飛行機公園と竹とんぼ

 調布飛行場目掛けて、小さなセスナ機が、急に舞い降りてきた。空中に突然現れる感じで、いつも驚く。飛行場に近づく小さな機影を前もって見つけるのは難しい。プロペラの音が聞こえて見上げた時には、窓の中のパイロットの顔さえ見えるほどに、既に飛行機は近づいている。
 飛行機公園、と私が勝手に呼んでいる公園(正式名称は、武蔵野の森公園、というそうだ)の、飛行場を見下ろせる小さな丘の上で、私は一人座っている。待ち合わせの時間までは、まだ1時間以上ある。待ち合わせの場所は、味の素スタジアムの前、甲州街道にまたがる歩道橋の上。気の早い彼のことだから、きっと20分前くらいには飛田給駅に着いて、道端の屋台なんかを冷やかしながら、私の到着を待つだろう。どきどきしながら待つだろう。私の答えを待つだろう。
 次のデートの時、返事を欲しい、と彼は言った。今度、味スタでやるFC東京の試合を見に行こう。その時、正式な返事が欲しい。急に目の前から舞い降りてくるセスナ機のような、突然の申し入れ。さて、どう答えたものか。そう考える私の側で、着陸したばかりの飛行機が、ばりばりと空気を叩き続けている。ばりばりばりばり。どうするどうする。ばりばりばりばり。どうなるどうなる。
 ふっと目の前に小さな影が飛んで、遠近感が取れなくて、あれ、飛行機か、と思った。そんなはずはない。さっき一機着陸したばかりだ。次の飛行機が離陸するにせよ、着陸するにせよ、間隔が短すぎる。うまく目の焦点が合わなくて、自分の周りがぼやん、とぼやけたような、不思議な感覚が過ぎて、あ、竹とんぼだ、と気がついた。
 私の足元に転がっている、小さな竹とんぼは、随分と古びた濃い茶色をしている。手で挟む部分は手垢で真っ黒だ。こんな脆いおもちゃを、よくまぁこんなになるまで使い込んだものだ、と感心しながら拾い上げると、目の前に、小さな女の子が、棒のように立っている。ポニーテールに茶色い袖なしワンピース。その下に着た白いTシャツからにょっきり延びた二の腕は、ぽよぽよのハムみたいにはちきれそうだ。ちょっと美味しそう。
 「あなたの?」と聞くと、丸い目を人懐っこそうに輝かせて、こくん、とうなずく。はい、と手渡すと、そのまま駆けていくわけでもなく、その場で受け取るなり、竹とんぼを小さな手のひらで挟んで、空に向かって飛ばそうとする。回転が足りなくて、ころん、と無様に落ちた。幼稚園児くらいの年頃だろうか。ちょっと要領がつかめていないようだ。
 「貸してごらん」と言う。素直に渡してくれた。手のひらに挟んで、速くもなく遅くもなく、すっと回転させてやると、竹とんぼは見事に秋空に向かって飛ぶ。女の子は歓声を上げて、竹とんぼを追いかける。地面にゆっくり着地したのを拾って、またこちらに駆けてきた。「やって、またやって!」
 もう一度飛ばしてあげる。自慢じゃないが、竹とんぼ飛ばしには自信がある。子供の頃、おばあちゃんっ子で、おはじきだのお手玉だの竹とんぼだの、古い子供のおもちゃでさんざん一緒に遊んだ。年をとって子供に戻ったみたいな、無邪気な笑顔が可愛かったおばあちゃん。懐かしい。そう思って見てみると、目の前の小さな子供のくしゃくしゃの笑顔は、なんだか私のおばあちゃんに似ている気がする。子供は顔中笑顔にして、竹とんぼを追いかけてコロコロと走っている。
 こんな風に飛べたら、と、軽やかに飛ぶ竹とんぼを見ながら、ふと思う。こんな風に軽やかに飛べたら。
 一緒に飛ぼう、と、彼は言った。一緒に飛ぼう。転勤が決まったんだ。勤務地は大島だ。一緒に来て欲しいんだ。一緒に、調布飛行場を飛び立つ定期便に乗って、大島に来てくれないか?
 今日のデートで返事をしなければ。まだ、どう返事するか、決めていない。大島は遠い。一緒に行って、彼と新しい生活を始める。考えただけで、怖い。なんとなく楽しく、一緒にサッカーを見て笑ったり、映画を見て泣いたり、美味しいものを食べて感激したり、そんなこれまでのふわふわした日々とはまるで違う、日々真剣勝負の未来。もくもくと湧き上がる積乱雲や、雷雨の中を雄々しく飛ぶトンボのような、そんな勇気が必要だろう。そして私には、そんな勇気の自信はない。
 見知らぬ女の子は、きゃっきゃと笑い声を上げながら、自分で竹とんぼを飛ばす。ちょっと要領が分かったみたいで、うまく回転してふわり、と浮き上がる。上手だ、と手を叩いてあげると、顔中くしゃくしゃにして笑った。本当におばあちゃんに似ている。かわいい。
 「どこから来たの?」とたずねると、「大島」と答えた。どきん、とする。
 「飛行機に乗ってきたの?」と聞く。こくん、とうなずき、「生まれた時に」と答えた。時間の感覚がずれている。「パパとママと一緒に、飛行機に乗った。」
 えっと、と想像の翼を広げてみる。大島で結婚したパパとママが、子供が生まれた直後に東京に戻ってくる。子供が3歳くらいになってから、懐かしい調布飛行場に遊びにくる。幼い子供に、生まれたばかりに彼女が体験した、彼女の知らない大旅行の思い出を話して聞かせる。3歳くらいの子供の頭の中で、今の住所と、自分達は大島から飛行機にのってやってきた、というお話がごっちゃになる。そこで、「どこから来たの?」と尋ねられる。元気よく答える。「大島!」
 ・・・てなところかな、と思ったところで、ぎゃー、と獣のような泣き声がする。あらあら、さっきまで機嫌よく笑っていたのに、と見てみれば、背の低い木の下で、子供はぎゃんぎゃん泣いている。ふわりと舞い上がった竹とんぼが、木の枝に引っかかって取れないのだ。泣かないでいいよ、と声をかけて、枝を揺らして振り落としてあげた。あっという間に笑顔になる。今泣いた烏がもう笑った。
 「すごく古い竹とんぼだね」と話しかける。「大事にしないとね」
 「大事なの」と元気よく答える。「パパが、ママに、けっこんをもうしこむ時に、あげたんだって」
 それはまた、面白いプロポーズの仕方だな、と思うと、幼い子供はまた竹とんぼをさぁっと空に飛ばして、それを追いかけて駆けていく。子供の背中と、その頭上を飛ぶ竹とんぼを見送ると、またふっと、視界の焦点が合わないような、体がふわん、と浮き上がるような感覚があって、気がつくと、子供の姿は見えない。子供が駆けていく先に、ぼんやりと見えていたような、ベビーカーを押した若い夫婦の姿も、いつのまにか消えている。
 なんだか不思議な子だったな、と思いながら、次に離陸する飛行機が、ゆっくりと滑走路に入っていくのを眺めていると、
 「なんだ、お前もここに来たのか」と、背中から声がかかる。振り返ると、彼だ。心臓が跳ね上がる。まだ答を決めていないのに、一人でじっくり考えようと思ったのに、思わぬ奇襲を受けてしまった。飛行機のエンジン音が高鳴る。ばりばりばりばり。どうするどうする。ばりばりばりばり。どうなるどうなる。
 と、混乱する私の目の前に、彼は、ぬっと手を突き出した。ぶっきらぼうに、「お土産」と言う。
 「駅前の屋台で買ってきた。」
 見れば、彼の手の中にあるのは、小さな真新しい竹とんぼだ。
 「これと同じくらい、頼りない男ですが」と、彼はどもりながら言う。「お前と一緒なら、空だって飛べる。」
 さぁっと視界が明るくなる。そうか。あの子。あの子は、未来だ。未来から、私の背中を押しに来た。私を柔らかい手のひらではさんで、くるっと空に飛ばしにきたのだ。
 私の背中で、大島行きの定期便が、ばりばりばり、と空気を叩きながら、空に舞い上がっていく。ばりばりばりばり。ようこそようこそ。ばりばりばりばり。ようこそ未来へ。

(了)