あなただけが私の空気。私はあなたを待って過ごし、あなたが遅いと死んでしまったのかと思い、もしそうだったら私も死のうと思い、あなたが帰ったら生き返ったようになり、またあなたが出かけると死ぬほど怖かったわ。今はあなたが話して下さるから、私息ができるの。
~プーランク作曲・コクトー台本「人間の声」より~

 
 

 「何か言ったか?」ダイニングの方から、声がする。
 「別にぃ」明美はそう言いながら、クリーム色のシーツの上で、思い切り伸びをする。そうやって、初めてのベッドの感触を味わう。初めてのベッド。初めての、二人のベッド。初めての、二人の部屋で迎える朝。
 「何か言っただろ?」俊彦が、また言った。
 「何も言ってないよ」明美は言った。のろのろ起き上がって、シーツを体に巻きつけて、くるくると舞いながら、部屋のいたるところに山積みされた、ダンボ−ルの谷間をすり抜けていく。俊彦の背中にシーツごとからみついて、その体温を胸いっぱいに吸い込む。
 「変だな」俊彦が言った。続く言葉を、自分の唇で封じておいて、明美は言った。
 「おなかすいた。」
 「はいはい。」
 「何か言った?」
 「だから、はいはい、って。」
 「その後によ。何か、言わなかった?」
 二人で顔を見合わせた。しばらく、じっと耳をすましていた。ダイニングはしん、として、二人の息遣い以外、何の音もしない。
 「気のせいかな」俊彦が言った。
 「何か、人の声みたいなのが、聞こえた気がしたんだけど。」
 「私も」明美が言った。「気持ち悪い。」
 二人してまた黙って、耳をすました。
 「聞こえた?」明美が言った。押し殺したような、ささやき声だった。
 「うん」俊彦が、同じように囁いた。「聞こえた。確かに、聞こえた。」
 音の方向は定かではなかったけれど、二人とも、もう聞き違えたりしなかった。初め、何か女の声のような、弱々しい声がした。それに、怒ったような、少し声高の男の声が答えた。その言葉だけ、急に、はっきり聞こえた。
 「今、いい加減にしろ、って聞こえたね」明美が言った。
 「そうも聞こえたな」俊彦が言った。相変わらず、二人ともささやき声のままだ。「でも、そんなにはっきり聞こえなかったよ。」
 「聞こえたわよ」明美は言った。「確かに言ってた。いい加減にしろ、って。」
 明美のささやきを、俊彦の手が制した。今度は、低い男の声が、何か言っている。海の底から聞こえてくるみたいに、言葉の雰囲気だけが伝わってくる。怒っているようだ。細かい単語はまるでわからないけれど、二人にはそう思えた。
 「何だろうな」俊彦が言った。
 「隣の音?」明美が言った。
 「そうかもな」俊彦が言った。「大体、どこから聞こえてくるんだ?」
 二人は、思わず、ダイニングの中をぐるっと見渡した。天井。流し台のある壁。その上の、換気孔。外界と接しているのは、それだけだ。
 「この換気孔が怪しいな」俊彦が言った。
 明美も、そう思っていたから、一つこくん、とうなずいた。不思議な声は、時に小さく、また急に大きくなったりしながら、不明瞭に続いている。声の種類は相変わらず、二種類だけだ。低い、怒ったような男の声と、細い女の声。二本の声の糸が、寄り添い、絡みつき、ふらふらと風に流される蜘蛛の糸のように、途絶えることなく続いている。
 「遠くなってきたね」明美が言った。確かに、声は時折大きくなったり小さくなったりしながら、次第にトーンを落としてきているようだった。
 「昨日の引越しの時、こんなの気がついた?」俊彦が尋ねた。
 明美は小さく首を振った。前髪が額の上にひと房落ちてきた。それをかきあげて、腕を下ろした時には、もう音は途切れていた。ダイニングは急に、しん、とした。
 「やだあ!」突然、明美が叫んだ。俊彦は、しがみついてくる明美を支えようとして、少しよろめいた。
 
 「隣の音じゃないみたい」明美が言った。
 俊彦は、ふうん、とも、へえ、ともつかない、あいまいな相槌を打って、首をかしげた。右手には本を持っている。自分の本棚を見つめている。真新しい本棚。これを選ぶにはずいぶん迷った。本をどう並べるか、俊彦にとっては大問題だ。それは明美にも分かってはいる。
 「隣に、挨拶ついでに行ってみたの。おばあさんが、一人いただけだった」明美は言った。言いながら、カーペットを掌でなぜて見る。昨日、これをここに敷いた時には、その柔らかな感触に感激したっけ。ふわふわと掌を受けとめる毛先。どうしてだろう。今日は、なんだかよそよそしい感じがする。この色。この手触り。
 「本は嫌い」明美は呟いた。
 「隣の音じゃないとすると、どこの音だろう」俊彦は言った。「多分、どこかの部屋の音が、換気パイプを伝って聞こえてくるんだろうな。」
 「欠陥マンションだわ」明美は言った。「管理人さんに行って、修理してもらってよ。」
 「そうだな」俊彦は言った。「こっちの声だって、聞こえているかもしれないし。」
 「嫌なこと言わないでよ」明美は言った。
 「でも、どうして今は聞こえないんだろう」俊彦は言った。
 「どうでもいいわよ」明美はそっぽを向いて言った。「早く管理人さんに電話して。」
 「まぁ待てよ」俊彦は、また本を一冊引っ張り出した。重さをはかっているみたいに、左手に乗せて、本棚を睨んでいる。「わざわざ来てもらって、やっぱり空耳でした、なんてことになってみろよ。いい恥さらしだぜ。」
 明美は俊彦の横顔を見詰めた。「じゃあ、また、あの変な声が聞こえてくるまで、待ってろって言うの?」
 「聞こえてくればね」俊彦は言った。そして、もう会談は終了した、といった感じで、手にした本を本棚に放り込んだ。
 「俊彦!」
 
 けれど、その後しばらく、あの不思議な声は聞こえなかった。二人の新居は、何事もなく平穏だった。翌日から、俊彦は会社に出勤した。明美はインターネットのピアノ教室サイトに、自分の名前と、マンションの住所と電話番号を、少し躊躇しながら書き添えた。反応はすぐにあって、近所の若い母親が、数人、見学希望のメールを送ってきた。そうやって、次第に、二人の生活のペースが固まり始めた。
 「結局、あの音、何だったのかな」ある日、明美は言ってみた。
 「空耳だろ」俊彦はこともなげにそう言って、本棚から本を取り出して、ページをぺらぺらめくり始めた。
 「何の本?」どうせ分からないのだけど、なんとなく明美は言ってみた。俊彦は、本の背表紙を明美の方にちらり、と向けて、またそのまま、本に没頭し始めた。
 何の本だか、明美には全然分からなかった。
 
 そんな会話のあった翌日、あの音がまた聞こえた。
 明美のピアノの生徒が来ていた。ハイドンのソナタをつっかえつっかえ弾いている、その最中に、子供が言った。「先生、何か聞こえた。」
 「駄目よ、さぼっちゃ」言いながら、明美の心臓が激しく跳ねた。「じゃ、ここから、左手のトリルを、つっかえなくなるまで」そう言って、明美はダイニングに入って、扉を閉めた。
 あの音だった。やっぱり、換気孔の奥から聞こえる。今度は、女の声だった。細い声で、切れ切れに、呟いている。何かを、呟いている。言葉の中身が分からない。子供の練習する単調なトリルの繰り返しの向こうから、頼りないリズムの向こうから、泣いているような、笑っているような、細い女の声が、切れ切れに流れ込んでくる。換気孔の奥から、滴るように聞こえてくる。ぽつりぽつりと落ちる雨のしずくの湿った音のように、届くあてもないままに、誰かに何かを伝えようとして・・・
 「先生」子供の声がした。
 気がつくと、ピアノの音が途絶えていた。生徒が、明美の傍らに立って、明美の手を握っていた。心の全てを支えてくれる温もりが、命綱のように、しっとり掌にしみ込んだ。
 「左手終わったの?」明美は言った。少し語尾が震えた。ダイニングはしんとして、何事もなかったように静かだった。
 
 「何時頃だったの?」俊彦が、ネクタイを外しながら言った。
 「四時ごろ」明美は言った。
 「前は朝聞こえたな」俊彦は、トレーナーを頭からかぶりながら言った。「予想がつかないな。とにかく調べてもらおうか。」
 「ねぇ」明美は言った。
 「何?」俊彦が言った。
 「どこから聞こえてくるのかな」呟くように、明美は言った。
 「換気孔からだろ」俊彦は言いながら、ダイニングをのぞきこんだ。
 「そうじゃなくて」明美が言った。「どの部屋の音なのかな。」
 「いい気持じゃないよな」俊彦が言った。「盗み聞きだもんな。」
 「そうじゃなくて」明美は言いかけて、口ごもった。
 「何?」俊彦が言った。
 「何でもない」明美は言った。こぶしくらいの石を飲みこんだような、変な気分がした。
 
 その夜、明美が目を覚ますと、あの音が聞こえた。
 俊彦を起こそうか、と思ったけれど、なぜかそんな気になれなかった。そのまま、一人で、ダイニングに行って、換気孔の下に立っていた。
 音は相変わらず、女の声と、男の声の二種類だった。女は泣いているようだった。時折、しゃっくりあげるような音がした。男の低い声が、それをなぐさめているようだった。けれど、その慰めも、どこかにいらだちを伴っている。この二つの声の間には、なんだか取り返しのつかない敵意のようなものがある。一緒に住んでいるのに、どこかで行き違ってしまったような、そのすれ違いの距離を埋める術をなくして、ただいらだった声をぶつけあうしかないような、そんな二人。
 そんな時もあった。俊彦の気持ちがつかめなくて、会うたびに喧嘩した。このまますれ違って、終わってしまうんだ、そう覚悟した時もあった。それでも、会わずにはいられなかった。電話せずにはいられなかった。なんとかして、俊彦と自分の間の糸をつなぎとめておきたかった。そうしないと、自分と世界をつないでいる糸が切れてしまうような、そんな不安で、居ても立ってもいられなかった。
 声は続いている。時に大きく、時に小さく、波のようにうねりながら、明美の上から降りてくる。切なげな女の声、そして、それを固く拒絶する男の声。
 「また聞こえてるね」俊彦の声がした。「こんなに遅い時間なのに。」
 明美は振り返った。
 「どうしたの」俊彦は言った。「泣いてるの?」
 「何でもない」明美は言った。
 声は小さくなり、やがて消えた。
 
 翌日の昼前に、管理人がやってきた。換気孔を覗きこみ、何度か首をかしげ、明美の入れたお茶をうまそうに飲み干すと、マンションの工事業者に連絡してみる、と言った。
 「妙なことがあるもんだねぇ」五十過ぎの、少し小柄な管理人は、何度かそう繰り返した。「どうも、妙なことがあるもんだ」そう言いながら、管理人はドアを開けて、首をかしげたポーズのまま出て行った。
 その日は生徒が来ない日で、明美は久々に、主婦業に専念した。昔、俊彦と交わした会話を思い出す。主婦はいいよな。三食昼寝付き。男が外で社会にもみくちゃにされている間に、のんびり家で昼メロを見てる。そんな呑気な御身分じゃないわよ。明美はちょっとムッとして言った。主婦業を本気でやろうと思ったら、ほんとに大変なんだからね。男には分からないような苦労が一杯なのよ。
 そう、楽な主婦でいようなんて思わない。手を抜き始めたら止まらないけど、手をかけ始めたらこれも止まらない。なんてったって、愛する夫のためですもの、手抜きはできませんよ。そんな独り言に、一人で照れたりしながら、空っぽの部屋のなかで忙しさを探してうろうろする。ダイニングで、またあの音がするまで、なんとなく、自分で作ったそんな浮き浮き気分に浸っていた。
 声は突然始まった。それはいつもと違って、甲高い女の悲鳴のような音から始まった。明美は思わず、手にした洗いたてのコップをシンクの中に取り落とした。派手な音を立てて、コップがシンクの中に転がる。声は、そんな音には一切構わず、男女の修羅場の様子を伝え始めた。女の悲鳴、男の罵声、そして、何かがぶつかりあう激しい音。明美は逃げだそうとした。客間に駆け込んで、ピアノをかきならそうか、と思った。けれど、できなかった。声が、明美の足を釘づけにして離さない。女の細い泣き声、そして、男が、まるで明美が聞いているのに気づいたように、周囲を気遣うような低い声で、何かを告げ始める。女の泣き声が小さくなる。男の声が続いている。声に濁った欲望が混じる。別の種類の音が始まる。もみ合っているような、ねばりつくような、絡み合う声。女の抵抗する泣き声。男の荒々しい息遣い。重いものがどさっと倒れるような音、そして二つの肉体が、それぞれの意思とは別の動きで、ねっとりと一体になっていく。
 全てが聞こえたわけではないのに、言葉は全然聞き取れないのに、明美はその場にいるように、音の一つ一つの意味が、手に取るように分かった。明美には聞こえた。聞こえた気がした。もう逃げだそうともしなかった。体全体がしびれたように、ただ立ちすくんでいた。肉のぶつかり合うじっとり湿った音が、ダイニングの中と、明美の空っぽの頭の中に響いていた。
 
 「工事の人が来てくれるって?」俊彦は言った。
 「管理人さんがね」明美は言った。「そう言ってた。」
 「今日も何か聞こえたの?」俊彦は言った。
 「ちょっとね」明美は言った。「一瞬だけ。」
 
 その夜、明美は俊彦を求めた。彼女から求めていったのは初めてだった。俊彦は少し驚いたようだった。でも、彼は応えてくれた。行為が終わっても、二人はしっかり抱き合っていた。そして、そのまま眠りに落ちて行った。
 真夜中に、一度、明美は起きだした。自然に目が覚めたのだ。俊彦は眠っている。それを確かめてから、裸の肩にパジャマの上着を引っかけて、ダイニングに立っていった。換気孔の下に椅子を持って行って、腰掛けて、待った。
 音は、彼女の準備が整うのを待っていたように始まった。今度は、女の声だけだった。明美は目を閉じて、声に聞き入った。声の主を想像してみた。華奢な体つき。明美と同じくらい、細い体。その体を震わせて、今にも消え入りそうに、言葉を絞り出している。細い体の小さな肺に、ためられる限りのわずかな息に、心に浮かんだ言葉を乗せて、ぶるぶる体を震わせながら、消え入りそうに、絶え入りそうに、ひたすら声をつなげている。誰にあてて話しているわけでもない。誰が聞いてくれるわけでもない。ただ、話さなければ、言葉を体の外に吐き出さなければ生きていけない。ただ、闇の中に言葉を放り込んでいくだけでいい。そうしないと、体の中にたまった言葉が、とんでもない方向に噴きだして、自分の体を内側から破裂させてしまいそうな、そんな気がする。どこかに吐き出していないと、内側からばらばらにされそうな、そんな気がする。
 俊彦と遠くなっていた頃、明美は時々、ピアノの鍵盤の上に頬を押しつけ、思い切り悲しいことを考えた。鍵盤は頬の肉に食い込み、不快な不協和音を鳴らし続けている。大好きだった飼っていた小鳥が死んだ日。親しかった親友との別れの日。可愛がってくれた祖母の葬式の日。悲しい思い出を心の中から無理やり絞り出す。涙があふれてくる。拭うこともしないで、ただ泣いた。一度涙が流れ始めると、しばらくは止まらない。どうしてそんなことをするのか、自分でもよく分からなかった。泣き終わると、鍵盤の上にたまった自分の涙を、丁寧に拭き取った。その時にピアノがたてる、控えめなグリッサンドの響きが好きだった。
 なんであんなことしたんだろう。ねえ、あなたには分かる?きっと分かってくれるよね。きっとあなたも、あの時の私と、同じ気持ちなんでしょう?
 換気孔の向こうの声は、明美の思いに応えるように、静かに波打つ。相槌を打つように、違う違うと首を振るように、ゆらゆらと揺れる。そうして遠いメッセージは、その終着駅の場所も知らないままに、闇の中にいくつもの波紋を広げ、沈黙の中へと落ちていく。
 声はゆっくり、遠くなった。
 
 ねえ。起きて。
 何?
 私たち、幸せよね?
 そうだな。
 幸せよね。言ってよ。幸せだよって。
 明美は、俊彦の首に腕をまわして、その広い胸に顔を埋めた。暖かかった。汗ばんで、熱いくらいだった。涙が出てきた。思い切り泣いた。久しぶりの、不思議な解放感だった。
 
 翌日の午後、生徒が来ている時に、工事会社から人がやってきた。ダイニングの換気孔のシールドが取り外され、底の知れない深い穴がぽっかり開いた。何だか、見てはならないものを見せられているようで、明美は極力、その穴から目をそらしていた。小さな生徒は、バイエルより、その穴の飲みこんでいる暗闇に興味があるらしく、練習の合間に、明美の目を盗んで、身を乗り出して工事の様子を見守っていた。付き添いで来ていた生徒の母親も、見ないようなふりをしながら、目の端にちらちらと工事の様子をうかがっている。生徒と母親を返して、冷たいお茶を用意しているうちに、工事は終わった。
 「原因はなんだったんですか?」明美は言った。
 「よく分からんのですがね」工事担当者は、冷えた麦茶を一息で飲み干すと、鯨のような大きなげっぷをした。「失礼、しかし、配管の一部に、防音材にちゃんと覆われていない部分がありましてね。ここと、もう一か所と。その露出した部分から音が漏れて、さらに壁と壁の間の空間に反響して、ここまで響いてきたんじゃないか、と。とりあえず、配管を防音材でくるみましたんで。」
 「はあ」よくわからないまま、明美は言った。
 「ここと、一階の105号室で、同じ状態になってました。多分、あちらの音が聞こえてきたんでしょう。」
 「そうですか」明美は、105号室の住人ってどんな人だっけ、と考えた。えっと、あの夫婦は確か一階にいた。でも、105号室だっけ。待てよ、あっちの夫婦かもしれない。それとも、あの独身風の女性かな。
 「もう何も聞こえないと思いますが、何かあったら、また呼んでください」そう言って、工事担当者は、また見事なげっぷを一つした。
 
 「よかったじゃないか」俊彦が言った。
 「105号の人って、どんな人だっけ」明美が言った。
 「さあね」俊彦は言った。なんだか、100メートルくらい向こうから話しているような声だった。「どうでもいいんじゃないの。もう何も聞こえないっていうんだから。」
 「でもね、また聞こえるかもしれないって」明美は言った。
 「いいんじゃないの、もう」俊彦は邪魔くさそうに言った。「聞こえたら、どうするの?」
 「そんな言い方しなくても」明美は口ごもった。
 「何?」俊彦は言った。
 「なんだか、悪いじゃない」明美は、俊彦の不機嫌に、なんとか割り込もうとした。「また聞こえたら、別の方法考えないといけないし、そうなると費用もかかるかもしれないし、だったら、今までのことも含めて、きちんと説明した上で、どうするか相談しないといけないし。」
 「じゃあ何て言うわけ?」俊彦の声のトーンが高くひずんだ。「これまで盗み聞きしておりました、何月何日にこんな音が聞こえましたが、これは確かにお宅の会話でしたよね、とか言うわけ?いままで盗み聞きしてたみたいでごめんなさいって言うわけ?これからもよろしくお願いします、今後こちらの声が聞こえてきたらしばらく耳をふさいでいただいて、工事業者に慰謝料請求しましょうか、とか何とか言うわけ?」
 「慰謝料なんてこと言ってないし」明美は口を挟みかけた。
 「いい加減にしろ!」俊彦は叫んだ。「大体、俺はこの家で、この場所だけで生きてるわけじゃないんだよ!会社もある、色んな付き合いもある。世間にもまれて、色んなものにぶつかって、しんどい思いしてここに帰ってくるんだよ。そしたら君はあの声のことで夢中だ。夜になったらこそこそ起きだして、換気孔の下で盗み聞きとくる。俺が知らないと思ったのか?悪趣味だと思わないのかよ。どこの家か分からないけど、他人の家の中のことに首突っ込んで耳そばだててる余裕があるんだったら、少しは俺のことも考えてくれよ。それくらいの余裕はないわけ?」
 俊彦の声が、そこで宙に浮いた。「何?」
 「思い出した」明美の声が、静かに響いた。「ねえ、思い出したわ。初めてあの声が聞こえてきた時。私、確かに聞いたわ。あなたの今の声と同じ。いい加減にしろって。今のと同じ声。」
 「それがどうしたよ」俊彦が喚いた。「だからどうしたって言うんだよ。君はいつだって自分のことばっかりだ。昔っからそうだ。自分の周りのことしか見えちゃいない。俺のことなんておかまいなしだ。」
 「やめて」明美が言った。
 「何だよ」俊彦が言った。
 「換気孔から聞こえる」明美が言った。
 俊彦は、顔を真っ赤に染めて、そのまま書斎に飛び込んで、ぴしゃり、と扉を閉めた。
 
 しばらくして、俊彦は、少し唇を引き締めて、書斎から出てきた。さっきは悪かった。仕事で上司に無茶言われて、むしゃくしゃしていたんだ、と、頭を下げた。明美は少し微笑もうとして、思わず涙をこぼした。それでもう、二人は、すっかり仲のいい夫婦に戻っていた。
 その夜、俊彦は明美を求め、明美は応えた。突き上げる肉の快感とは別のところで、頭はさえざえと別のことを考えていた。
 結婚しよう、と、俊彦が言った時、明美は嬉しかった。ただむやみに嬉しかった。どうして嬉しかったのだろう。そんなこと、考えもしなかった。とうとう、この人の妻になる。恋人から、妻と言う別のステージに入ること。その意味すること。いつでも一緒。いつでも同じものを見て、同じことを感じて、同じことに笑って、同じことに泣いて。
 そんなこと、大嘘だ。ありえない、子供の夢だ。同じ人間でもない夫婦が、同じことを同じように感じるなんて、そんなことがありうるはずもない。でもそんな嘘や夢を重ねて、崩れ落ちそうな「夫婦」の形が、なんとか保たれているんじゃないか。
 俊彦が眠っている。明美はそっと起きだした。ダイニングは暗い。明かりもつけずに、換気孔の下に、以前したように、椅子を寄せた。
 そして、呟き始めた。調子の狂った歌のように。風に吹き飛ばされそうな木の葉の、ひゅうひゅうという小さな叫びのように。でも何よりもその呟きは、あの日、換気孔から聞こえてきた、言葉もはっきりしない女の声によく似ていた。明美もそれを知っていた。
 ねぇ、誰か聞いてる?明美は呟く。誰も聞いちゃいないよね。分かってる。誰も聞いてなくてもいいの。こうしないと、体がはじけそうなの。内側にたまった言葉で、体が爆発しそうなの。
 これから、幾晩も、こんな夜があるんでしょうね。そしてきっとそのたびに、私はこうして、ここで、意味もない独り言をぶつぶつと呟くんでしょうね。誰も聞いてなくてもいいの。それでいいの。それでもいいのよ。そして、明美は小さく微笑む。そうよ。今、私、とっても幸せなんだから。
 
(了)