遥かな友に

 お休み、安らかに。たどれ、夢路。
 お休み、楽しく。今宵もまた。
〜磯部俶 作詞作曲「遥かな友に」より〜

 
 
 あれ、やっぱり違いますか?おかしいなぁ。
 もう一度、ピアノで弾いてもらえます?すみません。
 
 ・・・そうですね。違うみたいですね。
 いや、よく分からんのです。はぁ。テノールの音でもないですか。テノールとバスの中間の音ですか。よくそんな器用なまねができるもんですね。我ながら不思議ですね。なんでそんなに全然違う音が出せるんでしょう。
 いや、はっきり言ってくださって結構なんですよ。確かに、私は音痴なんです。なんで音痴のくせに合唱団に入っちゃったんでしょうなぁ。しかも演奏会のステージに乗るなんて、ほんとにおこがましいというかなんというか。
 いや、なぐさめて下さらんでもいいんですよ。実際、メインステージの「水のいのち」なんか、私は未だに何が何だかわからんのです。オーケストラまでガンガン鳴るでしょう。一つ一つの音も難しいでしょう。色んな音が鳴って、自分が何を歌ってるのか、何がなんだかわからんうちに、気がついたら終わってるんです。困ったもんです。いや、困っているのは私じゃなくて、私の調子っぱずれな声を聞かされている皆さんの方ですな。分かってます。分かってます。はい。
 いや、だから、「水のいのち」はほとんど歌ってないですよ。迷惑かけちゃいかんですから。いや、舞台には立ってます。並んで、口あけてます。でもほとんど歌ってません。橘さんの声を聞いてるだけです。合わせて歌う、なんてこともできませんからね。合わせて歌おうとしても、違う音が出るわけだし。でも合唱団なんだし、混声合唱団なんだから、舞台上に男が立ってた方がいいでしょう?まぁ舞台の上の大道具みたいなもんですわ。いや、本当に。
 
 もう一度、ここ、弾いてもらえますかね。
 
 ははぁ、下がりきらない。まだ高いですか。そうかなぁ。いや、そうなんですよね。ちゃんと歌ってるつもりなんだけど。難しいもんですねぇ。
 いや、橘さんのせいじゃないです。橘さんはよくやってらっしゃいます。いい声だし、私みたいな者の音とりにも付き合ってくださってねぇ。本番当日までこんな状態で、本当、すみません。
 
 今、どこ弾かれました?どこからどこ歌いましたかね?アウフタクト?ああ、この小節の前ね。はぁ。小節の前の拍のことを、アウフタクトっていうんですか。ほほう。
 
 今の合ってます?はぁ、ほぼ合ってますか。その、「ほぼ」っていうのが、「ぴったり」になるまでが遠いんだなぁ。月と火星くらい遠いなぁ。
 
 はぁ。もっとはっきり喋るんですか。「お休み、安らかに、たどれ、夢路」・・・なるほどねぇ、yの子音をはっきり言うといいんですね。橘さん、歌ってみてくださいよ。
 
 あぁ、やっぱりいいですねぇ。橘さん、いい声ですねぇ。上手だなぁ。
 
 いや、そうですね。私がちゃんと、歌えないといけないんですよね。はい。
 
 でもねぇ、ヤ行の発音をはっきりって言われてもねぇ。私ね、50歳くらいの頃に自動車事故でね。顔面フロントガラスにぶつけて血まみれになってね。その時、唇の周りの神経をかなり切っちゃったんですわ。だからね、普段から、ぼそぼそ喋るでしょう。歌を歌うには向かんのですよねぇ。こう発音不明瞭だと。
 
 声はいいんですか?本当ですか?お世辞じゃなくって?そうかなぁ。でも、声がでかくて、音が外れてたら、迷惑の二乗ですよね。そりゃまぁ、正しい音が出せりゃいいですけど。いや、あきらめちゃいないですよ。はい。だからこうやって、最後の悪あがきをしているわけで。
 
 そろそろ本番ですねぇ。緊張してきたなぁ。どうしようかなぁ。やっぱり、この曲でも、大道具に徹しようかなぁ。
 
 そうですね、あきらめちゃだめですね。でも、人間、あきらめが肝心、という言葉もあるしね。どうしようかなぁ。もう一回弾いてもらえます?
 
 うーん、大体合ってますか。大体ね。さっきの「ほぼ」と、今度の「大体」の間の距離はどのくらいですかね。「ほぼ」と、「ぴったり」の差が、月と火星だとしたら?「大体」と「ほぼ」が?月と地球?じゃぁ、「ぴったり」までの距離はあんまり変わらないですかね。変わらないですか。うーん。もう一回弾いてくださいな。
 
 まぁ、無茶な話だったんですわ。70過ぎて、合唱団に入るなんてねぇ。ほら、この前、橘さんが、腹筋ってのはこう使うんだ、って言って、見せてくれたでしょう。あれはびっくりしたねぇ。人間のおなかがあんなにペコペコ動くなんてねぇ。私には絶対無理だねぇ。この腹ですからね。こんな太鼓腹、でかすぎてあんなに動かせるわけないですよ。
 
 ああ、またやる前からあきらめてるね。どうもね、年を取ると、できないことの言い訳が多くていけませんね。というかね。アメリカ人ってのはそうなのよ。できなかったのは自分の責任ではない。なぜならば、っていう理由を並べるのが本当に得意だね。自分のせいじゃなくて、環境のせいだ、他人の協力を得られなかったせいだ、あいつが邪魔をしたせいだ。とにかく、自分のせいじゃない、俺は悪くないっていうのをずっと並べ立ててるからね。あの口の達者なのには閉口だね。
 
 って言いながら、私も言い訳ばっかりしてますなぁ。アメリカ生活が長いですからねぇ。これも言い訳の言い訳ですねぇ。でもねぇ、音痴ってのは生まれつきなんでしょ?これも言い訳かなぁ。いつまでたっても言い訳ばっかりしてますねぇ。
 
 うーん、なんで合唱団なんか入っちゃったんだろう。いや、そこだけは言い訳が効かないねぇ。ははは。自分で選んで、この合唱団に入ってきたんだからねぇ。
 
 そう。去年の演奏会でしたよ。別にね、合唱なんかに興味はなかったんだがね。家内の友達が出るって言うからさ。まぁ暇だから、家内に引っ張られてきたようなもんでしたよ。でもねぇ、先生が舞台で振り返ってね。客席みんなで歌ったでしょう。この歌を。「遥かな友に」を。
 
 あれで思ったんですよ。思ったっていうか、感じた、というか。何かね、雷に打たれたっていうと大げさだけどね。「この歌を歌いたい」って思ったんだ。私も一緒に、あの先生の指揮で、この「遥かな友に」を歌いたいって。だからねぇ、選曲会議にも出たよ。合唱曲なんか一曲も知らないんだけどさ。とにかく、この歌をもう一度歌いましょうって。そればっかり言い続けた。橘さんなんか、迷惑そうな顔してたよねぇ。いや、分かりますよ。橘さん、思ってることがすぐ顔に出るから。今も迷惑そうな顔してますよ。いや、迷惑かけてるのは事実だからねぇ。付き合わせちゃって本当、申し訳ないですねぇ。
 
 はぁ、なんでそう思っちゃったのかなぁ。
 
 先生がね、いい笑顔だったですよ。もともと先生って、丸顔の福々しい顔だけどさ。普段の練習の時の不機嫌そうな顔と、去年の演奏会の舞台での顔は全然別人だよねぇ。なんだろうね。本番になると、なんだか先生の指先から、魔法の粉みたいなのがぷわぁっと噴き出しているような気がしたよ。ほんとに。
 
 そうねぇ。でもね、橘さんには話そうかな。もう一つの、もっと大事な理由をね。
 
 歌が好きな友達がいたですよ。ええ、アメリカ人のね。私の近所の教会の聖歌隊に入っててね。いい声だった。しょっちゅう言ってましたよ。マサル、歌はいいよ。気持ちいいよって。僕はね、音痴だからって、聖歌隊に入るのは断ってたんだけどね。でも、彼が歌ってる姿があんまり楽しそうで、聖歌隊の練習を見学させてもらったりしたね。自分は歌わなかったけど、みんな楽しそうでさ。
 
 いや、彼は会社員だったですよ。アマチュアの歌うたい。私よりも10歳ほど年下だったけど、近所付き合いからもっと踏み込んで、いい友達だったです。一緒にゴルフに行ったり、家族同士でバーベキューしたりね。気の合うご近所さんです。そう。意外とそういう人に巡り合うのって、難しいですよねぇ。
 
 あの日ね。朝でしたわ。いい天気のね。忘れられんよ。私はほら。リタイアした身だから。のんびり朝寝してたんだけどね。隣のね、彼の家からね、金切り声というか、悲鳴と言うか、なんとも言えない獣じみた声が聞こえたですよ。それで目が覚めた。彼の奥さんの叫び声。テレビを見ててね。思わず喉から迸ったって感じだったね。そりゃそうでしょう。自分の旦那が勤めてる会社があるビルに、飛行機が突っ込んだんだから。
 
 彼ねぇ、帰ってこなかったです。骨のひとかけらもね。奥さんはずっとあきらめきれずにいてね。DNA調査で、それこそ爪のかけらでもいいから、戻ってこないかって、ずっと当局と連絡取り合ってたけどね。帰ってこなかった。コンクリートと鉄骨と一緒に、マンハッタンの土になっちゃったですわ。
 
 橘さん、私ねぇ、去年の演奏会でこの曲聴いた時にね、ああ、彼だ、って思いましたよ。彼が、みなさんの声を借りて歌ってる。この私に向かって、歌いかけてるって。
 
 静かな夜更けにいつもいつも
 思い出すのはお前のこと
 お休み安らかに たどれ夢路
 お休み楽しく 今宵もまた

 
 彼の笑顔がね。聖歌隊で、楽しそうに歌ってた彼の笑顔がね。でっぷり肥ったおなかを揺らして、バホバホ笑いながら、いい声で歌うんだこれが。その笑顔がね。ぱあっと浮かんできてね。先生の笑顔と一緒に、私も笑いながら泣いてましたよ。それで思ったんだ。70過ぎて、これといって趣味もなく、ぼんやりこの異国の地で、静かに死んで行くんだろうなって思ったけどね、まだ、誰かに何かを届けることができるかもしれない。天国の彼が、私にこうやって歌いかけてきてくれるのなら、今度は私が歌い返してあげる番だ。この歌を、歌いたい。天国の彼に、歌いかけてあげたいってね。
 
 なんとか、この歌を歌いたいんですよ。「ほぼ」でも、「大体」でもなくて、「ぴったり」歌いたいんですよ。橘さんみたいに歌える人には、なんでもないことかもしれないけど、私には、本当に、火星に行くのと同じくらい難しいことです。でもね、それができたら、なんだか私にも、これからの残りの人生、しっかり悔いなく生きることができるような、そんな気がするんですわ。
 
 ああ、そろそろ開演ですね。ああ、ちょっと震えてきたなぁ。橘さんなんか、緊張なんかしないんだろうねぇ。
 
 そんなことないの?本当に?橘さんくらい歌える人でも、やっぱり本番は緊張するんだ。ちょっとほっとするねぇ。
 
 助けてくださいね。手伝ってくださいね。私が、この歌、ちゃんと、ぴったり歌えるように。少しでも、天国の彼に、私の声が届くように。私はね、彼にどうしても、一言、言ってやりたい言葉があるんです。その言葉が天国に届くように、手伝ってくださいねぇ。
 
 はぁ。簡単な言葉だけどねぇ。口に出すのも照れくさいような、言葉ですよ。
 「ありがとう」ってね。一言ね。
 
 さて、そろそろ舞台袖に集合ですな。参りましょうか。
では、よろしくお願いします。頑張りましょう。私も言い訳言わないで、頑張ります。
 
(了)