オルゴオル

 雪になった。
 一面がれきに覆われた街の残骸の中に、米軍と自衛隊が切り開いた道が一本伸びている。がれきの上にも、道の上にも、真っ白な雪がしんしんと降りてくる。
 あきらめて、そろそろ帰ろうか、と思った。日が暮れてきている。電気はまだこのあたりには復旧していなくて、夕闇が降り切ってしまえば、月のない夜は真の闇になる。遠くに点々と散らばっている、街の所々に駐車された車のヘッドライトだけが頼りになる。その車も、ガソリン不足の最近ではほとんど見えない。
 拾い集めたものを詰め込んだバッグを抱えて、立ちあがった時、かすかに、音がした。
 小さくきしむような音と一緒に、柔らかな金属が、丸い優しい音の粒を、ぽろん、ぽろん、とはじきだす音が聞こえた。
 手にした懐中電灯をつけて、音のした方に向けてみて、初めて、その子に気付いた。
 赤いセーターに、白いスカート。暖かそうな毛糸のロングソックスをはいて、私と同じ方向を見つめている、背中が見えた。その背中が振りかえると、真黒な瞳が二つ、私の方にくるん、とまっすぐな視線を投げてきた。
 「オルゴオル」と、その小さな女の子は言った。「音したね。」
 「したど思ったがな」と、私は言った。
 二人、しばらく立ちつくしていた。街は静まり返っている。遠くで、車の音がした。
 「もう遅えぞ」私は気がついて言った。「どっから来た?」
 女の子は、山の方向を指さした。「文化会館か?」と聞くと、うなずく。「ほんだば、一緒に帰るべ。暗くなっと、泥棒が出るって噂だ。」
 女の子はぶるっと身を震わせて、私の方に手を差し伸べた。握ると、冷え切っている。黒い髪の上に積もった雪のかけらが、子供の身震いに合わせてプルプルと震える。情け容赦のない冷気が、壊れた街の上に降りてくる。
 自分の首に巻いたマフラーを子供の首にかけてあげた。子供の柔らかそうな顎が、毛糸の中に埋まった。
 「オルゴオル、見つからなかったね」女の子が言った。
 「もう遅いがんな」私は言った。「明日、また探すべ。」
 「なんか、見つかった?」女の子が言った。
 「いろいろ」私は言った。「アルバムとか、茶碗とか。」
 「オルゴオルも、探した?」女の子が言った。
 「探したけんども、ながった」私は言った。
 オルゴオル。
 オルゴオルには、あまりいい思い出はない。小学校の頃のことを思い出す。
 工作の課題で、オルゴオルを作ったことがあった。出来合いの小屋の中にオルゴオルを仕込み、オルゴオルと一緒に回る水車をセットする。その水車に、彫刻刀で模様を刻み、全体に色を塗る。自分でデザインしたアラベスク風の模様を、家に持ち帰ってこつこつ刻んでいた。完成すれば、その美しい文様は、なぜか懐かしいあの音色とともに、くるくると回るはずだった。こたつにもぐり込んで、まだ仕上がっていない水車を、試しにオルゴオルにセットしてみて、うまく回るか試してみようと奮闘していた時だった。
 電話の応対をしていた母が、困った顔をして、こたつの傍にやってきた。私の同じクラスの女の子の、母親からの電話だった。私の不用意なからかいの言葉が、ひどくその子を傷つけたらしい、と、私の母は言った。クラスのすみで、いつも座って微笑んでいる子だった。伏し目がちの、長いつややかな髪の子だった。
 「xxちゃん、家で泣いてるってよ」と、母は言った。
 突然、胸が熱くなって、オルゴオルのゼンマイを巻く指に、必要以上の力が入った。ネジがガリっという耳障りな音を立て、歯車が飛んだ。ゼンマイが妙な形にねじれた。
 顔がカッと熱くなって、涙がこぼれた・・・なぜか分からなかった。手や足を使わなくても、人を傷つけることができる。それに気付かなかった自分の浅はかさ。自責と後悔。そして、私がその子に寄せていた好意と、その思いを裏返しにした自分の心の醜さ・・・感情は自己嫌悪の迸りになって、私は思い切り、自分の手首に噛みついた・・・
 「くれたのは、パパだよ」女の子が言った。「私の誕生日に。」
 「そうか」私は言った。「そりゃ大事なもんだな」
 巨大な黒い波が、大事なものを根こそぎ押し流していっても、心の中の記憶は消えない。思い出は消えない。オルゴオルの思い出が、ポロリ、ポロリと、私の心の中に浮かんでは消える。
 あの人の思い出にも、オルゴオルが絡んでいる。おおらかに笑う人。一人でどこまでも軽やかに走り続ける人。急な坂でも何くそと、ガーガーエンジンをぶんまわしながら駆け昇っていく軽自動車のような人。2つ年上の、大学のサークルの先輩だった。
 大学を卒業してすぐに、遠い国に旅立つことになったあの人を、サークルの仲間で見送りに行った。何か、記念になるものを手渡したい、と思って、でも照れくさくて、何も持たずに空港に行った。友人が回覧してきた寄せ書きに、「お元気で」としか書けなかった。もっと気の効いた言葉がいくらでもあるはずなのに、何も思いつかなかった。本当に言いたい言葉も、本当に渡したい物も、何一つ、あの人に届けることができなかった。
 出発ゲートの近くのレストランで、見送りに来た仲間連中で食事をしていた時、あの人が少し席を外した。今しかない、と思った。ちょっとトイレに立つふりをして、店を出たあの人を追いかけた。
 レストランの外の、真っ白な光の溢れる通路の真ん中で、あの人は、スーツ姿の男性と話をしていた。男性が、あの人に小さな箱を渡していた。箱を空けたあの人の手の上で、ぽろん、ぽろん、と、優しい音が鳴った。その音を、大事そうに、そっと、あの人は自分の両の掌で包み込んだ。
 オルゴオルの思い出は、そのまま自己嫌悪の思い出につながっている気がする。楽しい思い出よりも、悲しい思い出、辛い思い出の方が、心に残りやすいだけなのかもしれないけれど。オルゴオルの音は、人の記憶をかき回す。家も何もかもが流されてしまっても、決して流し去ることができない記憶の奥から、自分の見たくないものまで表面に浮かび上がってくる。星のようにかすかな音の粒とともに、雪のような柔らかな音の粒とともに、傷ついた心に落ちてきて、肌にひやりと哀しみを残す。
 「どんなオルゴオルだった?」私は言った。
 「箱。引き出しがついてて、引っ張ると、上の、白鳥の湖の人形が踊るんだ。」女の子が言った。
 「バレリーナの人形だな」私は呟くように言った。
 「白鳥の湖の人形。」女の子が言いなおした。
 オルゴオル。
 うちのオルゴオルはなくなった。もう2年も前の話だ。
 結婚した時、妻が持ってきたオルゴオルだった。会社の同僚だった妻。誰の話も、瞳を丸くして、まっすぐ視線をこちらに向けて聞き入る妻。この女の子の邪気のない視線に似た瞳。その瞳に見つめられると、どぎまぎした。
 妻の持ってきたオルゴオルは古いもので、やっぱり、箱の上に白いバレリーナの人形がついていた。引き出しを引くと、人形がくるくると踊る。曲は「白鳥の湖」だった。イヤリングやネックレスなんかの装飾品入れになっていて、朝、妻が身支度をするたびに、短調の悲愴なメロディーが鳴る。私はなんとなくそれが気に入らなくて、別の曲にならないのか、なんて聞いたことがある。妻は、ちょっと驚いたような顔をして、大きな瞳で私を見返した。夫婦の間で、少しネジがきしんだような音がした瞬間。
 結婚して二年目に、妻が妊娠した。つわりがあまりにひどく、しばらく入院することになった。妻は、オルゴオルの箱を持ってきて欲しい、と言った。私が、病室にじゃらじゃらとアクセサリーを持っていくのは不用心だし、と言うと、箱だけでいいから、とこだわった。
 「オルゴオルがないと、寂しいんだもの。テレビとかラジオはやかましくって疲れるし。オルゴオルの音がいいんだもの。」
 私は約束して、家で箱からアクセサリーを出し、他の身の回り品と一緒にまとめて荷造りをした。病院に持って行って荷物を開けると、オルゴオルは見当たらなかった。家にもう一度戻って探しても、出てこなかった。退院してきた妻と一緒に探しても、出てこなかった。家を失ったアクセサリーたちの山が、寂しそうに震えているだけだった。
 妻の私を見る目が、その日から少し変わった。赤ん坊は早産だった。助からなかった。以来、妻はオルゴオルを買おうとしない。アクセサリーは、味気ないプラスチックの小物入れに納まっている。口には出さないが、あれは私が捨てたのだと信じているのだと思う。私に向けられるまっすぐな視線で、子供を殺した男を見るように私を見る。
 「うちだね」突然、女の子が言った。マフラーをくるくると丸めて、私の手に預けた。周りを見回すと、そこには何もない。白い区画割りのひもが張られた更地があるだけだ。
 「行くよ、ママが待ってる」と、子供が、私の手を引こうとして、ぽかん、と口を開けた。丸い瞳が、くるっとあたりを見回す。私もつられて、視線を浮かせた。
 かすかに、ぽろん、と音がした。雪の粒のはじけるような。遠い和音・・・
 「オルゴオル!」
 女の子は叫ぶと、駆けだした。止める暇もなかった。あっという間に、白いひもを飛び越えて、夜の闇に消えた。叫ぼうとした声を、正面から来る車のヘッドライトが踏み消した。
 「こんな時間に何してるんです?」自衛隊員が車から声をかけた。
 「探し物してて、遅くなって。」マフラーをポケットにしまいこみながら、私は言った。
 「避難所ですか?」と聞かれてうなずくと、「お送りしましょう」と言ってくれた。
 「女の子、そっちさ走っていかなかったべか?」と聞くと、不思議そうに首を横に振った。地面が揺れた。津波警報を知らせるサイレンが、けたたましく鳴り始めた。
 妻は、避難所になっている文化会館の床に座り込んでいた。「また揺れたね」と、私を見上げて言った。何の感情もこもっていない声だった。悲しみも、喜びも、夢も希望も、何もかも波に押し流されて、揺れる大地に粉々に砕かれてしまった声だった。
 「あんまり、大したものはみつかんねかった」段ボールで区分けされた小さな我が家に、バッグの中のものをそっと取り出して、並べた。泥で汚れた通帳。泥で汚れた手紙の束。泥で汚れたアルバム。泥で汚れた本。泥で汚れた食器。
 一つ一つの物を見て、妻はそれでも歓声を上げた。能面のようなだった顔に、少し血の気が上った。
 「顔色悪ぃこと」私が言った。
 「大丈夫」妻が言った。
 「仮設住宅の建設予定地ば通ってきた」私は言った。「妙な女の子がいた。建設予定地のあたりで、消えてしまった。」
 その時、音がした。小さな炎がはじけるような音。
 妻の瞳に光がともった。「オルゴオル?」
 私は、バッグを探った。バッグは空っぽだった。音は続いている。「白鳥の湖」。
 ポケットの中に違和感があって、探ると、押し込まれたマフラーの中に、固い感触があった。マフラーの中から、四角い箱が出てきた。箱の上のバレリーナの人形のチュチュは、泥にも汚れていない。真っ白なチュチュを着けた人形が、ゆっくりと回っている。
 「オルゴオル出てきたの?」妻が言った。瞳に光がたまって、そのまま涙のしずくが落ちた。「どこで見つけたのす?」涙声で言った。
 私は言葉を失って、オルゴオルを見ていた。妻は、手を口にあてて、えずくような音をたてた。顔から血の気が引いた。
 「なした?」と私が聞くと、妻は、「あのさ」と言った。「できたみたいだもの。」
 私はぽかんと口を開けた。妻は恥ずかしそうにうつむいた。まつげの先に、涙のしずくが、宝石のように光って、きらきら揺れている。
 そうか。突然分かった。あの子は、未来だ。何もかもなくした我々に、未来から、希望を届けにやって来てくれたのだ。
 「ちゃんと産めるべか。こんな時に」妻は言った。
 「産めるべ」私は言った。言いながら、オルゴオルのネジをそっと巻いた。確かな、優しい楽音が響く。避難所の人々が、何人か、顔を上げて、こちらに向かって微笑んだ。「ちゃんと産まれるさ。仮設住宅が、この子の初めてのうちになるんだもの。女の子だべ。」
 「なして女の子す?まだ無事に産まれるか分かんねぇのに・・・」
 「大丈夫さ。女の子だべ。赤いセーターと、白いスカートの似合う、おっきなまんまるの目ぇした、女の子だべ。」
 私は、妻の手のひらに、オルゴオルをそっと置いた。妻の手の中で、オルゴオルは鳴り続けていた。

(了)