手紙

 石段を登って、深大寺の山門をくぐると、なんじゃもんじゃの木の下に、彼女が立っていた。セーラー服の制服に紺のベスト。目印になる白い大きな封筒を抱えて、少し不安そうに周囲を見回している。おでこに散らばっているにきびの痕。近寄るのに少し勇気がいる。私と彼女の間にある、時間という深い溝を飛び越える勇気だ。思い切って、近寄っていく。
 「泉さんですか?」と声をかける。にきびのおでこの下にある瞳が、はっと見開かれて、そこから顔全体に、さあっと微笑が広がっていく。微笑は私にも伝染する。
 「泉さんですね?」と彼女が言う。私はうなずく。そして二人で微笑みあう。同じ名前を持つ二人。私は男性で彼女は女性。私は60過ぎ男で、彼女は青春真っ只中の16歳。性も年齢も離れた私たちを、同じ名前がつないでいる。
 手紙を受け取った時は、冗談だと思った。そこに書かれていたある女性の死の知らせが、私の胸をついた。おばあちゃん、と手紙の主が呼ぶ女性。それは私の、かつての恋人だ。私の名前は、おばあちゃんがつけたんです。泉、と言います。あなたの名前です。おばあちゃんが死ぬ前に、私に教えてくれました。自分の昔の恋人の名前を、お前につけたのだ、と。
 おばあちゃんから、預かったものがあります。手紙にはそう綴られていた。お会いして、お渡ししたいんです。昔、おばあちゃんとあなたがよくデートした、深大寺の境内で、お会いしたいのですが。
 「すみません、お呼び立てしてしまって」と彼女が言う。手紙と同じ、年齢に不相応な、少し古風な言葉遣い。なんだかほっとする。同世代であれば同世代の言葉遣いになるのだろうけど、年長者には年長者に向けた言葉遣いのできる、そういう気配りの出来る子だ。
 「そちらこそ、東京の反対側からいらっしゃったんだから、大変だったでしょう」私は言う。「時間もいい時間だし、蕎麦でもおごりましょう。」
 「お言葉に甘えます」少女は微笑みながら言う。「ご一緒したいお店があるんです。女性が店を指定するのは、反則かもしれませんけど。」
 そういって、彼女は、ある蕎麦屋の名前を口にした。その名前が出たことに、私は驚く。「まだあるのかな」と思わず言う。「このあたりも随分、店のたたずまいが変わっているし。」
 「ありました」と彼女が微笑む。「少し早めに来て、下見を済ませています」そういって、今度は声をたてて笑う。「なんだか、女の子を初めてデートに誘う高校生みたいですね。」その笑い声に、40年近く前の、あの人の笑い声が重なった。
 まだ少し昼の時間に早く、すぐ店内に案内された。葦簀の屋根が涼しげな影を作っている、半屋外の席に座る。大木を半分に切ったテーブルの木目が綺麗だ。注文して蕎麦が着くのを待つうちに、どんどんと店先に行列が出来ていくのが見える。
 「早めに来たのがよかったね」と私は言う。あの人と一緒に来た時も、いつも行列を避けて、昼の早い時間にこの店に入った。厨房の奥で忙しく立ち働いている老店主に、なんとなく見覚えがあるような気もする。
 「忘れないうちに、お渡ししておきます」と、少女は、手にした大きな封筒を私に渡す。受け取って、封筒を開けようとした手を、少女は、つい、と指を伸ばして押さえる。かすかに手の甲に、指のぬくもりが伝わる。「今開けないでください。私と別れてから、お一人になってから、開けてください。それが、おばあちゃんとの約束です。」
 「なんだか秘密が多いなぁ」私は苦笑いする。「そもそも、どうして私の住所をご存知だったのか、お祖母さまとどんなお話をしたのか、まるで教えてくれないんだから。」
 「おばあちゃんとは、ほとんど話をしていないんです」と、少女は言う。そこで蕎麦が来た。「おばあちゃんも、デートの時には、天ぷら蕎麦を頼んだんですか?」と少女が言う。しばらく、蕎麦の話になる。少女は上手に、私の聞きたい核心から、話題をするりとすりかえていく。探る私の言葉は肩透かしを食って、何度となく宙にぼんやりと消えていく。
 食事を終えて、店を出ても、彼女は私の問いにはまるで答えてくれない。このまま帰すわけにはいかないと、団子屋に誘った。「行きたいお店があります」とまた言う。ひょっとして、うまく乗せられているだけなのかもしれない。この封筒の中にも、ただの紙くずが詰まっているだけなのかもしれない。独居老人を相手にした、体のいい詐欺の一種か?それにしては手が込みすぎている。
 団子もおごらされた店先からは、澄み切った池の水面が輝いて見える。光を受けた少女の横顔に、あの人の横顔が重なって見える。自分が60すぎた老人であることを、ふと忘れる。時間が意味を失う。目の前にいるのは、あの人だ。この少女の中に、あの人が確かにいる。この少女の体にしっかりと流れる、あの人の血を感じる。これは断じて詐欺ではない。詐欺で血までごまかせるものか。
 青い、澄み切った空を見上げる。この少女に、私の名をつけてくれたあの人に、天の高みにいるあの人に、見えていますか、と声をかける。私たち二人を見ていますか。あなたのいる高い所から、私たち二人が見えますか。あなたのおかげで私たちは出会い、そしてあなたを感じています。お互いの名前の同じ響きに。このお嬢さんの笑顔の奥に、軽やかな声の後ろに、私はあなたを感じています。
 「おばあちゃんは、ずっと眠っていました」と、突然、少女が呟いて、私の意識は現在に引き戻される。気がつくと、少女はまっすぐに、私の眼を見つめている。
 「おばあちゃんは、亡くなる前の2年間、ほとんど眠り続けていました。一日のうち、意識が戻るのはほんの数十分。でもその数十分の間も、半分眠ったようで、まともに私たちと言葉を交わすことはめったになかったんです。」
 でもあの日、おばあちゃんははっきり目を覚ましたんです。はっきり目を覚まして、私に言いました。「今、夢を見ました」と。
 今、夢を見ました。泉さんという方と、調布の深大寺の境内を歩いていました。昔私が愛した男性。お前と同じ名前の男性です。植物公園に抜ける坂道を、二人で息をつきながら、歩いていました。あの人は言いました。手紙を下さい。私は今、一人でいます。さびしくてさびしくて、たまりません。どこかで、誰かが、私のことを思ってくれている、そのことが信じられなくて、一人閉じこもっているんです。助けてください。私に、手紙をください。私に、手紙をくれるのは、世の中できっと、あなただけです。
 「そういって、おばあちゃんは、夢の中であなたが告げた、あなたの今のご住所とお名前を、私に教えてくれたんです。」
 少女はしっかり私の目を覗き込んでいた。そして言った。「言ってください。もうさびしくないって。もう一人じゃない、もう、二度と、一人ぼっちで死ぬなんて、考えたりしないって。」
 「お暇します」しばらくまっすぐ私の目を覗きこみ、その中に確信を見つけて、少女は立ち上がる。私も立ち上がろうとするが、彼女の細い指が、私の肩を押さえる。「ここでお別れします。封筒の中を確かめて下さいね。」
 少女は笑顔できびすを返す。紺色の背中が、澄み切った空気の中で遠ざかる。見送って、私は封筒を開く。中から出てきたのは、古びた手紙の束だ。見ればどの手紙にも、私の名前があて先に書かれ、差出人には、あの人の名前がある。幾通もの色あせた手紙たち、それらは全て、消印すら押されていない。差し出されることのなかった手紙の束。あの人は、この手紙をずっと、大切に守り続けた。そして自分が死ぬ間際に、私が、その手紙を一番必要としている時に、私の手元に届けてくれたのだ。
 視界がぼんやりかすむ。一通、他の手紙とは趣の違う、まっさらな白い封筒がある。あて先に私の住所と名があり、差出人には、東京の東にある住所と、私と同じ、「泉」の名がある。中を改めてみれば、小さな紙片に、こんな言葉がしたためられている。
 「お手紙下さいね。 泉から、泉さんへ」

(了)