幽霊と花火大会で

 ひょっとして、親父がそっちに行くかもしれない、と、星也に言われていたから、浴衣を着終わって、ひょい、と覗いた鏡の奥に、星也そっくりのおじさんの背中が見えても、私はあんまり驚かなかった。半被姿の、広い背中。
 「おじさん、着替え覗いてたの?」と私が口を尖らせて言うと、おじさんは慌てて振り返って、(ないない、それはない)と大きな声で言う。言いながら、ふわり、と浮かび上がって、玄関先に移動していく。その慌てぶりがあんまり星也にそっくりだから、「どうだか」と、私はちょっと意地悪を言ってしまう。幼馴染の星也のおじさん。ひょっとしたら、私のお父さんになってたかもしれないおじさん。今目の前でふわふわ浮いているおじさんには、足がない。幽霊に足がないってのは、本当なんだなぁ、と、改めて私は感心する。
 (足がないってことはさ、歩く必要がないってことでさ。これが便利なんだなぁ。どこに行くにも疲れないしさ。それどころか、あっちへ行きたい、って考えただけで行けるわけだからさ。)おじさんが、ふくれっ面の私の心を読んで、ふわふわと土間の上を漂いながらまくしたてている。(だからさ、紀代ちゃん家にはいつでも入れたんだよ。でも、まだお着替え中だよなって、ちゃんと遠慮して、今まで入らなかったんだから。絶対だよ。信じてよ。)
 足はあってもなくてもいいんだけどさ、と、3ヶ月ほど前、星也はげっそりした顔で言った。あの口をなくして欲しいんだよな。こっちの作業場で、うるさいったらありゃしない。星の粒がそろってないだの、割薬の乾燥時間は大丈夫か、だの、べらべらべらべら喋りっぱなしなんだ。
 そのくせさ、一番大事な五重芯の作り方になったらさ、だんまりだよ。何にも言ってくれないんだ。オレの肩越しに、じっとオレの手元を見てる。その視線は痛いくらいに感じるのに、それでいい、とも、悪い、とも、何にも言ってくれないんだ。尋ねたいことは山のようにあるんだぜ。なのに何も教えてくれない。生きてた時とおんなじだ。大事なことは全然教えてくれないまんま、あの世に行っちまった。それだけでもずるいのに、のこのこ幽霊になって戻ってきて、俺の周りをうろうろしやがる。鬱陶しいったらありゃしない。
 そんなことを言いながら、星也はおじさんが幽霊になって、側にいてくれるのが嬉しくてしょうがない。それが私にはよく分かる。幽霊になったおじさんが、初めて私の前に姿を現した時、星也は、「見えるのか、紀代ちゃんにも見えるのか?」と何度も何度も、嬉しそうに繰り返した。去年の花火大会から一年間、おじさんは相変わらず、星也の花火の仕上がりに文句ばっかり言いながら、星也の仕事部屋にずっと入り浸っていたのだ。
 (いや、そうでもないんだぜ)と、私の肩越しに、おじさんはぼそっと呟いた。新宿駅の西口広場を、京王線の改札口に向かって歩いていく。他の人にはおじさんは見えないから、誰もいない空中に向かって話しかけているおかしな女、と見られないように、お互い気を遣う時間だ。ただ、ちょっと物問うように、首をかしげて見せた。
 (星也もさすがに、この1ヶ月は集中してたからな。声をかける隙もなかったよ。オレが喋ってたのは、普通のスターマインの仕込みだのなんだの、とにかく五重芯以外の花火のことばっかりさ。あいつ、今夜の五重芯には、本気で命かけてるよ)
 「じゃあ、一つだけ教えてちょうだい」電車を待つホームの隅に行って、私は小声で、それでもしっかりおじさんを見つめてささやいた。「今夜の星也の五重芯、成功するの?失敗するの?」
 おじさんは、じっと私を見つめる。(紀代ちゃん、それはオレの口からは言えねえな。花火は生き物だ。風や空気と一緒になって、やっと完成する生き物だ。成功するか失敗するかは、神様が決めることだ。紀代ちゃんが、自分の目で確かめな。ただな、星也は、本気で命かけてるよ。)
 違う、違う、そうじゃない。1ヶ月前の星也のことを思い出すと、私の胸が苦しくなる。京王線の新宿駅は、浴衣姿の女の子達で一杯だ。構内アナウンスの声が、臨時電車の停車駅を連呼し続けている。人ごみの中で、私の胸はどんどん苦しくなる。我慢できない。涙がぽろぽろこぼれだす。
 1ヶ月、紀代ちゃんとは会えない。星也は私にそう言った。この1ヶ月、オレは五重芯に命を賭ける。この五重芯が失敗したら、もう紀代ちゃんとは二度と会わない。そう決めた。
 そこまでスポ根しなくても、と私は笑ってごまかそうと思った。でも、星也の目を見て、やめた。ダメなんだ。オレは、どこかで、甘えてる。親父にも、紀代ちゃんにも、甘えてる。どこまでも一人の、どこまでも自分だけの世界で、ただ花火と向き合ってるだけの、逃げ道のない所まで、自分を追い込んでみたいんだ。失敗が絶対に許されないギリギリの所まで、オレを追い込んでみたいんだ。
 でもな、紀代ちゃん。星也は言った。約束してくれないか。もし、この五重芯が成功したら、俺の嫁さんになってくれ。
 (あいつは去年もそう言ったなぁ)おじさんは、ラッシュアワーなみに混んでいる電車の中で、ぽろぽろ涙をこぼしている私の肩の上で呟く。幽霊にはラッシュアワーも関係ないから楽なものだ。(へらへら笑いながらそう言って、へらへら適当に尺玉仕上げて、あんなみっともない花火上げやがった。なにが五重芯だ。輪は欠けてる、芯は三重にちょっとオマケがぼんやりついてるくらいの出来損ない。あんまりひどくて、おかげで、おれは天国から落っこちてきちまった。)
 その日のことは、星也から聞いていた。私に土下座して、もうしばらく待ってくれ、と頭を下げて、自棄酒を飲んで、明け方近くに作業場にでろでろになって入ってみれば、そこに親父の背中があった、と星也は言った。法被姿の背中が振り向いて、鬼みたいな顔でにらみつけた。(土下座しろ、このボケナス)って、親父は言った。(店の名前に傷をつけやがって。もう一回、4号玉からやりなおしだ)
 おじさんが、あんなに早く逝っちゃうから。私は心の中で毒づく。また涙がこみ上げる。(泣くなよ、電車の中なんだから)とおじさんは言う。分かってるよ。周りのみんなが変な目で見てる。分かってるよ。浴衣姿で一人で花火大会に泣きながら向かってる女。たぶん、約束してた男が来なくて、自棄になって一人で花火を見に行ってるんだ、くらい考えてくれるだろう。(いや、そう思われるのもまずいんじゃないの)とおじさんが言う。黙ってろ、幽霊なんだから。(ごめんなさい)しゅん、とする姿が星也にそっくりで、私は余計に頭にくる。全くこの親子は、人の迷惑考えない。自分の都合ばっかり並べて。私はどうなるのよ。もし今夜、星也の五重芯が失敗しちゃったら、私は一体どうすりゃいいのよ。
 星也、星也、星也。子供の頃から大好きだった。父ちゃんに負けない花火職人になるんだって、小学生の頃から胸張って生きてた星也。女の子の扱いに鈍感で、しょっちゅう私を怒らせて、その度に小さくなって、ごめんなさいっていう星也。いとしい、いとしい、私の星也。いやだ、たかが花火じゃないか。なんで私にもう会えない、なんて言うんだよ。いやだよ、星也にもう会えないなんて、やだよ。
 多摩川の河川敷の会場は集まった人々で埋め尽くされている。(五重芯は、開会のスターマインの後にすぐ上がる)おじさんは、椅子に座った私に向かって言った。(紀代ちゃん、泣くな。ちゃんと目を開いて、あいつの五重芯をしっかり見てやってくれ)
 五重芯冠菊。空に開いた炎の環が、色違いの5つの同心円を描く。二重、三重の八重芯なら、作れる職人さんは結構いるけど、五重芯となると、まさに名人芸の域になる。尺玉といわれる花火の玉の中に仕込んだ、星、という発光する花火の配置と、割薬、という爆薬の量を、これしかない、という配分で絶妙に決めていく、職人の熟練の技が生み出す究極の花火。
 星也のおじさんは、日本でも数少ない、五重芯冠菊の作れる花火職人だった。それが星也の誇りで、いつか、父親を越える五重芯を作るのが、星也の夢だったのに。その五重芯の作り方を、きちんと星也に伝えることもなく、おじさんは突然あの世に逝ってしまった。やけくそになった星也の五重芯が、成功するわけもなく、それと一緒に私との結婚の話も反故になった。そしてあの惨めな花火大会から一年、また性懲りもなくこの親子は、五重芯に命を賭けようとする。それだけじゃない、関係ない私の人生まで賭けようとする。
 (分かってるよ、紀代ちゃん)おじさんが私の後ろで呟く。(あんたにはとんでもない迷惑な話だ。それはよく分かってる。でもな、星也は、この壁を越えないと、あんたにふさわしい男になれないって、思い込んでるんだよ。この壁を越えて、初めてあんたと一緒になれる。それだけの価値のある男になれるんだって。そういう考え方しかできないんだよ。不器用かもしれないけど、それが職人っていう生き物なんだよ)
 だったら、と私は心の中で叫ぶ。どうして星也に、五重芯の作り方を教えてあげないの。幽霊になってまで、この世に戻ってきたくせに、どうして息子に、自分の技を手取り足取り教えてあげないのよ。
 悔しくって悔しくって、また涙が出そうになる。職人なんてクソ食らえだ。なんで花火職人なんかにほれたんだ。(ごめんよ)おじさんは背中を向けたまま、ぼそっと呟く。(教えたいのは山々なんだ。でもな、言葉じゃ教えられないんだよ)
 (職人の技を身に着けるにはな、2つのやり方しかないんだよ。師匠がやってるのを見よう見まねでひたすら真似るか、あるいは、自分の技をひたすらひたすら積み上げて、磨き上げていくか。オレは死んじまったから、自分でやって見せてやることはできない。そうなったらな、紀代ちゃん。星也が日ごろやっている、一つ一つの技を極めていくしかないんだよ。星掛けの工程、トロの配分、玉皮の選び方から、和紙の一枚一枚の広げ方まで、一切の工程で絶対に手を抜かない。丁寧に丁寧に仕事をする。オレは幽霊になってから、あいつにそれだけはきっちりと、言いきかせてきたつもりだよ。)
 そうだ。分かってる。一番悔しいのは私じゃない。私もちゃんと気づいていた。一番悔しいのは、自分の技を息子に伝えることができなかった、おじさんだ。もっともっと時間があると思っていたのに、突然断ち切られてしまった自分の時間を、幽霊になってでも取り戻そうとした、おじさんの悔しさ。浴衣の袖で、涙をごしごし拭く。見なきゃ。星也の五重芯。
 花火大会はもうすぐだ。河川敷は人で埋まっており、周りの若者がビール片手にすでに出来上がっていて、わいわい気勢を上げている。私の人生のカウントダウン。五重芯へのカウントダウン。多摩川の上空は澄み切って、雲ひとつない。絶好の花火日和だ。風よ、空気よ、多摩川よ、星也に力を与えてあげて。5、4、3、2、1、そして、光が、音が、大気を切り裂く。
 激しい爆発音が河川敷を揺るがし、炎の柱が立ち上がる。群衆の歓声の上をさらに爆発音が重なる。花火大会のオープニングを飾る、200発のスターマイン。花火師の一年間の作業が、汗が、数秒間のうちに燃やし尽くされる、一瞬の炎と音の饗宴。河川敷を埋め尽くす観客が、夢中になって手を叩く。その音が夜空に舞い上がり、遠くなり、そして瞬時の静寂の後、闇の中に、小さな光が、ぽっぽっと弾けながら、上空に向かってあがっていく。のぼる、のぼる。星也の五重芯が、のぼっていく。
 (花火師の作るのは、永遠に輝く星じゃない。一瞬で燃えつきる炎だ。人間の人生みたいなもんだ。ぱっと咲いて、ぱっと散って、後には何も残らない。いや、そんな花火を作りゃしねえぞって、オレは心に決めていた。息子の名前を決めた時も、オレはそう願ったんだ。一瞬で燃え尽きる炎でも、永遠に人の心の中に残る、一生その人の目に焼きつく、そんな花火を作って欲しい。そう思って、あいつの名前に、永遠に輝く星の一文字を入れたんだ。)
 最後の小さな炎が弾けて、一瞬、空が闇になる。その時、ばん、と光が散った。きらきらと丸く散るダイヤモンドのような光のかけらたちの中に、真っ青なアクアマリンの透明な色彩がさあっと広がり、その中を赤いルビーの輪が追いかけるように広がる。次々と広がる宝石のような色彩の輪。1芯、2芯、3芯、4芯、5芯。
 開いた。開いた。夢中で手を叩いた。一瞬で消えた五重の宇宙。その名残を、真っ白な無数の菊の花びらが覆う。夜の空を覆いつくす。五重芯冠菊。星也、やった、五重芯がきれいに、見事に開いた。
 (紀代ちゃん)おじさんの声がした。(一生、今夜の五重芯のこと、忘れないでやってくれな)
 はっとして、振り向くと、私の肩越しに浮かんでいた法被姿の後姿が、ぼんやりと薄く闇に溶けて・・・消えた。

それが、幽霊になったおじさんを見た、最後になった。それから今日まで、おじさんは二度と、私達の前に姿を見せてくれていない。星也は、やっと静かになったな、なんて、大きな声で言うけれど、時々覗く仕事部屋で、ものすごくさびしそうな背中をしている。でも、私には何もしてあげられない。してあげてはいけない。その時間は、星也にとって、花火と自分だけの、孤独な、神聖な時間だから。そしてたぶんその時間の中でだけ、星也はおじさんと一緒にいられるんだと思うから。日に日に、おじさんそっくりになってくる星也の背中をながめながら、私はそっと、仕事部屋の扉を閉じるのだ。

(了)