赤駒を送る

 あなたが旅立つ前に、このお馬のお人形を渡してあげてって、娘は言いました。自分から渡せばいいじゃないのって、私は言ったんだけど、娘は顔を真っ赤にして、そんな恥ずかしいことできるもんかって呟いて、そのまま階段を駆け上がって、今は自分の部屋に閉じこもっています。あなたの顔を見るのも恥ずかしくって照れくさくって、部屋から出てこようともしないのよ。
 そうねぇ、いつも元気で、あなたの顔を見れば口げんかばっかりしている、それこそじゃじゃ馬そのものの、あの子らしくないわねぇ。でもね、このお馬のお人形を、あの子が選んだのはなぜか、きちんとあなたに説明してあげないといけないと思うの。このお人形にこめられたあの子の気持ちを、きちんと伝えてあげないといけないと思うの。少し長いお話になるわ。まだ時間は大丈夫かしら?
 あの年から、もう、16年になるのね。あの時、まだ小学生だったあなたが、もう立派なお医者様。そして幼稚園に行くか行かないかだった娘が、もう大学生だものねぇ。本当に、月日の流れるのは早いわねぇ。
 あの年のお年始に、私と娘と二人して、深大寺に初詣に行ったのね。その時に、娘が買ってきたのが、これと同じお馬のお人形でした。娘は初詣の間中、ふくれっつらしてすごく不機嫌だった。もともと娘は、寒い冬の外出が嫌いなんだけど、でも、その年は特別。パパが、年末年始にかけて、長期出張が入っちゃって、家をずっと留守にしてたのよ。
 本当は3人家族なのに、ママと二人だけで東京でお留守番の、さびしいお正月。とはいえ、折角のお年始だもの、ただ家にいるのもつまらないって、深大寺に初詣に行ったんだけど、風が冷たくて、かえって娘はめげちゃってね。パパがいない寂しさと、頬を刺すような冷たい風で、娘はずっと泣きそうな顔してたなぁ。
でもね、山門を出て、御茶屋さんが立ち並ぶ通りを歩いている時に、店先にこの馬を見つけた途端に、機嫌が直ったのよ。娘は不思議と馬のお人形とかぬいぐるみが好きでねぇ。このお馬のお人形、鼻面をぴんと天に向かって伸ばして、なんとも姿勢がいいでしょう。勇ましくって、カッコイイでしょう。それにね、店の人が聞かせてくれた、このお人形の由来を聞いて、「このお人形をパパに送ろう」って思い立って、その考えにすっかり夢中になっちゃったのね。
 これはね、赤駒、というお人形なんです。おじいちゃんが子供の頃は、深大寺の近辺で、沢山作られていたものだったそうよ。万葉集にある、こんな歌が元になっているんだって。
 
 赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山歩ゆか遣らむ
 
 防人に召された夫が乗るはずだった赤駒が、山に放牧されていてどこに行ったか分からない。仕方なく夫は、いくつもの山々を自分の足で歩いて越えて、遠い任地へと旅立っていく・・・残された妻は断腸の思いだったでしょうね。せめて夫を守って欲しいと、思いをこめて藁を束ねて、馬の形に仕立てたのが、この赤駒の始まりだそうよ。
「遠くで働いているパパが、ご病気やお怪我をしませんように」って、だから買ってって、娘は言ったわ。私、なんだか泣きそうになっちゃって、この馬の人形を家の窓辺に飾って、「あの人を守ってね」って、子供みたいにお祈りした。今から思えば、何かしら、予感があったのかもしれないわね。
 そう。パパの出張先は、神戸だった。あの年の1月17日の朝、うとうとしていたところで、電話が鳴った。おじいちゃんだった。「TVを見ろ」とわめかれて、TVをつけたら、神戸の街が壊れていた。灰色の煙を上げて燃えていた。あの街のどこかに、炎に包まれたあの街のどこかに、パパがいる。私の一番大事な人がいる。全身から力という力が抜けていくのが分かった。娘が私にしがみついてくる。しっかりしなきゃ、しっかりしなきゃ、と思いながら、なぜか知らないけど、あの人の寝顔のことを思い出していた。だらしなく半分口を開けて、大きないびきをかいている寝顔。なんでこんな時に、そんなものを思い出すんだろうって、なんだかおかしくなって、ふっと笑った瞬間に、涙があふれてびっくりした。泣いちゃダメ、泣いちゃダメって思いながら、それでも後から後から涙はあふれてきて、ぼろぼろ泣きながら、一日中、あっちこっちに電話した。パパの会社。パパの知り合い。神戸のホテルに電話しても通じるはずがない。神戸のホテルを経営している会社の本社に電話をしたけど、被害状況も全く分からない、と言われるだけ。時間を考えればまだホテルで寝ていたはずだし、民家と違ってビルは大丈夫だろう、と思った時に、繁華街で横倒しになったビルの映像がTVに映って、危なく気を失いそうになった。
 TVは一日中、燃える神戸を映し続け、壊れた建物を映し続け、そしてあの人と連絡は全く取れなかった。そうだね、一人だったらもう、耐えられなかったと思う。でも、娘がいたから。娘も泣いてたけど、泣きながらこう言い続けていたのよ。「大丈夫だよ、ママ、赤いお馬さんが、パパを守ってくれるから、大丈夫だよ、ママ」って。
 長い長い一日だった。おばあちゃんが駆けつけてくれて、こういう時こそしっかり食べろって、夕食を作ってくれたけど、さすがに喉を通らなかったなぁ。下手に家を離れないで、会社からの連絡を待つ方がいいって言われて、やることと言ったら祈ることだけ。そうなれば、娘の言うとおりにするしかない。台所のテーブルにこの赤駒を置いて、必死になって祈った。「あの人を無事に帰してください。あの人を守ってください」って。娘も一緒に、一生懸命祈ったわ。「パパを守ってください」って。
 娘が祈りつかれて眠ってしまっても、私はずっと、台所のテーブルで祈り続けていた。他にやることがないんだもの。そのうち、うとうとしたのかしら。赤駒の、つんと立った鼻先が、ぶるっと震えた気がした。体がふっと浮かんで、耳元で激しく風が鳴った。周りがかっと熱くなって、ふと見れば、私は赤いたてがみの美しい馬の背にのって、夜空を飛んでいる。私の前には娘が座っていて、寝ぼけ眼で私を見上げ、自分の足元を見て、わぁ、と声を上げた。見下ろした私達を灰色の煙が包む。煙の下に、おき火のような禍々しい光が点々と見える。まだじりじりと燃えている神戸の街の上を、私達は赤駒に乗って、一陣の風のように飛んでいた。
 赤駒は軽々と神戸の街の空を駆ける。倒壊した家屋の周りで沢山の人たちが叫んでいるのが聞こえる。かすれた声で子供の声を呼びながら、さまよう母親の姿が見える。崩れた瓦礫と格闘する消防士たちの姿も見える。私は思わず娘の目を手で覆った。赤駒は空を走り、目指すものを見つけたらしく、一直線に、斜めになったビルに向かって走り出した。
 ビルの側の瓦礫の中に、あの人はいた。無事だった。あの人は瓦礫と格闘していた。あの人は本当にあの人らしく、自分のことも自分の家族のことも放り捨てて、自分の周りで失われかけている命を、一つでも多く救うために、真っ黒になって走り回っていた。傷だらけになったあの人の手がコンクリートの塊を投げ捨てると、瓦礫の下に、動かない人の影が見えた。女の人だ、と分かった。ぴくりともしない。あの人は、その女の人を、なんとか瓦礫の下から引き出そうとしている。その女の人の下に、さらに小さな子供の形が見えた。動いている。生きている。
 赤駒が激しくいなないた。あの人ははっと顔を上げた。ぐらり、とまた地面が揺れて、不安定な瓦礫の塊が大きくかしいだ。動かない母親の下に腕を差し入れて、あの人は、母親の体に守られた子供を引っ張り出し、抱え込んだ。その上から、大きな本棚ほどもあるコンクリートの塊ががらがらと崩れ落ちてくる。もうだめ、と思った瞬間、赤駒があの人にすごい勢いで体当たりした。あの人の体が、抱きかかえた子供ごと飛ばされた、と思ったら、赤駒の上から、コンクリートの塊がどっと落ちてきた・・・
 我に返ったら、私は東京の家の台所で、テーブルに突っ伏して眠っていたの。そして、赤駒のお人形は、テーブルの上に倒れていた。まるで大きな石か何かに押しつぶされたみたいにぺしゃんこになってね。
 娘がこの新しい赤駒の人形を、あなたにあげようと言い出したのには、そんなわけがあるんです。夢か現か分からない幻のような話だもの、あなたにお話しするのもこれが初めてね。あの時、私の夫が、瓦礫の中から助け出したのが、あなた。あの小さな傷だらけの子供が、こんなに立派な青年になったことを、そして自分の志のままに、立派なお医者様になったことを、私も、私の夫も、本当に誇りに思っています。でも、娘は、違う思いをあなたに対して抱いているの。あなたは、あの街へ、あの禍々しい巨大な黒い波に呑まれた北の被災地へ、混乱と恐怖と絶望が支配する場所へ、非常医療団のメンバーとして行くというけれど、この赤駒は、きっとあなたを、色んな危険や困難から守ってくれるはずです。この赤駒には、私と、私の娘と、そして、万葉集の時代から、旅立つ者たちを見送ってきた、人々の思いがこめられているんです。そして、この赤駒に託された、娘の、あなたへの気持ちも、察してやって下さいな。あの子は今、二階の自分の部屋で、あの時の私のように、あなたの無事を祈って泣いているんです。一人でも多くの命を、あなたのその手で救ってください。あの炎の街であなたを抱きしめたあの人のように、たくさんの命をその手で抱きとってあげてください。そして、私と、娘と、そして、自分の命をかけてあなたを守った、あなたのお母さんに、一つ約束してください。ここで誓ってください。いいですか。必ず無事で、帰ってくるんですよ。
(了)