宝石の歌

あなたなの、マルガレーテ?
答えて頂戴、早く答えて
いいえ!いいえ!もうあなたでは無くなっているわ!
もうあなたの顔では無くなっているわ!
〜グノー作曲「ファウスト」より〜

 
 君はこのメールを見て、すぐに私の家に駆けつけるだろう。そこで君が見るものは酸鼻を極めた光景だろう。それでも君を頼るのは、私が残して行く物の大きさを、私の罪の深さを、心から弾劾できる最善の人だと思うからだ。君がかつて愛したものに、その愛と言う感情のゆえに、今でも責任を感じていると信じるからだ。
 考えてみれば、私の狂乱自体、きっかけになったのは君の愛だった。君が私の前に現れたあの日から、私の心は二つに引き裂かれた。真理恵を愛する兄の心と、君に嫉妬し、真理恵を欲する恐ろしい雄の欲望と。
 真理恵は今、二階の自分の部屋で、か細い声で歌っている。歌いながら、壁に絵を描いている。歪んだ形の無数の円がひたすらに絡み合う、意味の分からない絵を、ひたすらに壁にかきなぐっている。部屋の壁はすでに円で覆われていて、床は血でよごれているから、私は真理恵に、山のような画用紙を買い与えた。真理恵はそれでも、手に持ったクレヨンをひたすらくるくるとまわし続け、円の上にさらに新しい円を重ねながら、壁に絵を描くのをやめない。画用紙は、ただ破るのが楽しいらしい。画用紙を破っているか、線を描いているか。それがあの子の一日だ。
 父が死に、私が若くして会社を継いだ時、一番の気がかりはあの子のことだった。仕事に追われながらも、私はあの子の生活を厳しく律した。年も離れていたからね。父親代わり、という感覚と言うより、完全に、父親になった気分だった。母も私に頼りっぱなしだったから、経済的にも、精神的にも、私はこの家の、家族の柱なのだと信じた。この柱にすがって、母も、真理恵も生きているのだと。だからこそ、私は自分の足で、一人でしっかり踏ん張らねばならないのだと。
 一人で生きられる人間はいない。それは人の傲慢だ。なのに私は、自分が一人で立ち、人を支える幻想に酔っていた。私自身が、人に支えられているということを忘れ果てていた。そしていつか、私を支えている人々も、私から去っていくのだ、ということも。
 母が死んだ時、突然襲ってきた空虚感が、私を心底おびえさせた。父が死んだときにはさほど感じなかった喪失感が、母の死の時に突然の津波のように押し寄せてきた。なぜだろう。父は私に似て、自分が一人で立っているという幻想の中に生きていたからだろうか。私と父の距離は遠くて、職場の理想の上司としては語れても、親としての感覚は希薄だったからかもしれない。だが、母の時は違った。
 母が死んだ時、病院から帰りついた家の中の、空気の密度が変わっていることに胸を突かれた。母、という一人の人間の存在が失われた家は、骨組みだけになってしまったように寒々しくて、どこまでも空っぽな感じがした。どの部屋に行っても、そこに母がいた時の記憶と比較してしまう。母の不在、という圧倒的な感覚が、家のあらゆる空間に充ちていた。その時初めて、私は恐ろしくなった。
 もし、真理恵が嫁に行く日が来たら、この家を去る日が来たら、一体私はどうなるのだろう。私は、母と真理恵の不在を抱えて、この家で一人で生きていくのか、と。
 そうだね。誰か別の女性を愛することができれば、私も真理恵も、こんな地獄に落ちることはなかっただろう。でも私には、他の女性を愛することはできなかった。私は一人で立つことに慣れていて、誰かと何かを分かち合うことができなかった。誰かに私から与えることはできる。あるいは、一方的に奪うこともできる。だが、何かをその人と分かち合うことは、私にはできない。私の心は常に私の中にだけ向いていて、その中で失われたものと、得られたものを勘定しているだけだった。そして余ったものを、真理恵や母に与えるだけだった。そんな数字だけで出来上がっているような精神的奇形、それが私という人間だった。
 自分でも、なぜそういう人間が出来上がったのか、どうしても理解できない。父親だって、会社経営者ではあったけれど、それ以外は平凡な人間だった。母もそうだ。私がどうして、そんな極端な性向を身に付けたのか、私には理解できない。
 一つだけ、ひょっとしたら、と思うのは、真理恵があまりにも美しかったことだ。真理恵がいることで、彼女の美しさを当然のこととして受け入れることで、人が持つ飢餓感や不満のほとんどが解消されてしまったのかもしれない。私たち兄妹は、お互いの存在を何の疑問もなく肯定していた。これ以上に完成された関係があるとは思えなかった。そう、真理恵は私にとって、あまりにも美しすぎたのかもしれない。
 それでも、私にもまだ理性のかけらは残っていたのだ。母を失った後、さらに真理恵を失うことの恐怖感を、なんとか克服しなければ、という思いで、私は真理恵に、私の会社の外で働いてみることを勧めた。そして、真理恵のいないこの家に、私なりに慣れていこうと思った。いずれ私の手元から、真理恵が旅立っていく日のために、いまから慣れていなければならない、と、自分に言い聞かせた。
 でも、私の中で、やはり真理恵は美しすぎたのだ。私の傍によりそって、私の愛を注ぐ相手として、真理恵は完璧すぎたのだ。あの夜のことは、よく覚えている。会社の送別会がある、といって、真理恵の帰宅が遅くなった日だ。私はその頃にはすっかり、真理恵の不在にも慣れていた。少しは寂しい思いもあったが、それは「寂しさ」という言葉を言葉として受け止めているだけだった。真理恵の心が、私を、この家を捨てることなどあり得ない、そうどこかで高をくくっていたのだと思う。
 あの夜、飲み慣れない数杯の酒に頬を染めて帰ってきた真理恵は、玄関先で出迎えた私の視線を、一瞬受け止めて、すぐにそらした。小さく微笑みながら、振り返った視線の先に、君がいた。君は私に向かって、しゃちこばって、気まじめなお辞儀をして、そのまま踵をかえして、夜の街に消えていった。
微笑みを絶やさずに、君の背中を見送っている真理恵は、信じられないほど美しかった。少しのアルコールと、宴会の後の高揚と、そして、君への思いで火照った真理恵の頬が、本当に艶やかに輝いていた。そしてその皮膚の奥に、たぎる肉の欲望が、突然私に襲いかかった。
ああ、真理恵は女になるのだ。そう思った。俺の傍をただ離れていくだけじゃない。真理恵は女になるのだ。心の底でつながっていたはずの俺との絆は、真理恵が女になった時に、完全に断ち切れるのだ、と。
いや、そう思った、というのは正確ではない。そんなにはっきりと、言葉で整理した感情が生まれたわけじゃない。その時私を襲ったのは、猛烈な吐き気だった。耐えられなくなって、トイレに駆け込んで、胃の中のものを全て吐いた。胃液の饐えた臭いの中で、私の中に、意味不明の怒りが込み上げてきた。
だがそれでも、私はまだその思いに戸惑うだけの理性を残していた。なぜ腹が立つのか、なぜこんなに動揺するのか、自分でも理解できなかった。仕事の疲れだろう、と真理恵にはごまかした。そう、私はまだその時、真理恵を本当に愛していた。兄としての正しい愛情を真理恵に向けるだけの理性を残していた。
そして、その夜から、私の本当の地獄が始まった。淫夢だ。
夢の状況はそのたびに変わる。だがその夢の中で、私が組み敷いている女は、私の欲望に引き裂かれている女は、常に真理恵だった。夢の中で私は真理恵を凌辱し、時には真理恵とともに歓喜の声を叫び、時には真理恵の苦痛に喘ぐ声に興奮し、そして最後には必ず、体中の体液の全てが迸り出るような、快楽の絶頂の中で夢精した。淫夢は毎晩訪れるわけではなく、三日間連続することもあれば、ふっと10日間ほど何事もないこともある。いつやってくるかわからない、そして自分で制御することもできない、罪深い夢に私は心底怯えた。自分の中の狂気が信じられなかった。自分がそんな邪念を、血を分けた妹に対して抱いていたことが許せなかった。激しい自己嫌悪と惑乱の中で、私は自然と、真理恵を避けるようになった。家に帰らず、朝まで飲んだくれることが多くなった。
水商売の女の体に溺れようとしたこともある。しかし、行為の最中の女の顔は、全て真理恵に重なって見える。快楽に歪んだ唇の形が、真理恵のそれと重なる。あえぐ声が、真理恵の声に聞こえる。私の中の全てが、体中の内臓の隅々に至るまで、全身が真理恵を欲していた。真理恵を抱きたい、真理恵と一つになりたい。離れようとすればするほど、理性でそれを押さえようとするほど、私の体がそう叫ぶ声が高く、大きくなり、そして淫夢は続き、時には白昼夢になって私を襲った。
私はあの時、家を出るべきだった。全てを捨てて、真理恵を残して、一人自分の中の地獄を抱えて、真理恵から遠い場所に立ち去るべきだった。そうすれば、破滅するのは私だけですんだ。真理恵まで一緒に、破滅させることはなかったのだ。
あの日、なじみの店の女に愛想を尽かされて、着のみ着のままで街に放りだされた時、体が無意識に、足が無意識に、家に向かっていた。気がつくと、玄関先に立っていた。なくさなかったのが不思議だが、家の鍵をちゃんと持っていた。扉を開けて、入ったが、中には人の気配はなかった。
小指の先ほどに残っていた理性が囁いた。今だ。身の回りのものをまとめて、この家を出ていけ。真理恵と絶対に会うことのない、遠い遠い場所へ。自分の中の地獄を抱えて、一人で破滅への道をたどればよい。それが真理恵の幸せのためだ。お前は、真理恵の傍にいてはならない。
誰もいないはずなのに、忍び足になっていた。自分の足跡を、誰にもたどらせまい、と思ったせいだろうか。そっと階段をあがり、真理恵の部屋の隣の、自分の部屋に入ろうとした。そして、最小限の衣類をまとめて、この家を出ようと思った。
階段を登りきって、自分の部屋に行く手前で、人の気配を感じた。凍りついた。真理恵の部屋のドアが、少しだけ開いていた。隙間から、真理恵の姿が見えた。息をのんだ。
真理恵は、姿見の鏡の前に立っていた。薄いスリップ一つを身にまとっていた。そして、首に、小さなアクアマリンのついた、ネックレスを着けていた。頬を幸福に染めて、ネックレスを着けた首を少し右に、そしてまた左に曲げたり、少し体の向きを変えたりしながら、鏡に映る自分を見つめていた。
そこには女がいた。そう、あのネックレスだ。君が、真理恵に贈ったネックレスだ。私の中で、何かが壊れた。音を立てて壊れた。私は泣いていた。真理恵と、私の間の絆が、完全に断ち切れた。真理恵は、もう真理恵ではない。女に、薄汚れた、ただの女になったのだ。
その次の瞬間から、何が起こったのか、何をしたのか、全く記憶がない。気がつけば、真理恵は私の下にいた。顔はひどく腫れあがり、腕の所々には引っかき傷が残り、そして、引き裂かれたスリップから、夢に見た裸体が露わに見えた。私の精液で汚れた太ももが見えた。私はそうして、悪魔になった。
恐ろしいことに、その日から、私の精神はある意味安定した。私はほとんど事務的に、真理恵の自由を奪い、部屋に監禁し、そしてそれが外部の人間に知られないように、あらゆるリスクを想定して手を打った。君の会社はすぐに騙されてくれたが、君を騙すのは難しかった。真理恵の首筋に包丁を突き付けながら、君への別れの手紙を書かせ、しばらく旅に出る、と書かせた。君は数回、私の家に来たけれど、私は常に居留守を使った。ひどく冷静に、このまま真理恵と破滅するのだ、と思っていた。真理恵と地獄に落ちるのだ、と。
そう、私は完全に狂っていた。私の中に生まれた悪魔は、容赦なく真理恵を痛めつけ、苛み、凌辱の限りを尽くすのに、その後突然、自分がさあっと冷めていくのが分かる。自分の罪の重さに震える。力を失った真理恵の体を抱きしめて、泣きながら謝罪の言葉をならべ、傷ついた体を癒し、清める。それでも、真理恵を自由にすることはできなかった。真理恵の体を求める欲望を、抑えることができなかった。
真理恵は必死に自分を保っていた。こんなことが長く続くはずはない。私が狂気の中で目をそむけていた現実に、真理恵は希望をつないでいた。いつか、この地獄には終わりがくる。君との普通の日々が戻ってくる時がくる。この悪魔が破滅して、自分が救われる日が来るのだ。
しかし、結局、真理恵は狂った。私の狂気の結果が、真理恵の中に宿したもののために。
もう戻れない。真理恵はそれを悟ったのだ。もう戻れない。あの頃の自分には。ここまで汚されてしまった自分には、もう戻る術はないのだと。
1週間前の夜だった。帰宅して、真理恵の部屋の鍵を開けると、むっと血の匂いが鼻についた。真理恵は床に倒れており、股間から、おびただしい血と、血の塊のような、肉の塊のようなものが流れ落ちていた。
真理恵は命を取り留めた。救急車を呼ぶこともできず、それでも必死に真理恵の介抱をしていた私の頭は、恐ろしいほど澄み切っていた。真理恵の流した血が、私の狂気を洗い流したように。私は自分の罪を、自分の壊したものの大きさを、そしてそれを償う方法を、一瞬で理解した。やはり私は、もっと前に、自分一人で破滅するべきだったのだ、と。
そして私の代わりに、今度は真理恵が狂気に落ちた。自分が失ったものの大きさと、自分が踏みにじった命への罪の意識に。
真理恵が歌う声が聞こえる。私はこのメールの送信ボタンを押したら、家の庭に出て、車から抜き取ったガソリンを体にかぶり、火をつける。焼身自殺というのは、数ある自殺の中でも最も苦痛が大きいものなのだそうだ。私の中の悪魔を清め、私の罪を購うには、もっともふさわしい死だ。
真理恵には、君がくれたアクアマリンのネックレスをしてあげた。あの子は、本当に天使のように喜んでいた。狂ったあの子の瞳は、どこまでも澄み切っていて、見ているだけで心が洗われるようだ。だから私は、あの子と目を合わせることができない。あの子が与えてくれる救いに、値する人間ではないから。
私の中の悪魔が、炎の中で全て消え去りますように。そしてただ清らかなものだけが、君の手元に残りますように。さようなら。真理恵をよろしく頼みます。

(了)