ、激しい痛みに声も出ない。見る影もなくやせ衰えた濁った赤い風船は、声を限りに泣き叫んでいた。
 「いや!いや!また地面に戻るのはいや!」
 木の葉は痛みに耐えながら、激しい雨音を聞いていた。自分の根っこを引きちぎろうと風船に叩きつけてくる激しい風にひたすら耐えた。痛みの感覚が遠くなり、次第に頭が奥の方からさえざえとしてくる感じがした。風の音も雨の音も、引きちぎられる仲間たちの断末魔の叫び声さえも、全てがガラスの向こうのようにはるか彼方に遠ざかって、頭の中にはさっき聞いた風船の夢の物語が絵巻物のように広がっていく。成層圏の深い青。丸くたなびく地平線。星と月と太陽がともに輝く昼の闇。なんだか涙が出そうになった。
 「いや!いや!」風船はひたすら叫び続けている。
 風に必死に耐えていた木の葉の細い葉根の力が突然、すっと抜けた。
 激しい風の塊が銀杏の木を頭から横なぐりにざっと殴りつけ、まだ青い木の葉の群れが悲しい叫びを上げながら夜の中へと吹き飛んで、くるくる回って消えていった・・・
 
 夜のうちに嵐は止んで、空にはすでに雲ひとつなく、夏を含んだ明るい日差しが濡れた路上を光らせている。まだつやつやとした緑の若葉が路上にたくさん散っている。語る言葉もないままに、ただ土に帰るしかない悲しい若い死骸たちが、水溜りの底に沈んでいる。
 いつもの道を駅までたどる私の足元にそれを見つけて、何も考えずに拾い上げると、目の前に老人が立っている。その傍らに目をやれば、大きなヘリウムのボンベがある。風船売りのおじさんだ。
 「その風船を」とおじさんは、私が拾ったしわくちゃのしぼんだ風船を指差した。「ちょっと私にくれないかい」
 「いいですよ」と私は言って、昨夜のひどい嵐に濡れてぐにゃりと痩せた風船をおじさんの手に渡してあげた。風船をしばる凧糸には、これまたしょぼくれた銀杏の葉が、一枚絡みついている。
 風船売りのおじさんは、しぼんだ風船を見つめると、ポケットから鋏を取り出して凧糸ごと風船の口をちょきん、と少し切り落とした。ボンベのパイプを引っ張り出して、新しい口からガスを入れる。シュウッと威勢のいい音がして、風船はすぐに膨んだ。丸い頭を空に向けて、今にもまっすぐ飛び立ちそうだ。
 おじさんはてのひらに残っている湿った凧糸をじっと見た。その先に絡まっているしょぼくれた銀杏のしけた小さな葉っぱをためすがめつ眺めていた。そして、ガスが一杯詰まって生まれ変わった風船に、その凧糸を木の葉ごと、くるっと一巻き巻きつけた。
 「そんなの売り物になりますか?」と私が聞くと、おじさんは、
 「売り物なんかにゃならないさ」と小さく笑って答えるなり、せいのっとばかりに勢いをつけ、風船を空へと放り投げた。朝の上昇気流に乗って、赤い風船は一直線に、空の真中へと落ちて行った。細い凧糸につながれた小さな木の葉を道連れに。
 「風船の夢なんてこと」舞い上がっていく風船を見上げておじさんは呟いた。「考えたことはあるまいね」
 私は空を見上げていた。はるか彼方に小さくなった赤い風船が昇っていく。まるで赤い涙のしずくが青く輝く空の彼方に吸い込まれていくようだった。
 
(了)