鹿

 昔、村の娘ん子が、山ん子を好きになった。
 山ん子は、山人の子供だ。村の者のように、田畑耕して、暮らしを立てている者の子ではない。山に分け入り、木の実や獣を食って生きている者の子だ。木で細工物を作り、獣の肉を乾し、茸や漆を取って村に売りに来て、わずかな穀物や塩を手に入れる。そんな者の子に、村の娘ん子を取られるわけにいくものか。娘ん子のふた親はたいそう怒って、娘ん子を納屋に閉じ込めて、柱にくくりつけた。山人は移り住む者だ。冬の訪れに従って、住みやすい南へと峰伝いに国境を越えていく。しばらく娘ん子をしばりつけておれば、山ん子もあきらめて、別の山に移って行ってしまうじゃろ、みんなそう思った。
 娘ん子は毎日、納屋の隅で泣いておった。娘はいつも首から、真っ白な小さな木の細工をぶら下げておった。それは好いた山ん子がくれた、木の鹿の細工であった。娘ん子はそれを見ては泣き、自分を縛っておる縄を見ては泣いた。縛った親も不憫とは思うけれども、相手が山ん子ではとても許すわけにはいかねぇ、と、ここは心を鬼にして、娘を一歩も納屋の外には出さなんだ。
 季節は過ぎ、初雪が、山肌をうっすらと染めた。山人たちが移る頃だ。納屋の窓から見える白く染まった山を見て、娘ん子は狂ったように泣いた。山ん子も同じ思いだった。灰色の空から、ちらちらと降りてくる冬の精を、たまらん気持ちで見ておった。何度となく村へ降りようとしたけれど、同じ山人に止められた。下手すりゃあ、村の者になぶり殺しにされる。けれども、山ん子はそんなことはもう怖くもなかった。とにかく、あの娘ん子が欲しい。そのためなら、命なんぞどうでもよかった。
 明日は別の山に移ると決まった夜。山ん子は、とうとう、山を降りていった。山人に道は要らぬ。木から木へと飛び移っていく。村へ通じる道に降り立った山ん子は、人の気配にぎょっとした。ふりむくと、山に通じる道の先に、山人の娘が一人、目をぎらぎらさせて立っておった。山ん子は一言も言わずに、口をきっと結んで、風のように村へと駆け下りていった。
 翌朝、村は大騒動になった。娘ん子がいない。山狩りが始まった。山人たちは早々と、別の山に移ったらしく、山の集落はすでに空っぽになっていた。けれど、山ん子と娘ん子は、まだそう遠くへは行っていないはずだった。山人たちに道は要らぬが、娘ん子はそうはいかない。村人たちは、山と山の尾根伝い、山と山の谷伝いに、二人を探した。けれど、無駄だった。三日後には、村はすっかり昔通りに戻っていた。娘ん子のふた親ばかりは、すっかり年を食った顔で、畑に出ておったけれども。
 二人はしかし、まだ山人たちには追いつけていなかった。山ん子は色んな隠れ場所を知っていて、昼はそこで二人身を寄せ合って眠り、夜になるとけもの道を歩いた。山ん子は夜目が効いたから、娘ん子にはしんから真っ暗な中でも、器用に道を選ぶのだった。
 そろそろ追っ手もあきらめたろう。山人たちがいる山はもうすぐだ。やっとこ安心して、二人は手を取って、谷川の傍を歩いていた。夕暮れ時。山の中の空気が、シン、と冷え始める時。耳の中がすうっと寒くなって、なんとなし、山が大きく見える時。
 「鹿じゃ!」
 叫び声に、はっと二人が顔を上げた途端、娘ん子の胸に矢が突き立った。山ん子は見た。あの山人の娘が立っていた。村への道で、目をぎらぎらさせていた娘だ。川の向こう岸の岩の上で、弓を構えていた。山ん子は、泣き出しそうな、笑っているような、くしゃくしゃな顔をして、山ん娘の方を見ていた。山ん娘は、あの時のように、目をぎらぎらさせていた。夕日の中で、それはウサギの目のように、真っ赤に染まって輝いていた。
 娘の声に、山人たちが集まって来てみると、岩の上で山ん娘が、呆けたように座り込んでいた。皆はそこから谷川を見下ろして、声もなかった。
 二頭の白い鹿が、胸を射抜かれて倒れているのだった。白いその毛並みは神々しいようで、夕日の中で金色に輝いていた。鹿の片割れの首には、朱に染まった小さな木の細工が下げられており、それはよく見ると、木刀で器用にこしらえた、小さな鹿の形をしているのだった。

(了)