小さな空

 いたずらが過ぎて
 叱られて泣いた
 子供の頃を思い出した
 〜武満徹 作詞作曲「小さな空」より〜

 
 ごめんなさい、まだやってる?チラシの挟み込み。
 ちょっとね、さっきの親子が気になって。なんか、いないのよ。一度入ってきたのにね。

 そうか、お昼時だからね。外でお昼食べてるかしらね。
 お客様が一人でも多いとね。やっぱり歌いがいが違うから。戻ってきてくれるといいわねぇ。

 紙がうまくめくれないって?そうね、手のひらが乾燥するわよね。
 東京とは大分感じが違うでしょう。こっちは大分乾燥してるからねぇ。
 時差ボケはもう治りましたか?そう、若い人はね。宵っ張りが多いから。それだけじゃなくて、適応力もあるんだと思いますよ。いいわねぇ。

 先生は変わってなかったですか?こちらにいらっしゃってからもう14年たつからねぇ。この合唱団も10年ですよ。びっくりしちゃうよね。あっという間だったなぁ。

 すごいイベントですよね。日本側でも、事前の準備は大変だったでしょう。日本からの旅費とかもねぇ。マンハッタンの教会で、オーケストラ伴奏で「水のいのち」をやるなんてね。

 そうね、あの先生だからできたことだろうけどね。でも、皆さんみたいな方が裏方になって頑張ったからですよ。こちらでもね、合唱団を10年続けるには、やっぱり裏方が大事です。指揮者の先生がどれだけ素敵な方でもね。裏方がしっかりみんなをまとめあげないと、とても続かないですよ。

 10年間かぁ。色んな事がありましたねぇ。本当に。

 私はね、昔から歌は好きだったんです。日本にいた頃からね。夫と一緒に来てから、当たり前のように歌ってましたよ。日本から来たいい先生が、在米日本人の合唱団を作るっていうから、当たり前のように参加して、関わってみたら楽しくてね。夢中でやってるうちに、10年たっちゃったなぁ。

 大丈夫ですよ。まだ随分残ってますよね。それでも半分は挟み込んだかな。
 私はね、あんまり肌が乾燥しないんですよ。手のひらとか、わりといつもしっとりしてる。だから、こういう紙仕事には向いてるのね。

 それにね、こういう単純作業が好きなんです。昔ながらの日本人女性なのかな。繰り返しの多い単純作業ね。頭使わなくて済むでしょう。でも、やってると、だんだん慣れてきて、細かな工夫が加わってきて、単なる繰り返しじゃなくて、どんどん上手になっていくのが分かるでしょう。そういう感覚が好きなのね。

 本当はね、自分のこういう肌って、あんまり好きじゃないの。何だか、じめじめした感じがするでしょう。体の中から、何かじわじわ滲みだしているような感じがするでしょう。だから、からっとした感じのするアメリカに来たのかなぁ。私の若い頃は、アメリカってまだ憧れの国だったからね。夫が、米国本社勤務になるって聞いた時には、嬉しかったですよ。昇進だったし、かっこいいなぁって思ってね。

 でもねぇ、思うことと現実は違うですよ。やっぱり暮らすとなるとね。
 一番困ったのはねぇ、子供だわね。

 アメリカで子供が生まれた時はね、色んなことを考えましたよ。日本で育てるのとは全然違う、素晴らしい恵まれた環境で、日本とアメリカの二つの文化のいいところを一杯吸収できるってね。

 でもね、現実は大変でしたよ。二つの世界の間で、子供が引き裂かれていくのが分かるの。分かるんだけど、どうしても親は、どっちか、じゃなくて、どっちも、って思っちゃうのね。将来に向かって、選択肢は広い方が、って思うわよね。でも、自分の軸足をしっかり決めないで、ただ両方に足をかけていたら、やっぱり引き裂かれちゃうのよ。どちらかにしっかり立ってないと、どっちも中途半端になっちゃう。

 うちはね。失敗しました。

 親が中途半端だったのが悪かったんだって思いますよ。日本を選ぶのも、アメリカを選ぶのも、どっちも中途半端でね。

 息子でした。もう立派な大人です。高校卒業して、西海岸の大学に行きました。それ以来、会ってません。もう10年近いね。

 時々ね。思い出すのよ。息子が家を飛び出した時のセリフとかね。息子と大ゲンカした時に浴びせられた捨てゼリフとかね。そういうのを思い出すのはつらいです。なんだか、自分のことをぐしゃぐしゃに丸めて、どこかに投げ捨てたくなるのよね。そういう忘れたい記憶が、普通に暮らしている生活の中で、突然浮かびあがってきたりするの。道を歩いていて、空を見上げて、ああ、きれいだなぁ、って思った瞬間に、目を吊り上げたあの子の顔が急に浮かんだりね。しんどい。

 今日の演奏会でね、一番好きな歌はね、武満徹の、「小さな空」。
 先生が指導しながらね、おっしゃったの。これはね、って。
 これはね、大人の歌ですよ。清らかな響きで、きれいで純粋なメロディーで、子供みたいな清らかな心で歌おう、って思うかもしれないけど、もっと大人の歌ですよって。
 そうじゃないとあり得ないくらい、不協和音が多いんですよって。
 不協和音だから、美しい。濁っているから、美しい。
 きれいなものばっかりじゃない、汚いものも、醜いものも、全部まとめて一度に響いた時に、さあっと広がるものがある。

 大人になってから、子供の頃の、忘れたい思い出を思い出している歌なんですよって。
 きれいな空、美しい夕焼けを見ながら、なぜかつらいことを思い出すことって、大人にはあるでしょうって。
 そういう成熟した音楽を作りたいんですよって。
  
 いたずらが過ぎて
 叱られて泣いた
 子供の頃を思い出した

 
 先生がそう言った時にね。私、なんだか泣きそうになっちゃっいましたよ。

 あなた、お子さんはいらっしゃる?ああ、まだ独身でらっしゃるの。それは失礼しました。
 ああ、橘さんと?まぁ、それはそれは。いつ?来年?まぁ、楽しみねぇ。

 子供はね。いいですよ。大変だし、私みたいに失敗することもあるけど、でも、いいものです。
 自分のことを、鏡みたいに映し出してくれる。それがつらいことも一杯あるけど、それで広がる世界がある。
 ステンドグラスに映った夕焼けのように、子供の笑顔は、親の心にまっすぐ届くんです。

 息子がね。今日の演奏会に来るっていうんですよ。
 連絡なんか、全然してなかったのにね。ネットで、演奏会があるんだって、見つけてきたんだって。
 この演奏会、お母さんも出るんだろって。ぶっきらぼうにね。僕、ちょうどニューヨークに行く予定あるからって。
 今ね、あの子、日本で働いてるんですよ。不思議だねぇ。親は一生懸命、アメリカ人になろうとしたのに、子供は、一生懸命、日本人になろうとする。
 親が、時々日本を思い出すために、日本の歌を歌っているところに、日本人になろうとする子供が尋ねてくるんです。なんだか変よねぇ。

 ちらしも挟み終わりましたね。そろそろ、楽屋に集合しないと。
 ああ、なんだか緊張してきたなぁ。やっぱり、紙仕事みたいな単純作業はいいよね。こういう緊張とかも、一瞬忘れられるから。

 アメリカの空は広いですよね。ニュージャージターンパイクなんか走ってると、本当にどこまでも青空が続いていく。
 先生は言ってたよね。多分、「小さな空」の空も、とっても広いんですよ。さあっと頭上にどこまでも広がっている空。
 その空を見て、自分の心の中にある、小さな空を思い出す。そういう歌なんです。空を映し出している、自分の心の中にある鏡を覗き込んでいる、そういう歌なんですよって。

 あの子に、私の中の空を、届けようと思います。そういう気持ちで、歌おうって、思ってます。
 あの子に会ったら、一言、言わないとね。これだけは絶対、言わないと。今まで、どうしても言えなかった言葉をね。
 言えるかなぁ。言う代わりに、一生懸命歌を歌って、それだけで疲れ果てて終わっちゃうかもしれないけど。
 「ごめんなさい」って。一言。
 子供はね、親を選べないから。
 じゃ、楽屋に行ってきます。受付、お疲れ様。今日一日、よろしくお願いいたします。

(了)