水のいのち

のぼれ、のぼれ、のぼりゆけ
そなた、水の焦がれ
そなた、水のいのちよ
 ~高田三郎作曲 高野喜久雄作詞「水のいのち」より~
  
 
 まだ時間あるよねぇ。お昼食べて、ゆっくりして行こうか。
 
 何?ちょっと、あのサイレンの音なんやろうねぇ。あんなに喚きたてんでもええのにねぇ。となりにおる人の声も聞こえへんやないの。
 
 コロンバスサークル?リンカーンセンター?どっちでもええけど。寒いから、とにかく近い方に行こうよ。お母さんはよう知らんよ。ニューヨークの街のことなんか。飛行機と荷造りで精いっぱいやったから。
 
 そやねぇ、あの人の演奏会に行くって、そのことで、もう精いっぱいやったかもしれへんねぇ。
 
 
 ここがコロンバスサークル?雪が一杯やねぇ。あっちにほら、お馬さんがおるよ。お馬さんも寒そうやねぇ。息が真っ白やわ。
 
 そうやねぇ、きれいな教会やったね。広くて、天井が高くて。演奏会場としては、あそこまで響くとちょっとしんどいと思うけどね。お風呂エコーやから。でも、オーケストラと一緒にやると、きれいに音が混じり合って、気持ちええやろうね。
 あの人がおったん、気がついた?そう。おじいちゃん。奥の祭壇で、柏手打ってた。首かしげながら、会場の響きを確かめてた。あの人の柏手が、ぱあん、て鳴って、くるくる天井の方に舞い上がっていく、その響きに合わせて、私の心臓も、ぱあん、って鳴ったわ。すっごいドキドキしたけど、あの人はこっちに気がつかへんかった。祭壇の方は明るくて、こっちの信者席の方は暗いし、あれだけ距離があれば分からへんよね。
 美奈子は気がついた?そうか、気がつかへんかったか。そう、あれが美奈子のおじいちゃん。私のお父さん。
 
 美奈子が生まれてすぐに、震災のチャリティーコンサートで会ったから、もう14年になるんやなぁ。あの人、あのチャリティーコンサートの後、すぐにニューヨークの合唱団に招聘されたから、それっきり、全然会ってない。おばあちゃんも、それっきりやったと思うよ。あれから、おばあちゃんも、お店の仕事で大変やったからね。
 美奈子はまだ赤ん坊やったけど、覚えてないよね。当たり前やね。周りの大人ばっかりが、色んなことを美奈子に言う。美奈子には何の関係もないこと、何にも覚えてないことをあげつらって、とやかく言う。でも大人って、そんなもんかもしれん。自分の歴史とか、自分の思いを、子供になんとか伝えようとする。子供が覚えてないことは、子供の生まれる前のことは、子供にはなんの縁もゆかりもないことやのに、自分の思いを未来になんとかつなげようとして、子供に一生懸命言い聞かせる。子供は未来に続くタイムマシンだと言わんばかりに。お前は震災の申し子や、だの、おじいちゃんの血を受け継いでるんや、だの。そんなん、美奈子には何にも関係のないことやのにねぇ。
 
 えらいお洒落なビルやね。この地下に美味しい店があるの?自分の荷造りお母さんに押しつけて、ガイドブック読みふけってただけのことはあるわな。なんか、スーパーマーケットみたいなとこやけど?そう、あっちにテイクアウトのコーナーがあるの。アメリカやねぇ。
 なんか、こんなけ色んな肌の色の人やら、色んな体格の人やら、色んな人が一杯おると、なんか逆に安心するね。ぐちゃぐちゃのジグソーパズルの中に紛れたみたいな気分になる。なんとなく落ち着くわ。
 
 そうねぇ。美奈子はやっぱり、あの人の孫やなぁって、思う時はあるよ。音楽関係の道に進みたいんでしょ。そやから、ニューヨーク行きに飛びついたんでしょ。分かってるって。リンカーンセンターでやってるオペラ、後で見に行こうね。
 でもね、美奈子がコントラバスを選んだって聞いて、なんか、ああ、おばあちゃんの孫なんやなぁって、そうも思ったよ。大きい楽器をやってみたかったの?美奈子は背が高いからねぇ。大きい楽器の傍におったら、ちょっと小さくかわいらしく見えるかもね。
 おばあちゃんは小さい人やったけどね。でもコントラバスみたいに、縁の下の力持ちみたいな仕事が好きな人やった。和音も不協和音もみんなひっくるめて、雑多な音の下をしっかりどーんと支えてる。おばあちゃんのおかげで、うちの店もなんとか回ってたし、あの人の演奏活動も、おばあちゃんがしっかり裏で支えてた。
 そやねぇ、なんで、おばあちゃん、あの人と夫婦にならへんかったんかなぁ。
 
 レジが面白いねぇ。ああやって、次の人の順番を番号で知らせてくれるんやね。次は11番のレジにお願いしますやて。一緒に行ってもええのかな。ええから、一緒に行って。お母さんだけやったら不安やもん。
 これ、カレーかしらん。なんかよう分からんもの選んでしもうた。大丈夫かな。スープが美味しそうやったけど、何が入ってるのかよう分からんかった。あっちに行って食べるの?結構混んでるねぇ。
 ああ、あそこ空いてる。座ろう。朝から立ちっぱなしで、疲れた。
 
 私も、おばあちゃんに聞いたことあるんよ。なんで、あの人と結婚せえへんかったのって。そしたらね。
 あの人は、子供がようけおりすぎるからなぁ、って、笑ってゆうてた。最初は、子供って、あの人が指導してる合唱団のことかしらん、と思うたけど、ちょっと違うの。どう説明したらいいかな。お母さんには、なんとなく分かるの。何て言うかな、あの人は、結局、音楽と結婚したのよ。ちょっと違うかなぁ。音楽と結婚したあの人のことを、おばあちゃんは好きになったんやと思う。
 
 あれ、このスープ、結構おいしいよ。美奈子も食べてみる?美奈子の選んだそのパスタ料理もおいしそうやね。アメリカって、食事が不味いって言うてた人おったけど、全然そんなことないよねぇ。美味しいやん。やっぱり、食事は美味しくないとなぁ。
 
 そうや、あの人には東京に家族がおったし、このニューヨークでも、奥さんと一緒に住んでる。子供も、おったと思うよ。確か2人。もう自立してはると思うけど。私の異母兄弟。そうやね、おばあちゃん、今言う所の、シングルマザーのはしりやね。
 説明するのも難しいなぁ。何て言えばいいやろ。おばあちゃんが思ってたこと、私はなんとなく分かる。なんで、と言われれば多分、あの人が指揮をした演奏会を経験してるから、としか言えない。
 
 おばあちゃんは、あの人が指導してた合唱団の団員やった。そこで多分、おばあちゃんは、あの人が作る音楽に魅せられたんやと思うの。あの人の中にある音楽に、心底陶酔したんやと思うの。人間としてのあの人やない。演奏家としての、音楽を作り出す作り手としてのあの人が、好きになったんやと。
 あの人の指揮する舞台で、一度だけ、歌ったことがあるの。私は客席の方におったけど、演奏会の最後に、あの人が客席の方を向いて、みんなで一緒に歌いましょう、って、指揮をしてくれた。ほんの数分間だけの全員合唱。でもね、それは本当に素晴らしい時間やった。あの人の指先から、ふわっと魔法の粉が吹き出してきて、会場全体を包んでしまうような感じがした。舞台上の合唱団もみんな笑ってる。客席のみんなも笑ってる。あの人の指先からオーロラみたいに光が湧き出して、演奏会の高揚感をそのままにふんわり包み込んで、そしてそのまま高い高い雲の上の世界に運んでいってしまうような。
 ああ、これかって、思ったなぁ。おばあちゃんは、これが好きになったんや。この空気の中心にいる、あの人が好きになったんや。それでなんとなく納得したの。これでは、あの人とは結婚できんわなぁ、って。
 
 あの人の奥さんは、ちょっと違ってたんやろねぇ。人間としてのあの人を好きになったんやろねぇ。そういう割り切りができたのかもしれない。人間としてのあの人を見ることができたのかもしれない。でも、おばあちゃんにはそれができんかった。あの人と音楽を一体のものとして見ていた。あの人と一緒に、音楽を作りたい、と思った。この演奏会場の空気を一緒に作りたい。たくさんの人生に、音楽を届けたい。
 
 ちょっと、コーヒー飲みたくなった。あっちにお店あったよね。頼んでいい?普通のサイズでいいから。
 ああ、やっぱり美奈子と一緒に来てよかった。こうやって一人で座ってるだけで緊張するわ。こっちの人って、目を会わすと笑いかけてくるから、なんか喋らないかんような気分になるよね。美奈子と一緒やなかったら、がちがちに緊張して街を歩かんといかんかった。付き合ってくれて、ありがとうね。
 
 そやねぇ、あの人の音楽が好きになったってねぇ・・・言うのは簡単やけどね。でも、音楽って、その場限りのものでしょう。一つ一つの演奏会って、本当に、その場のライブで、その時間が過ぎたら、もう過去のものでしょう。CDとかで残っていても、それはもう、本番会場の空気とは全く別のものになっている。おばあちゃんは、そのことを言ってたんやと思う。あの人には、子供がぎょうさんおるからっていうのはね。あの人が一つの演奏会をこなすごとに、その会場にいた聴衆、参加していた合唱団員の心の中に、その演奏会の記憶が、経験が残る。それが全て、あの人の子供なんだ。おばあちゃんは、そういう無数の子供たちを、なるべくたくさんの人たちの心に届けるために、あの人を裏方として支える道を選んだ。
 
 あの人の演奏会を支える資金は、うちの店から出てたのよ。もちろん、おばあちゃんも商売人やからね。赤字は極力出さないようにうまいこと経営してたみたいやけど、それでもトントンか、ちょっと赤字、くらいの感じでやってた。うちの店が、震災でいったん店じまいするまではね。
 
 まだ時間あるねぇ。もうちょっとここで、ぼおっとしてから行こうか。
 
 そやね、そういう関係やったら確かに、私を産む必要はないよね。
 でもね、おばあちゃんも、やっぱりそこは割り切れんかったんやと思うよ。あの人とは音楽を通した関係だけ、と思ってても、演奏会を通じた感情の高ぶりの中で、思わず一線を越えた瞬間があったとして、そこであの人の子供を身ごもったら、これは産みたいと思うでしょう。
 
 そりゃしんどいよ。おばあちゃんも言うたよ。手術の直前にさ。私はね、あの人をずっと、20年以上支えてきたんよって。あんたを育てて、あの人を支えて、店をやりくりして、ずっと一人で頑張ってきた。そりゃしんどかったよ、って。しんどかったもん、こんな手術なんか、そのしんどさに比べたら、大したことないよって。笑った。
 その笑顔のままに、手術をして、そのまま意識が戻らないまま、あっちに逝ってしもた。そやねぇ、あんまり急やったねぇ。
 
 おばあちゃんを恨んでるか?あんたも、そんなこと、ずけずけ聞く年になったんやね。
 
 はっきり言うけどね。おばあちゃんのこと、嫌いになったり、恨んだりしたことは、一回もない。生まれてきてこのかた、一回も。
 
 ええか、美奈子。あんたのおばあちゃんは、ものすごい人やったんよ。私はそう思う。あの人のことを、あの人の音楽を愛し抜いて、あの人と一緒に、たくさんの音楽を、音楽の記憶という子供を、たくさんの人の心に届けてきた。それだけやない。私という、本当の子供も、立派に育て上げた。そしてその上に、お店をしっかり支えて、そうして、このお酒を、この世に送り出した。みんな、おばあちゃんが産んだ子供や。私も、あの人と一緒に作った演奏会も、そしてこのお酒も。
 
 人間って、そういうもんやと思う。どんな形でもいい、自分という存在が、この世にあったことを、少しでも遠い未来にまで残したい、遺伝子と言う形でも、記憶という形でも、芸術作品という形でも、時空を超えて自分という存在を残したい。そういう欲望を持っていない人間なんかない。美奈子のおばあちゃんは、それはそれは欲張りな人やった。人一倍、たくさんの子供をこの世に送り出して、いろんな人たちに自分の記憶を植え付けて、そうしてあの世に旅立った。そしてその全てに、溢れるほどの愛情を注ぎこんだ。あんなすごい人はおらん。これだけたくさんの子供たちを生み出して、そして全身全霊で、その子供たちを愛してくれた人はおらん。
 
 なんで、ニューヨークに来たのかって?このお酒持って?
 あんたに説明してなかったっけ?説明してないかなぁ。お父さんには話したかなぁ。話してないかもしれんなぁ。
 でも、お父さんは分かってると思うよ。おばあちゃんが死んで、あの人に知らせないと、って私が言った時、お父さんから言うてくれたんよ。「行っておいで」って。「ニューヨークに行って、直接、自分の口から、ちゃんと話した方がいい」って。それで、私も決心がついた。どうせ行くなら、このお酒を持っていかんと、と思った。震災以来、おばあちゃんが、心血注いで復活させたお酒。震災でボロボロになった店を立て直して、なんとか作り上げたお酒。お父さんは、すぐ承知してくれたよ。
 そりゃ夫婦ですもん。愛の力が違いますわな。
 
 今日の演奏会の、メインステージの曲、知ってる?高田三郎の、「水のいのち」。
 雨になって降り注いだ水が、川になって海に流れ込み、海から再び空に向かって昇って行き、そしてまた雨になって降り注ぐ。そういう、輪廻を歌った歌。
 うちのお酒はね、六甲山に降り注いだ雨が、山の地層を幾重もくぐりぬけて、地下水になって湧き出した、その水を宮水として作られてる。
 全てのものは巡り巡る。音楽の記憶は、また新しい音楽を次の世代に伝え、血は親子の間でつながり続き、親の思いは子供へ、そしてその子供へと受け継がれていく。
 
 美奈子。私、この演奏会が終わって、あの人に会える自信がないの。
 どんな言葉を使っても、言葉になんか何の力もない。おばあちゃんの40年間、お母さんの40年間、その思いをどうやってあの人に伝えればいいか、自信がない。
 だから、このお酒を持ってきたんやと思う。
 もし言葉で伝えられなくても、このお酒を見れば、そして舌で味わえば、多分、あの人は分かると思う。いや、分かってくれると信じたい。
 そうやね、そんな弱気なこと、言ってたらあかんね。お父さんにも申し訳ない。ちゃんと、会って話をしないと。
 でも、ひょっとしたら、このお酒を、黙って受付の人に渡して、あの人に渡してくださいってお願いして、それっきり、会場を飛び出してしまうかもしれん。
 その方がいいような気もするんよ。こんなに直前になっても、まだ、私、迷ってる。
 
 このお酒の名前、「春のしずく」。
 「春」は、おばあちゃんの名前からとりました。「春江」さんの「春」ね。
 あの人、分かってくれるかな。
 おばあちゃんの気持ち。私の気持ち。
 そして日本にあの人が残してきた、たくさんの子供たちの思いが、多分、このお酒には凝縮されてる。
 
 そろそろ開場時間やね。
 なんかちょっと緊張してきた。美奈子、手、握ってくれる?
 お母さん、子供みたい。震えてる。
 そうやね、勇気出さんとね。
 外は寒いね。凍てつくね。あんたの手のひらが、ほんまにあったかい。
 おばあちゃん、助けてください。力を下さい。
 私は、あの人に、一言、言いたい言葉があるんです。
 それを言う勇気を、私にください。
 「お父さん」
 マンハッタンの空は、遠いです。
 
(了)