娘は、蛍と呼ばれていた。それが本名かは知らない。放蕩の果てに、私が見つけた、苦界の中の小さな花だった。
 何度となく廓に通い詰め、気を楽にして語れるほどに昵懇になると、蛍の口の端からは、時折、耳慣れぬ抑揚の言葉がこぼれた。それは北国の言葉で、暖かな囲炉裏の匂いがした。しんしんと積もる雪のぬくもりがした。幾人もの女をさばいてきた私には、その言葉の柔らかな音韻の響きが、白粉の下からのぞく思いがけない幼さが、心をふっと優しく包み込むその感覚が新鮮であった。数年前の寒い夏が、娘をここに追いやったのだった。本当に、やませ風には困りもんだぁ。蛍はそう言って、白く塗りたくられた華奢なうなじを小さく傾けて、野菊のように無邪気に微笑んだ。
 細面の、整った顔立ちと、夜の女のけばけばしい化粧が、蛍の年を曖昧にしていたけれど、どうやら自分で言っている年齢より、2つか3つ、あるいは4つくらいは幼かったかもしれない。そんな少女が、一人前に客を取って、甲高い声で品を作っているのが痛々しくて、私は蛍を抱けなかった。困ったような顔をして、蛍は私を見上げたのだけれども、私はどうしても、その透き通るような肌に触れることができなかった。部屋にこもり、蛍は私の胸の中に寄りかかっている。ランプの蜜柑色の灯りが二人の影を一つにする。小さな掌を弄びながら、一晩中、ただ物語をした。不思議な気分だった。抱いているのに抱かれているような、安らかな心地がした。蛍は祖母から聞いたという、北の国の古い物語を語った。私は蛍にねだられるままに、遠い欧州のおとぎ話を語って聞かせた。そうして二人の時間は流れた。私が生まれてから体験することのできた、もっとも濃密な時間だった。
 身請けできるだけの財力も度胸もない私には、ただその廓に通い詰めるより他はなく、蛍が他の客の相手をしている夜は、自分の中に熱い鉄を呑み込んだような思いに焼かれた。あの夜、蛍にそんな思いを告げると、蛍は微笑んで、これは秘密だ、と、私に背中を向けた。帯を緩め、襦袢の襟もとを広げ、そのままさらさらとけばけばしい色が流れ落ちると、真っ白な背中が露わになった。背中の真ん中にほくろがあるでしょう。これは私の神様のしるし。誰にも触らせない。お金で私を抱こうとする男の人たちには、絶対に触らせてやらないの。
 でもどうやって触らせないの?私が聞くと、蛍はゴム絆創膏を見せて、いたずらっぽく微笑んだ。今日は外したの。あんたには特別に、さわらせたげる。
 背中の上で灯りが揺れる。私は何か祈るような、厳粛な心持になって、そっと指を蛍の背中の上に這わせた。きゃしゃな肩が大きくあがって、ふるっと震えた。私の指が背中のくぼみをたどり、その蛍の聖域に達した時、蛍は、あ、と、声にならない細い声を上げた。
 その声は今でも、私の耳の底に残っている。白い、小さな背中の上で、取り返しのつかないことをしでかしたような気持ちに、私の指は震えた。元通りにゴム絆創膏をつけてやると、蛍はうるんだ眼をして、微笑みながら涙をこぼした。
 蛍。彼女はもういない。その翌日のことだった。廓街に、火の手が上がった。蛍の廓から火が出、廓街を炎が呑み込み、大勢の娘たちが焼け出された。助かった者たちの中に、蛍の姿はなかった。
 焼け跡に立ちつくした私の傍らで、生きながらえた店の幇間の男が語ってくれた。蛍は、身請けが決まっていたのだそうだ。近隣でも名の売れた問屋のご隠居に見染められて、妾の口が決まっていたのだそうだ。その日も、ご隠居は来ていた。蛍の部屋で、何か争うような物音がした後、火の手が上がったのだそうだ。焼け跡からは、ご隠居らしい死体が見つかった。蛍の遺骸は、結局見つからなかった。
 今も目を閉じると、私は、あの夜の、空を焦がす炎の様を、ありありと思い浮かべることができる。淀んだ廓街の空気を引き裂くようにして噴き上がる炎。それが一番大きく閃いているのは、蛍の廓のあたりだ。見守る人々の面を焦がして火の粉が花弁のように風に散ると、その中心から、真っ白な、ひときわ鮮やかな炎が一筋、さあっと一直線に、天に向かって駆け上がるのが見える。星空の中に溶け込んで、あっという間に見えなくなる。あとにはただ、怒りそのもののような赤黒い炎が、めらめらと街を呑み込んでいくばかりなのだった。

(了)