大地讃頌

母なる大地を 平和な大地を
大地を誉めよ、誉めよ、讃えよ
(大木惇夫 作詞 佐藤眞 作曲「大地讃頌」より)

 
 ああ、春江さん。
 来たのね。やっぱり来たのね。来ると思ってた。
 今、最終曲ですよ。もうすぐ、終演。ちゃんと間に合ったのね。本当に、よかった。
 
 手のひら、冷たいねぇ。でも、ちゃんと感じるよ。
 幽霊でも、ちゃんと、手のひらの感じがするんだね。
 幽霊って、海を越えることができないって、誰かが言ってたけど、やっぱり嘘だったんだなぁ。
 私ね、絶対あなたが来るって思ってたの。
 お葬式のお知らせが来た時も、そう信じてた。あなたは絶対、ニューヨークに来るって。
 あなたが来たいと思ったから来たのか、
 私が、来るって信じたから来たのか、
 どっちなのかしらね。
 どっちでもいいけどね、そんなこと。
 
 あなた、にこにこしてる。色んな背負ってたもの、振り棄てて、自由になった顔してる。
 私も、そういう風に、あなたに笑ってあげたらよかったね。
 佐和子さんや美奈子ちゃんに、そうやって、屈託なく笑ってあげられたらよかったね。
 二人とも、ここに来てくれてるのかしら?そうなの?
 だったら、笑って挨拶してあげないとね。
 
 ああ。「海」ですよ。
 あなたと一つだけ、意見が一致したことがあったねぇ。
 「水のいのち」は男の歌だってね。
 いつまでたっても、どこにも留まっていられない、男の歌だってね。
 だから、あなたも私も、あの人の「水のいのち」が、大好きなのに、大嫌いだった。
 
 あの人の指揮してる顔、本当に、いいよねぇ。
 私、舞台袖で、こうやって、指揮しているあの人の顔を見るのが好き。
 あなたもそうだったのよね。
 私もあなたも、あれにやられちゃったんだもんね。
 どんなにしんどいことがあっても、どんなにつらいことがあっても、あの笑顔を見たら、もう全部、忘れちゃうよねぇ。
 
 嬉しいかって?嬉しいですよ。あなたが来てくれて、本当に嬉しい。
 あなたが亡くなったって聞いた時、泣きましたよ。本当に、半年くらい、ずっと泣いてた気がする。
 色んな言葉、あなたに言いたかった言葉たちが、でも言えなかった言葉たちが、全部全部あふれ出てきて、一日中、叫ぶようにあなたに話しかけてましたよ。
 あの人もそうでした。あの人は言葉じゃなくて、音楽で。
 私たちみんな、残された者たちみんなで、あなたを知っている人たちみんなで、あなたに向かって、必死に何かを伝えていた。
 だから嬉しいですよ。こうやって、あなたがここに来てくれて。
 私たちの声が、天国に届いたんだなって。
 呼び戻されて迷惑だったかもしれないけどね。いいでしょ。どうせ長居する気もないでしょうに。
 
 終演ですよ。聞こえる?この拍手。すごいねぇ。教会の高い天井から、拍手の音が降り注いでくるみたいねぇ。
 本当に、この演奏会ができてよかった。あなたのおかげ。あなたが、あの人を支えてくれたおかげです。本当に、ありがとう。
 
 そりゃあ、私も支えましたよ。あなただけに手柄を一人占めさせる気はないですよ。
 あなただってそんなこと考えてないでしょう?
 私とあなたで支えたんです。あんな大変な人を、あんなわがままで自分勝手な人を、一人で支えるのなんか無理だもんね。
 あなたが生きてる間から、口に出さなくても分かってましたよ。あの人を、私一人で独占することなんか、無理なんだって。
 あなただって、あの人を一人占めしてるわけじゃないんだって。
 自分を慰めながら、自分に誇りも持ってましたよ。
 
 ねぇ、指揮者贈呈の花束、一緒に持って行きましょうよ。いいわよ。絶対、あの人気がつくから。二人で持って行こう。ね。
 
 ほら、あの人気がついたでしょ?コンマスの人が面喰ってたわね。おっかしい。他の人にはあなたが見えないのねぇ。あの人が、空中に向かって握手しているの見て、みんな目を白黒してたね。はははは。
 
 あの人、退場してくるわよ。あら、隠れちゃうの?ずるいなぁ。
 
 見た?あの人の顔。口から泡でも噴きそうな顔してたわよ。まさに幽霊を見た人の顔だったわね。ざまあみろよねぇ。春江さんの人生、私の人生、さんざん弄んだんだから、今日くらい、二人であの人を弄んでやりましょうよ。ははは。
 
 あの人の挨拶が終わったら、アンコールです。「大地讃頌」。あの人、ちゃんとまともに挨拶できるかしらね。幽霊と握手した直後だもんね。はははは。
 
 あの人のこと、一人占めになんかできないって、分かっててもねぇ、やっぱり、あなたが憎かったよ。そりゃあ憎いよ。
 本当にあの人が好きなのか、あなたに取られたくなくて、ただ意地を張ってるだけなのか、なんだか分からなくなったことだってあるよ。
 あなたが佐和子さんを産んだ時には、何度も、あなたたち親子を殺そうと思った。何度も、何度も。
 女としても、舞台を作る同志としても、結局私は、あなたにかなわなかった。あの人と同じ場所に立つことができなかった。それが悔しくて、あなたが憎くて、本当に、気が狂ったようになった時期もありました。
 
 でもねぇ。あなたがあの時、私の前で土下座して、子供を産ませて下さいって言った時、何だか、あんまり自分がみっともなくて、あなたのことよりも、自分が情けなくて、死にたくなりましたねぇ。
あの人が、何があっても、私のいる家に帰ってきたのは、私が大事だったからなのか、そうしないと、私が死ぬと思ったからなのか、本当のところはよく分からない。
だからかなぁ、何があっても、あの人が帰る家だけは、しっかり守らなきゃって思いましたね。
私のことが、あなたより大事だから、私の家に帰って来てくれるのかどうか、そんなこと分からないけど、帰って来てくれるのなら、もう一度帰ってきたいって思ってもらえるように、精いっぱい、いいお家にしようって。
 絶対これだけは、あなたに負けるもんかって。そう思ってた。
 
 そう思って、アメリカくんだりまで、あの人に付いてやってきちゃいました。
 あなたへの意地もあったのかもねぇ。
 私はいつも、あの人が帰る場所になるんだって。
 あなたがあの人と一緒に舞台を作る。そして、私が、あの人の帰る場所になる。
 この場所だけは、あなたに渡さないって、必死だったんだろうねぇ。
 
 だから、あなたが死んだ時、あんなに泣けたんだと思いますよ。
 ずっと綱引きして、ずっと引っ張ってた綱が、急にぷつんと切れたみたいに。
 
 だから、あなたがこうやって、幽霊になっても戻ってきてくれたこと、本当に嬉しい。
 綱引きの綱、天国からもずっと、引っ張ってくれてるんだねぇ。
 あなたが死んだからって、あなたと私の戦いが終わったわけじゃないんだ。
 これからもずっと、あなたと一緒に、あの人を支える戦いが続くんだ。
 そう思えることって、本当に、幸せなことだと思うのよ。
 
 あの人の家を守っているとね、一つ、役得があるんです。
 多分、あなたの役回りでは、味わえないこと。
 あの人の子供たち、合唱団のみんな、舞台を一緒にした仲間たちが、
 私の家に遊びに来てくれること。
 あの人の家、私の家を、自分の家みたいに、「ただいまぁ」って言いながら、訪れてくれること。
 
 あの人は海。あの人は水。
 そして、私は、大地。あの人を支え、あの人をめぐる人々を支える、大地。
 私ね、立派な大地になろうと思うの。みんなを支える、ゆるぎない大地に。
 
 春江さん。もう行くのね。そんなにニコニコ笑いながら、もう行くのね。
 私ももうすぐ、そっちに行きます。
 その日まで、私たちのこと、見守っていてね。
 天国はきっと、ここよりずっといい所だと思うけど、
 たまには、この舞台に、たくさんの思いが集う場所に、戻ってきてくださいね。
 その時は、みんなに言うのと同じ言葉を、私、あなたに言うからね。
 「おかえりなさい」って。必ず言うからね。
 必ず、笑って言うからね。
 
 さようなら、春江さん。
 ありがとう、春江さん。
 そしてきっと、また、おかえりなさい。春江さん。
 
母なる大地のふところに
われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ
大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ
平和な大地を
静かな大地を
大地をほめよ たたえよ土を
恩寵のゆたかな大地
われら人の子の
大地をほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を
たたえよ ほめよ
たたえよ 土よ
母なる大地を ああ
たたえよ大地を ああ

 
(了)