パミーナの父たち

 リンカーンセンターの前でイエローキャブから降りると、広場の中央の白い噴水に、彼が腰かけているのが見えた。大きなカラスが背中を丸めて座っているように見える。俺よりも20センチは高いはずの長身が、ずいぶん小さく見える。こちらを認めて、立ち上がった。黒い細い枯れ木が立ち上がったように見える。四月の明るい日差しの下で、そこだけが、冬の冷気をまとっているように見える。
 「Io sono dopo un'assenza lunga. Eri bene?(お久しぶりです。お元気でしたか?)」
 「Io non sono così allegro. Come può essere visto.(あまり元気ではないよ。見ての通りだよ)」そう言って、彼はほほ笑む。「Io ancora ho tempo. Non ti siedi?(まだ時間がある。座らないか?)」
 二人して、噴水のヘリに座った。横顔を盗み見た。老けたな、とは思うけれど、目の力が変わっていない。最初に会った時、圧倒された気分がよみがえってくる。なんで、と思った気分がよみがえってくる。なんでこの人じゃなく俺が?
 「昨日の蝶々さんは素晴らしかったね」彼はコロンバスアベニューを正面に見据えたままでつぶやく。「近年のMETのマダムバタフライの中じゃ白眉だろう。」
 「評論家の受けはよかったようです。」俺も、コロンバスアベニューから目を離さずに言う。イエローキャブがかしましくクラクションを鳴らして行きすぎる。
 「アメリカ人には舞台姿で受けたかもしれんが、玄人筋だって十分満足したさ」彼は唇の端で少しほほ笑みながら言う。「日本人プリマのMETの初デビューが蝶々夫人だっていうのはあんまりありきたりかもしれんが、彼女の声には合ってる。パワーも、スタミナも、昔とは段違いだ。」
 と、俺の方に少し顔を向けて、唇の端のほほ笑みを変えずに続ける。「私の知ってる昔ってのは、もう20年近く前の話だからね。今の彼女と比べちゃ気の毒だが。」
 「ニューヨークに来て、もう10年以上になる。時間が過ぎるのが早い」彼は続ける。「今じゃ何もかもがニューヨークだ。いい学校も、いい教師も、いい生徒も、いい舞台も。この薄汚い落書きだらけの壁に囲まれた、節操のないネオンサインのあふれる街で、自分の中の光を見失わずにいるのは至難だがね。」
 「イタリアにはお帰りになっていないんですか?」俺が尋ねると、彼はまた、苦いものを口の中に含んでいるような、中途半端なほほ笑みを浮かべて答える。「こっちに来てから一度もね。それが原因かな。私の教室が不人気だったのは。」
 なぜ、と問いかけて、言い淀む。彼の心の中のどこまで踏み込めばいいのか、距離感が
つかめない。俺と彼を結び付けているものはものすごく強固なものなのだけど、俺と彼を遠ざけているものも、ものすごく強力だ。共有しているがゆえに反発する。血を分けた兄弟同士が抱く親しみと憎しみのように。
 「彼女に会ってしまうとね」と、彼がつぶやく。「何もかもが色あせてしまうんだ。捨てられてしまうとなおさらね。」
 いきなり核心に触れられて、俺が黙っていると、彼はひとり言のようにつぶやき始めた。「彼女は、私の女神だった。」
 声楽の教師と生徒というのはね、体の相性が大切なんだよ。体自体が楽器だからね。その楽器をどう扱うか、という点において、感覚が共有されていないと、指導ができない。体のこの筋肉を使うんだ、と言って、その筋肉を代わりに引いたり押したりするわけにはいかないからね。代わりに弓を持ってあげたり、代わりに鍵盤をたたいて見せたりするわけにはいかない。声を出すのはその人自身だから。その人自身の筋肉と、その人自身の声帯だから。
 ヨウコと私の体の相性は抜群だったと思うよ。日本で学んでいたことだって間違いじゃなかったろうが、ヨウコの体の中にあった光の周囲をうろうろと歩き回るばかりで、その光を手にとって、ほら、こうやると輝くんだ、という道筋を見せてあげられたのは、私だけだ。今でも、そう確信してる。私が言葉を与える。その言葉が、感覚が、彼女の正しい筋肉をきちんと刺激する。そうして出てきた声に、また新しい言葉を与えると、さらにその声が輝きを増す。あの時間を共有できたのは、私だけだ。あの震えるような感動を共有できたのは、私だけだ。
 前に君に会った時も、この話をしたね。あの時、東京のホテルで、君を初めて紹介された時、失礼な話だが、ちょっと自分を見失ったな。分かっていて、ヨウコの新しい夫になる男に会いに来たのだと分かっていて、それでも、目の前にその男が現れると、平静じゃいられない。私になくて、この男にあるものはなんだ、と、そればかりを必死になって考える。自分がどれだけ、ヨウコにとって大事な人物だったかばかりを、一生懸命語りだす。自分でもくだらないと分かっているんだが、止められない。君にだって分かるだろう?こういう感情は、万国共通だからね。
 俺は、と口に出して、少し口ごもる。圧倒されながらも、共感しながらも、俺の中で何かしら、言葉をぶつけなければ、という反発心が起こる。俺は、今でもずっと、分からないでいるんです。
 俺は今でもずっと、自分に問いかけ続けているんです。俺は彼女に何ができるだろう。何をしてあげられるだろう。あなたのように、彼女の中に入り込んで、その輝きを増す手伝いをすることなんかできない。同じ舞台に立って、ともに輝くこともできない。俺に出来るのは、舞台の袖の暗がりから、光り輝く彼女を、ただ見つめることだけです。ただ支えることだけです。
 でも、それが、彼女が俺に求めていることなのなら、俺は自分の一生をかけて、彼女を支えたい。彼女を見つめたい。俺に言えるのはそれだけです。
 噴水がひときわ大きく噴き上がる。その音の陰で、小さなつぶやきが聞こえる気がする。駄目だよ駄目だよ、お前じゃ駄目だよ。全然駄目だよ。お前じゃ無理だよ。
 今の彼女に必要なのは、と、彼はつぶやく。君の視線と、支えてくれる手なんだな。
 「今の彼女は自分で光り輝いているから」彼は続ける。「もう私の力なんか必要ない。もっともっと高いところで、あの人は自分の内なる力で輝いている。それに気付いて、焦った。焦って、自分をあの人よりも上位に置こうと、姑息なことを色々考えた。」そしてまた、あの中途半端な微笑み。「ありのままの自分でいればよかったのに、必死に背伸びをした。そして全てを壊してしまった。気がつけば、舞台には私一人しかいなかった。」そして、俺の方に、ちらり、と視線を投げ、そのまま、その視線を、連なる摩天楼に向かって投げる。「それでここに来た。何もかもなくした男には、結構優しい街だ。」
 「一度だけ」と俺は言う。「俺は彼女を裏切りました。」
 俺は逃げました。彼女を見つめ続けるのが辛くて。彼女を支え続ける自信がなくて。神様に与えられた場所がしんどくて、俺は逃げました。
 「そして、神様は俺に罰を与えました。取り返しのつかない罰を。俺一人を罰すればいいのに、神様は」
 言葉を続けることができなくなって、俺は両手を握りしめる。彼が俺の横顔を見つめているのが分かる。彼との間に共感がある。共有している感情がある。
 「息子さんのことは」彼は呟く。「気の毒だった。本当に、気の毒だった。」
 「息子はたった6歳でした」俺は言う。「息子が死んだ時、彼女と二人で、ただ茫然としていました。何もする気力もなくて。」
 知り合いが企画してくれた演奏会に、半ば無理やり引っ張りだされて、自分を励まして励まして、舞台監督として、なんとか当日の舞台袖に立って、それでも、心の半分は、真黒なコールタールの沼にどっぷり浸かっているような、何かを見ていても見えていないような、何かを聞いていても聞こえていないような、そんなうすぼんやりした世界にいました。
 彼女の出番が来て、彼女が舞台の袖の、俺の傍に立った時も、俺は何も感じていませんでした。ただ袖の操作盤の上にあるモニター画面をぼんやり眺めていました。演奏会の段取りのタイムテーブルだけを頭に描いて、他には何も頭に浮かべていませんでした。機械のように、何も考えずに動いているだけでした。
 掌があったかくなって、ふと見ると、彼女が俺の手を握っていました。舞台を見つめていました。泣いていました。俺の方を見ずに、舞台を見つめて泣いていました。俺の手を握る手に力がこもって、痛いほどでした。
 「見ていて」彼女は言いました。「あなたが天使でも悪魔でも。私を見ていて。」
 そして、彼女は出て行きました。舞台の中央へ。光の中へ。そして、トスカを歌いました。トスカのアリア、「歌に生き、恋に生き」。
 
わたしは歌に生き、恋に生き
人様に悪いことなど決してしませんでした!
貧しい人たちを知れば、
そっと手を差し伸べ みなお助けしました
いつでも心からの信仰を込めて祈り
ご聖像の壇にのぼり
いつでも心からの信仰こめて
祭壇に花を捧げました。
それを この苦しみのときに
なぜ なぜ 主よ
どうしてわたしにこのような報いをお与えになるのですか?

 舞台の上で、彼女は泣いていた。俺も泣いていた。泣きながら、でも、必死に彼女を見つめました。俺がスカルピアでもいい。俺がカバラドッシュでもいい。俺が何者であろうと、彼女が俺を求めてくれているのなら、俺は彼女を見つめ続けよう。彼女を支え続けよう。
 ママの歌大好き。息子が耳元で囁いた気がしました。ママ、歌って。ママの歌大好き。
 俺はできるだけ多くの人に、彼女の歌を届ける手伝いをしなければならない。そのために彼女を支えなければならない。日本にいる舞台仲間には不義理をしていますが、できるだけ、彼女の傍にいたいので、こうやって、世界中を、彼女のスーツケースを抱えて一緒に走り回っています。
 彼はしばらく黙りこむ。そして、大儀そうに立ち上がる。
 「そろそろ時間かな。」
 今回の舞台は手伝ったの?と、歩きながら彼が尋ねる。俺はうなずく。モノが和物ですからね。大道具・小道具の類は、かなり日本から持ち込みました。そのコーディネートとセッティングを手伝いました。
 イタリアに比べてどうだい?彼がきく。何もかもが組織化されてます。俺は答える。非常に優れた官僚組織で成り立ってます。イタリアのように融通は利かないが、イタリアよりずっと信頼度は高い。確実に仕上げてくる感じです。
 「今日のことはありがとう」彼は劇場に向かって歩きながら言う。
 「僕らが考えたわけじゃない」俺は言う。「アキナが決めたことです。会いますって、彼女が言いました。」
 劇場の正面玄関はまだ開いていなくて、向かって右側の、ミュージアムショップの扉から中に入る。赤い絨毯を踏んで、立ち入り制限のロープを越え、スタッフIDカードを見せると、セキュリティの女性がほほ笑んで通してくれる。
 「ただ会ってくれるだけじゃない」彼はロビーに降りる階段を、つらそうにゆっくり下りる。頭上に、メトロポリタン劇場の象徴の、巨大なシャンデリアが輝いている。華やかな光が、彼の黒い服に全て吸い込まれていくように見える。「彼女のピアノを聴かせてくれるっていう。こんなありがたい話はないよ。」
 「自分の中にあるものを、しっかり確かめないといけない時期なんだと思います」俺は言う。「自分の中に流れているもの。自分を育ててくれたもの。どちらも自分の一部として、しっかり見据えないといけない時期なんだと思います。」
 「美人になったろうね」彼はほほ笑む。「日本人とイタリア人の混血は美人ぞろいだよ。少なくとも私の周りは例外なくそうだ。」
 「美男美女の組み合わせですからね」俺は言う。不思議と、さっきまであった焼けつくような焦りが消えている。なぜか、気持ちに余裕がある。彼の頼りない足取りに、自分の優位を確信したのだとしたら、さもしい話だと思う。そういう考えを振り棄てようと、頭を一・二度振ってみる。
 劇場のロビーから、左の通路を抜け、さらに左の奥へ進んでいくと、小さな扉が見えてくる。開くと、その奥は、小さなホールになっている。200人ほどが収容できる小ホール。階段状になった座席の一番下に小さな舞台があり、グランドピアノが据えてある。その上には大きなスクリーンがある。
 「本番が始まると、遅れたお客様用に、幕間までの間、舞台中継をここで見せるようになるんです」と俺は言う。「開場前の今の時間を、30分だけ借りました。」
 「アキナは何を弾くのかな」彼は言う。
 「教えてくれないんです」俺は言う。「本当に迷っているのか、それともとっくに決めていて教えてくれないのか、それも分からないんです。」
 「あの年頃の娘の考えていることは分からんだろうね」彼は言う。
 「そうですね」俺は言う。
 「賭けをしないか」突然、彼が言う。
 「は?」俺が聞き返すと、彼はまた、唇の端だけをあげて、小さくほほ笑む。一瞬で主導権を自分の手元に引きもどす微笑み。「いや、別に、何かを賭けよう、というのじゃない。単なるゲームだ。アキナが今日弾く曲を当てるっていうのはちょっと難しすぎるから、そうだね、アキナが今日着てくるドレスの色を当てるっていうのはどうかな?それとも、君はもう知ってる?」
 「知りません。」俺は答える。「娘の荷物なんか覗かせてもらえませんよ。」
 「じゃあ公平なゲームだね」彼はまた、あの謎めいたほほ笑みを浮かべる。圧倒される。「私の方が明らかにハンデがあるから、私から選ばせてもらうよ。いいね。」
 俺は何か言い返そうとする。その時、ばたん、とホールの下の扉が開き、ヨウコが顔だけを覗かせる。こちらに向かって軽く手を振り、扉を閉める。そちらに一瞬気を取られた隙に、こちらが何も言えないうちに、彼は言った。「赤だ。赤だと思う。情熱の赤だ。イタリアの太陽の赤だ。」
 鼓動が高まる。この勝負は負けられない。絶対に負けられない。なぜか、そんな気がする。この勝負に負けたら、何かものすごく大切なものを失う気がする。待て、緊張するな。息を整えながら、祈った。天国の息子の名前を唱えた。ハルヤ、頼む、パパに力をくれ。アキナは、お前のお姉ちゃんは、今日、どんなドレスを選ぶと思う?ハルヤには見えるだろう?頼むから教えてくれ。
 息を吸った。そしてゆっくり吐いた。「緑」。
 また扉が開き、扉の隙間から真っ赤な色彩が漏れて、一瞬心臓が跳ね上がる。ヨウコが、真っ赤なタイトドレスを着て、少し気取った足取りで現れる。舞台の中央で立ち止まり、二人しかいない観客席に向かって、お辞儀をし、口を開く。「Il padre benvenuto venne!(お父様たち、ようこそいらっしゃいました!)」そしてそのまま続ける。「今日は、私の娘、あなた方の娘のメトロポリタンデビューにお立会いくださり、ありがとうございます。」
 彼が拍手をする。俺もあわてて拍手をする。
 「娘は例によって緊張しております。緊張を解きほぐすのに、しばらく時間がかかります。あと数分、そのままお待ちください。」
 そしてまた、気取ったお辞儀。
 「今晩は」ヨウコが立ち去った後、俺は囁いた。「食事をご一緒できますか?」
 「あまり食べられないがね」彼は言う。「医者にいろいろ止められているんだが、それでも行くよ。誰に止められたって行くさ。」そして、言葉を探しながら、俺の方を見る。何か言いたそうに、何か訴えたいように、俺の方を見る。その時、扉が開いた。
 彼は茫然と扉の方を見つめていた。アキナは、ノースリーブの淡い緑のドレスで、おずおずと扉の奥から現れた。ピアノのところまで、機械人形のようにカクカクと進み、客席の方をまともに見もしないで、ぺこり、とお辞儀をする。
 「緊張してるな」俺が拍手しながら呟くと、彼は言った。「私の負けだね。」
 「息子に助けてもらいました」俺は言う。「彼は何でも見てますから」
 「私は悪魔に祈ったよ。もし私が勝てば、この魂を差し上げるってね」彼は冗談ともつかない口調で呟き、俺に向かってウィンクした。「悪魔の助けと天使の助けじゃ、結果は見えてるな。」
 アキナは、不器用に椅子の高さを調節し、ピアノに向かって座った。居ずまいを正し、背筋を伸ばす。すうっと、空気の色が変わる。アキナが、ピアノの鍵盤の上に、そっと指を置く。指と鍵盤の間のわずかな隙間が、ぽっと暖かくなる感覚が伝わる。
 清らかな、でも重々しい和音が響く。象徴的な「3つの和音」。曲は、モーツァルトの「魔笛」序曲だ。
 隣で、彼が息を呑んでいるのが分かる。霧がたなびくようなやさしい旋律が流れ、舞台になる森のしっとりとした空気が劇場を満たすと、突然音符たちがはじけるように踊りだす。パパゲーノとパパゲーナとその子供たちが、手を取り合って踊っているような。神話の世界の音、森の世界の音で、小さな劇場がみずみずしい緑に染まる気がする。
 「いいね」彼が呟く。「選曲も、演奏も、ピアニストも、Io sono veramente bello(全て最高に美しい)」
 「『魔笛』はね」アキナが以前言っていたことを思い出す。「パミーナが、父親の存在を受け入れることで、成長していく過程を描いていると思うの。母親である夜の女王の支配力から、父親の象徴であるザラストロの語る真実に目覚め、男性的なものの象徴であるタミーノとともに、真実の道を歩み始める。『魔笛』の主人公はタミーノじゃない。パミーナだと思うんだ。」
 「アキナが」と、俺は呟く。「日本に帰ったら、紹介したい人がいるって言うんです。」
 俺が彼の方を見ると、彼は眼を丸くしてこちらを見ていた。二人の父親は、しばらく互いを見つめあい、そして顔全体で、笑顔になった。
 「これは、しばらく死ねないな」彼はほほ笑みながら言った。屈託のない、優しい笑顔だった。