そうです。確かにあの男です。
 顔だけは見分けがつきましたから。あんな状態でも、すぐ分かりました。確かに、あの男でした。
 娘は大丈夫だと思います。これからどうなるか分かりませんけど。
 小さい頃のショックって、忘れてしまうようで、心の奥に傷を残すって言いますもんね。
 大人になってから、何かにおびえたりしないといいんですけど。
 
 私の母がね。東北なんです。
 この間の津波でね。海に持っていかれました。まだ遺体は見つかってません。
 父の位牌も、何もかも流されました。
 夫婦して、海になっちゃったんだなって、思います。
 
 なんで急に、母のことを言い出すのかって、思われるでしょうね。
 私ね、亡くなった父母が、娘を守ってくれたんだなって思うんです。
 ひょっとしたら、もっとひどいことをされていたかもしれないんですからね。
 そういう何かしら、この世のものじゃない力で、守ってもらったんだって、思うんです。
 それとも、それ以外に、あの男の死に方に、理由がつきますか?
 
 警察とか、病院とか、色々理由をつけるんでしょうね。
 でもね、私は私なりに、ちゃんと理由つけちゃったから、それでいいんだと思ってる。
 ええ、確かに、私の父母が、娘を守ってくれたんです。そう信じてます。
 
 最初の事件は、風船でしたね。
 娘が大事にしてた風船。
 私のお友達が、娘の誕生日の日にくれたプレゼントでした。
 ヘリウムガスを詰めた、犬の形をした風船でね。蛇腹になった足がついてて、自分の重さと、ヘリウムの浮力がちょうどいい感じにバランスする。地面すれすれを、本当の犬みたいにふわふわ動くんです。娘はすぐに気に入ってね。
 おちえさんって、名前までつけて、あの日、近所の公園に持っていったんです。幼稚園の後、お友達と遊びに行く時にね。おちえさんのおさんぽ、って言って。おおはしゃぎでね。
 
 子供がすごく楽しそうに、はしゃいで、にこにこして飛び出して行ったのが、ぎゃんぎゃん泣きながら帰ってくるのを迎えるのって、つらいですね。
 親になって、初めてそういう辛さが分かりました。自分がとっても大事にしているもの、ひょっとしたら、自分自身よりもずっと大切に思っているものの、心や体が傷つくのって、こんなに辛いものなんですね。
 
 あの子が大泣きしながら帰ってきた時、あらあら、転んだかな、くらいに思いましたけどね。最初は。
 でも、手に持っている、おちえさん風船が、ずたずたに切り裂かれるの見て、血の気が引きました。自分の体の中の一番大事な部分に、ナイフ突っ込まれてかき回されたような、そんな感覚で吐き気がしました。
 今思うと、あの男がやったんです。娘が言ってた犯人の特徴と、ピッタリでしたから。
 
 警察には届けましたけどね。別に動きようがないですよね。それでも、多少、娘が遊んでた公園のパトロールとか、強化してくれたみたいだったですけど。
 近所のお母さんたちもみんな怖がってね。しばらく、公園で子供を遊ばせないでおこう、とか、公園で遊ばせる時も、必ず親がついているようにしよう、とか、色々みんなで井戸端会議やってましたね。
 
 でもね、当事者の私たちは、それどころじゃないですよ。娘は意外とけろっとしてましたけど、私がね。参っちゃって。幼稚園から娘が帰ってきてから、外に出すのが怖いんです。友達と一緒でも、お稽古ごとに出かけるときでも、とにかく、私が一緒でないと不安でしょうがないんです。少しでも娘の姿が見えなくなるだけで、パニック症候群っていうんでしょうか。動悸が激しくなって、めまいがして、居ても立ってもいられなくなるんです。娘が見つかると、もう興奮状態です。泣いたりわめいたり。娘もびっくりして泣き出すし、職場の夫を電話で何度も呼び出したりして。最悪でした。
 
 実家の母が見かねて来てくれたんです。3カ月ほどいてくれました。その間に、私も、いいお医者さんにかかることができて、なんとか落ち着きました。
 
 もう大丈夫だなって、母が田舎に帰った翌日でしたか。娘が私にニコニコしながら言ったんです。ママ、大丈夫だよって。蛇さんが、おうちを守ってくれてるからって。
 
 蛇さんって?って、私聞きました。そしたら、おばあちゃんに聞いたんだって、教えてくれました。家を守っている蛇の話。それで、私も思い出しました。
 
 私の田舎の家には、大きな蛇が床下に棲みついてたんですよ。滅多に人前には姿を見せませんでしたけどね。でも時々、父か母が、抜け殻を見つけて見せてくれたことがありました。そりゃあ大きな抜け殻で、2メートルくらいあったような気がします。子供の頃に見たから、余計に大きく感じたのかもしれませんけどね。怖いよって、父にすがりついたら、父が、「こわがんなぐでええ」って言ってくれました。これは、うちの守り神さんだからって。
 ご先祖様が、蛇に姿を変えて、家をしっかり守ってくれているんだって。
 父も母も、だから、その蛇の姿を見なくても、大切にしてましたよ。時々、床下にお神酒を備えたりね。抜け殻は、幸運を呼び込むお守りだからって、お守り袋に入れて神棚に祭ってました。
 
 でも、うちはマンションだからねぇ、って、娘に言ったら、娘は、だから余計に大丈夫だよって、ニコニコしながら言いましたね。おばあちゃんの家は、蛇が一匹で守ってるんでしょって。このマンションには、100個も200個もおうちがあるでしょ、って。だからきっと、蛇さんも、こーんなにこーんなに大きな蛇さんで、みんなに何かがあったら、きっと守ってくれるんだよって。小さな腕を大きく広げて、私に言ってくれました。
 
 そうですね。子供心に、自分の母親の心が痛んでいるのを感じてたんでしょうね。なんとかなぐさめてあげようって、おばあちゃんに聞かされた話を、自分なりにママに伝えてあげようって、一生懸命だったんだと思います。
 
 あなた、今、私のことを変な眼で見てますね。哀れな物を見るような眼で見てますね。
 そうですよ。私はそう信じてるんです。あの子を守ってくれたのは、こーんなにこーんなに大きな、蛇さんだって。
 このマンションの地下に、その蛇さんはいて、このマンションの家の住人たちを、守ってくれているんです。
 
 きっとね、蛇さんは、あの地震の時にも、このマンションを守ってくれたんですよ。
 このマンションだって、あの時の地盤の液状化で、傾いたり壊れたりしても不思議じゃなかったんですからね。
 被害はあったけど、でも私たちが無事でいるのは、きっと蛇さんに守ってもらったおかげなんです。
 大きな蛇さんが、地面の底にしっぽを巻きつけて、愛美が怪我をしないように、マンションを守ってくれたんですよ。
 
 愛美が、あの男に脅されて、マンションの地下室に連れて行かれた時にも、きっと、蛇さんは、あの子を守ってくれたんだと思います。
 あの子に聞いてみてごらんなさいな。何があったのって。
 蛇さんが、あの男の人を呑み込んだんだよって、きっと言うから。
 大きな口で、ごぶりって、頭から呑み込んじゃったんだよって。
 
 蛇って、丸のみしたネズミとかを、体の中に取り込んでから、全身の筋肉を使って、獲物の骨を粉々に砕いて、ゆっくり消化するんですってね。
 あの男の体、そうなってましたよね。
 顔はかろうじて原型保ってたけどね。体中の骨が砕かれて、ただの肉の塊になってた。
 
 東北の、父母の家のあった所に、行ってこようと思っています。
 愛美を守ってくれてありがとうって、お礼を言いに。
 これからも、愛美をお願いしますねって、言ってこようと思っています。
 
 ・・・あの子、今、どこにいますか?無事でいますか?
 泣いてませんか?あの子の傍に行かせてください。あの子に何かしてないでしょうね?
 あの子はどこにいるんですか?あの子をどこにやったんですか?あの子を返して。あの子を抱かせて。あの子を、あの子を、あの子を、あの子を、あの子を・・・・
 
(了)