オレンジの花は香り

母さん、この酒は強いね。
 ~マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」より~
 
 風が気持ちよさそうだ。あの展望台に車を止めて、少し休もう。
 あそこに見えるのはみかん畑だろうか。そう思うと、あま酸っぱい香りがここまで漂ってくるようだ。時々こうやって、都会を、仕事を離れるのもいいもんだな。
お前は実に賢いやつだ。余計なことは詮索しない。心の中に疑問符が無数に浮かんでいるだろうに、顔の表情一つ崩さない。大した奴だ。
しかし、お前が、自分の疑問をほったらかしにしておくようなタイプでないことも、私はよく知っている。今日、私がお前に何も言わずに会社に戻れば、お前はさっそく、自分の情報網の全てを動員して、今日の私の行動の背景を調べ上げるつもりだったろう。そして必ず、お前は真実にたどりついただろう。責めているのじゃないよ。疑問があったら必ずその答えを見つける。自分なりにきちんと納得してから、先に進む。大事なことだ。そういう大事なことをきちんとできる男だから、私はお前を、私の後継者として選んだ。その選択を疑ったことはない。
だから、今日、お前に運転を頼んだ時から、私はお前にこの話をするつもりだった。私の背負っている重い過去について、この古い物語について、お前に話すつもりだった。そのつもりで、あの墓地まで付いてきてもらった。そのつもりで、あの墓の前まで付いてきてもらった。
あの女が、墓の前にいることも予想していたし、あの女が、私に向かって投げつけるだろう言葉も、全て予想できていた。その上で、お前に来てもらった。全てを見、全てを感じて欲しかった。あの女が私に投げつけた、人殺し、という言葉の意味を、しっかり受け止めて欲しかった。
死ぬだの殺すだの、なんとも物騒な話、と思うかもしれんが、これだけは仕事上のアドバイスとして言っておく。会社を一つ経営していれば、いくつもの人生がそこに関わってくる。自分の好むと好まざるとにかかわらず、人の生死を左右してしまうことだってある。自分の下した経営判断が、人の一生を大きく狂わせることなぞしょっちゅうある。逆に言えば、それだけの覚悟がない者は、経営者として判断を下す資格はない。
 まぁしかし、安心しろ。たいていの経営判断は、人の命に直接かかわることはない。よほど自分で意識して、相手を死に追い詰めない限りは、人間、どこかに逃げ道を見つけて、うまく世渡りしていくものだ。そうやって、何度となくどん底に落ちては、しぶとく這い上がってくる連中を、私はたくさん知っている。
 しかし、5年前、私ははっきりした殺意を持って、ある男を一人追い詰めた。そして彼は、私の思惑通りに、自ら命を断った。あれは明確に、私の意図的な殺人だった。それも、私は、極めて個人的な嫉妬心から、一人の若者を死に追いやったのだ。
 話はさほど複雑じゃない。実際、表面上は、世間でよく聞く話だ。彼は私の友人の息子で、父親の後を継いだ、若い、血気盛んな経営者だった。父親のつてをたどって、私の会社に長期融資を申し入れてきた。父親との友情だけが理由じゃなく、彼自身のアイデアも斬新だったし、投資価値のある案件だと思った。かなりのまとまった金額を貸し付けたが、利子の返済は遅滞なく、売り上げは順調に伸びていた。資金調達が自転車操業なのは、この規模の企業にはよくあることで、全く心配していなかった。優良案件とは言わんが、ハイリターンが期待できる、長期投資型の案件だと思っていた。
 破綻は仕事とは関係のないところから来た。早苗だ。
 ある日、匿名の手紙が来た。女文字で、差出人の名前がない。こんな三文ドラマみたいなことが、現実に自分の身に降りかかるなんて、想像もできなかった。手紙は何通も来た。早苗と、この若い経営者が、高校時代からの友人だったこと、私の融資についての口添えを頼む過程で、早苗との間に、ただならぬ関係が生まれたこと。早苗の行動、彼の行動、全てを1時間単位で記述してある、興信所も真っ青の詳細なレポートだった。それでもう、私は理性を失った。男なんてのは実に簡単なもんだ。
 早苗を直接自分から問い詰めることはしなかった。できなかった。知っての通り、これだけ年の離れた夫婦だ。分かりあっているようでも、娘と言ってもおかしくないほど年が離れてしまうと、どこかでお互いの立っている場所が根本的にずれているような気がするものだ。少しでも相手の行動に疑問を感じると、全てが見えなくなる。何も信じられなくなる。
 妙だと思ったが、あのころほど、早苗がきれいに見えたこともない。不思議なものだ。相手の全てが自分のものだと確証が持てなくなった途端に、失ったものが輝いて見える。あの頃はひどく精力的に早苗を求めた記憶がある。早苗はきちんと応えてくれるのに、それがまた苛立ちを助長する。ひどく加虐的な行為に走ることが度重なり、それがまた、早苗の心を私から離れさせているような、そんな被害妄想の悪循環にはまりこんでいく、そして手紙は絶え間なく届く。恐ろしい日々が続いた。
 早苗が何を考えていたのか、よく分からない。あの子は静かに耐えていたように見えた。私の虐待にも、うっすら涙を浮かべながら、それでも小さく微笑んで、何も言わずに私に尽くしてくれていた。同じように、彼にも尽くしているのだと思った。私の虐待に耐えているのも、彼の経済的後ろ盾を失ってはならない、という使命感からだ、と思い込んだ。
 とはいえ、私も、君と同様、人の言うことをそのまま鵜呑みにはしないたちだ。興信所を雇って、早苗の行動を調べたよ。調査結果がまた、私を打ちのめした。早苗は頻繁に、私の嫉妬の対象である若い経営者と会っていた。それも、ラブホテルで密会、というのならまだ分かりやすいのに、一緒に映画を見るだの、喫茶店で話しこむだの、高校生のデートのような密会を何度も重ねていた。カラオケボックスで深夜までこもっている、というのが、唯一男女の関係を想像させる行動で、それがまた、私の嫉妬をあおった。うまくごまかしながら、私が想像もできないような密な愛の交歓を楽しんでいるのだと思った。絶え間なく届く手紙も、それを裏付ける記述に満ちていた。
 早苗に暴力を加えることさえあったのに、彼との密会を咎める言葉を最後まで口に出せなかったのはなぜだろう。自分のプライドのせいだとしか思えない。早苗の心が、他の男の傍にあることを、自分の口から、自分の言葉で肯定することが怖かった。そうすることで、本当に早苗の心を失ってしまうのが怖かった。そう、そんな状態になっても、私は早苗を愛していたんだ。どうしようもなく愛していたんだ。
 早苗に向けられた暴力よりも、もっと邪悪な破壊衝動が、男の方に向けられた。私は実現不可能なコミットメントを彼に要求し、それが実現できなければ、貸付金の元本を返済しろと迫った。彼の会社は資金繰りにたちまち窮した。彼からの嘆願は、私の怒りに油を注ぐばかりで、何の役にも立たなかった。私は手を緩めなかった。会社破産後も、自己資産の全てを失う状態になるまで、彼の逃げ道を一切ふさいだ。
 その頃には、興信所の調査で、私の手元に届いている手紙が、彼の以前の恋人の、静香という娘からのものだと分かっていた。興信所の調査結果には、彼の子供を身ごもりながら、結局流産したと書かれていた。そこまで身をささげた女を捨てて、人の妻に手を出す最低の男だと思った。死んで当然だと思った。この人非人をこの世から抹殺することが、私の社会的な使命だ、とさえ思った。
 結局、彼は自ら死を選び、その生命保険で、私の貸付金の最後の返済は実行された。早苗は相変わらず美しかったが、私はもう、獣のように彼女を求めることをやめた。静香からの手紙も、以来ぷっつりと届かなくなった。
 彼の死後、1カ月ほど経って、彼の母親が、私のもとを訪れた。そして、彼の遺書を見せながら、私に全てを語ってくれた。おそらくはそれこそが、唯一の真実と思えることを、静かに。
 彼は遺書の中で、早苗と彼の間の潔白を、ほとんど悲痛な叫びのように訴えていた。彼はまっすぐ正直に、彼自身の中に、早苗への欲情があったことを認めていた。そして、自分が静香の思いに応えられなかったことに対しても、どこか清々しい印象すら感じる言葉で、淡々と自らを裁いていた。
 「僕は自ら死を選びます」と、彼は書いていた。私はその一節を、今でも目の前に、その文面が浮かんでいるかのように、彼の端正な筆跡と共に思い出すことができる。「僕は何度も静香に訴えました。信じてくれと。僕の心を信じてくれと。そう言いながら、僕は今、僕自身に確証が持てないでいるのです。本当に僕は潔白だったと言えるのか。僕と早苗さんとの間には、本当に何もなかったと言えるのか。僕は間違いなく、早苗さんに対して女性を感じていました。あれほど優しく僕の言葉に耳を傾けてくれた人はいない。あれほど官能的に、僕の手を握ってくれた人はいない。早苗さんとセックスをしたことはありません。でも僕は、彼女と共にいる時間、激しく彼女を欲していました。早苗さんの肉体を夢に見て絶頂に至ったことも何度もあります。僕はどうしようもなく早苗さんに捕らわれていた。静香が嫉妬に狂ったのは当然のことです。僕は静香を愛していた。なのに、早苗さんに捕らわれていた。静香を愛しきれなかった。中途半端な思いで、静香を傷つけた。だから母さん、静香を責めないでやってください。僕は、安村さんに弁解をしません。安村さんが、僕の不貞を責めているのを知っていても、それを否定することができないのです。静香が、僕の不貞を訴えても、それを否定することができないのです。全ては僕の罪です。だから母さん、静香に伝えてやってください。雅彦は、お前を愛していたと。本当に心から愛していたと。だから、あの子は死んだのだと。お前が信じた嘘を、真実にするために、黙って死への道を選んだのだと。だから、お前は生きねばならないのだと。あの子の思いを一生背負って、生きねばならないのだと。そして母さん、静香を、自分の娘だと思って、愛してください。」
 彼の母親は、低い声で私に告げた。静香は、今、私の息子の子供を身ごもっています。最後の最後に、息子が彼女に託した命です。私たちはこの子供を糧に、これからも生きて行くつもりです。
 そう、私が今日訪ねたあの墓地には、あの墓には、私が死に追い込んだ若者が眠っている。そして彼の母親も、つい先月、天に召され、彼と同じあの墓の中に納められた。そして墓の前で、私に向かって、人殺し、と言葉を投げつけた狂った女こそが、静香その人だ。
 そう、静香が胸に抱いていた人形、あれが、静香が身ごもったという、彼の残した子供だ。彼は静香に、子供を授けたりしなかった。全て静香の心の中で起こったことだ。早苗と彼の不貞も、彼の与えた子供も、全てが静香の嫉妬に狂った心が生み出した幻だ。しかし、その幻は、彼の早苗への思いの真実を射抜き、残された母親と静香の生活を支えた。では、それは本当に幻と言えるのか、私には、それを判断する資格はない。
 お前はひどく青ざめている。賢いお前は、なぜ私がこの物語をお前にしたか、その理由を先回りで理解している。そしてそんなに青ざめている。そう、私の手元には、すでに興信所からのレポートがある。早苗とお前の密会を報告するレポートだ。おそらくお前も知っているように、今、早苗の体には、私の加えた虐待の傷跡が生々しく残されているだろう。早苗は最近、恐ろしく美しくなった。私は毎晩、狂った一匹の獣のように、早苗を求めている。あの子はそれに涙を浮かべて応えてくれる。涙を浮かべて、どこか透徹した静かな微笑みと、喜悦のあえぎをもらしながら、私の欲望をひたすら受け止めている。そして私には、お前の目の中に、早苗に対する餓えた欲望が燃え盛っているのが見える。私の身を焦がしているのと同じ、そしてあの青年を死に追いやったのと同じ、決して満たされることのない渇望が、行き場を失ってさまよっているのが見える。

(了)