夢見たものは

夢見たものは
一つの幸福
〜中原中也作詞 木下牧子作曲「夢見たものは」より〜

 
 パート別性格診断って、覚えてる?ほら。大学に入った時にさ。先生が言ってた。
 声と性格って、結構関係あるよねって、先生。ニコニコしながらさ。覚えてる?
 
 ソプラノってのはさ。ヒロイン願望が強くてさ。自分が一番で、自分のやりたいことを邪魔されるのが嫌なんだよ。声が高いだけじゃなくて、プライドも高いし、気ぐらいも高いし、計算高い。ベースが音をはずしてソプラノの主旋律の邪魔したりするとさ。ものすごい形相でにらんでくるんだよね。

 里美さんがさ、練習中に、別に何にも考えずにぼおっと俺の方見てるだけでさ。なんか、俺の出している音が間違ってるんじゃないかって、ドキドキするんだよね。水野さんってさ。ほら、米国側の合唱団のおじいちゃんでさ。どう聞いても音痴のおじいちゃんいるじゃん。あの人なんかさ。里美さんと廊下ですれ違っただけで「ごめんなさい」って謝ってるんだぜ。笑っちゃうよね。
 
 テノールはさ。声が軽くて明るい割には、意外と女性に関しては律義で真面目なんだよ。人によっては軽やかにくだらないギャグを飛ばしたりするんで、頭も軽いとか、低能ルとか言われたりするけど、結構固くて、古風な男尊女卑の考え方に染まってたりする。だから、自分から、「愛してる」なんて絶対言わない。最後の一言をなかなか言わなくて、女性の方がじれて、女性の方から先に、「私のことどう思ってるんですか!」なんて積極的に押して行って、おさまる所に納まる、そういうケースが多い。ずるいんだよね。結局ね。
 
 康子はさ。アルトだからさ。
 
 アルトは、なんでも受け入れちゃうんだよ。こだわりがなくて、音程にもあんまりこだわりなくて、結構テキトーな音出してたりするんだよね。包容力がありすぎて、律義なアルトは自分で抱え込みすぎて自爆するし、律義じゃなかったら、なんでも笑ってすませちゃう。笑い声が豪快だから、笑うとなんでも許されちゃう、っていうのがアルトの人徳なんだ。ソプラノと並べると、自己主張が強いソプラノに流されてしまう。オペラとかだと、カルメンとかデリラみたいに、ものすごく自己主張の強い役割を与えられているのに、そういう自分に対するこだわりもあんまりない。
 
 そうだね。分かってるよ。そういう風に見えるだけだ。確かに、内側では、一杯葛藤がある。分かってるよ。
 
 JFKでさ。入国ゲートをくぐって、康子が、橘さんを指差した瞬間にさ。分かったよ。ああ、彼か、って。こいつが、康子の初恋の人かって。
 
 橘さんってさ。テノールだもんな。そりゃ言わないよ。自分からは。好きだとか愛してるとか。そういうこと絶対言わない。
 
 そうじゃないって?何が?
 
 自信持てって言われてもさ。持てないよ。俺、バリトンだもん。
 
 バリトンはさ。先生が言ってた通りでさ。テノールより粘着質で、声が体に響くから、その体に響く感覚が気持ちよくて、その快感を追い求めているうちに、テンポも音程も無茶苦茶になるんだよね。そういう自分の体の感覚にこだわる部分が多いから、マゾっぽい奴が多くて、ソプラノの冷たい視線に身もだえして喜んでいたりする。
 
 だから、女性に関しても、自分に自信なんかないくせに、結構しつこいんだよ。バリトンの方から、女性にしつこくアプローチした挙句に、女性の方が根負けしちゃって、「そんなバカな」って言うような高嶺の花の女性を射止めたりする。
 
 康子の時だって、そうだったでしょ。
 ずっと、憧れだったから。俺の。康子はさ。
 大学の合唱団で、最初に会ってから、ずっと。
 
 自信なんかもてないさ。自分でも思うもん。つりあってないって。
 
 違うって何さ。分かんないよ。だってどう見たって、橘さんの方がいい男じゃん。かっこいいし、みんなをここまで引っ張って、こんなすごいイベント実現させたんだし。俺なんか、足元にも及ばないじゃん。
 
 痛いよ。そんなに叩くなよ。俺、胸板厚いからいいけど。
 
 悔しかったの?思い出したの?何を?
 
 なんで泣いてるの?里美さんに、なんか言われたの?
 
 演奏会終わったら、ちゃんと説明してくれるの?分かった。じゃあ、演奏会が終わったらね。
 
 愛してるよ。俺、バリトンだから、俺からちゃんと言うよ。愛してるよ。
 こうやって、康子のこと抱っこしてるとさ。「夢見たものは」の頭の所がね、頭の中で鳴るんだ。
 
 夢見たものは
 一つの幸福
 願ったものは
 一つの愛

 
 分かってるよ。ちゃんと言うよ。だから、康子も、俺に言ってくれよ。俺と結婚したことさ。こうやって、二人して、抱き合ってることさ。
 「幸せ」って。一言。
 ほら、人が来たらびっくりする。涙拭いて。そろそろ、楽屋に戻ろう。
 
(了)

 そうです。確かにあの男です。
 顔だけは見分けがつきましたから。あんな状態でも、すぐ分かりました。確かに、あの男でした。
 娘は大丈夫だと思います。これからどうなるか分かりませんけど。
 小さい頃のショックって、忘れてしまうようで、心の奥に傷を残すって言いますもんね。
 大人になってから、何かにおびえたりしないといいんですけど。
 
 私の母がね。東北なんです。
 この間の津波でね。海に持っていかれました。まだ遺体は見つかってません。
 父の位牌も、何もかも流されました。
 夫婦して、海になっちゃったんだなって、思います。
 
 なんで急に、母のことを言い出すのかって、思われるでしょうね。
 私ね、亡くなった父母が、娘を守ってくれたんだなって思うんです。
 ひょっとしたら、もっとひどいことをされていたかもしれないんですからね。
 そういう何かしら、この世のものじゃない力で、守ってもらったんだって、思うんです。
 それとも、それ以外に、あの男の死に方に、理由がつきますか?
 
 警察とか、病院とか、色々理由をつけるんでしょうね。
 でもね、私は私なりに、ちゃんと理由つけちゃったから、それでいいんだと思ってる。
 ええ、確かに、私の父母が、娘を守ってくれたんです。そう信じてます。
 
 最初の事件は、風船でしたね。
 娘が大事にしてた風船。
 私のお友達が、娘の誕生日の日にくれたプレゼントでした。
 ヘリウムガスを詰めた、犬の形をした風船でね。蛇腹になった足がついてて、自分の重さと、ヘリウムの浮力がちょうどいい感じにバランスする。地面すれすれを、本当の犬みたいにふわふわ動くんです。娘はすぐに気に入ってね。
 おちえさんって、名前までつけて、あの日、近所の公園に持っていったんです。幼稚園の後、お友達と遊びに行く時にね。おちえさんのおさんぽ、って言って。おおはしゃぎでね。
 
 子供がすごく楽しそうに、はしゃいで、にこにこして飛び出して行ったのが、ぎゃんぎゃん泣きながら帰ってくるのを迎えるのって、つらいですね。
 親になって、初めてそういう辛さが分かりました。自分がとっても大事にしているもの、ひょっとしたら、自分自身よりもずっと大切に思っているものの、心や体が傷つくのって、こんなに辛いものなんですね。
 
 あの子が大泣きしながら帰ってきた時、あらあら、転んだかな、くらいに思いましたけどね。最初は。
 でも、手に持っている、おちえさん風船が、ずたずたに切り裂かれるの見て、血の気が引きました。自分の体の中の一番大事な部分に、ナイフ突っ込まれてかき回されたような、そんな感覚で吐き気がしました。
 今思うと、あの男がやったんです。娘が言ってた犯人の特徴と、ピッタリでしたから。
 
 警察には届けましたけどね。別に動きようがないですよね。それでも、多少、娘が遊んでた公園のパトロールとか、強化してくれたみたいだったですけど。
 近所のお母さんたちもみんな怖がってね。しばらく、公園で子供を遊ばせないでおこう、とか、公園で遊ばせる時も、必ず親がついているようにしよう、とか、色々みんなで井戸端会議やってましたね。
 
 でもね、当事者の私たちは、それどころじゃないですよ。娘は意外とけろっとしてましたけど、私がね。参っちゃって。幼稚園から娘が帰ってきてから、外に出すのが怖いんです。友達と一緒でも、お稽古ごとに出かけるときでも、とにかく、私が一緒でないと不安でしょうがないんです。少しでも娘の姿が見えなくなるだけで、パニック症候群っていうんでしょうか。動悸が激しくなって、めまいがして、居ても立ってもいられなくなるんです。娘が見つかると、もう興奮状態です。泣いたりわめいたり。娘もびっくりして泣き出すし、職場の夫を電話で何度も呼び出したりして。最悪でした。
 
 実家の母が見かねて来てくれたんです。3カ月ほどいてくれました。その間に、私も、いいお医者さんにかかることができて、なんとか落ち着きました。
 
 もう大丈夫だなって、母が田舎に帰った翌日でしたか。娘が私にニコニコしながら言ったんです。ママ、大丈夫だよって。蛇さんが、おうちを守ってくれてるからって。
 
 蛇さんって?って、私聞きました。そしたら、おばあちゃんに聞いたんだって、教えてくれました。家を守っている蛇の話。それで、私も思い出しました。
 
 私の田舎の家には、大きな蛇が床下に棲みついてたんですよ。滅多に人前には姿を見せませんでしたけどね。でも時々、父か母が、抜け殻を見つけて見せてくれたことがありました。そりゃあ大きな抜け殻で、2メートルくらいあったような気がします。子供の頃に見たから、余計に大きく感じたのかもしれませんけどね。怖いよって、父にすがりついたら、父が、「こわがんなぐでええ」って言ってくれました。これは、うちの守り神さんだからって。
 ご先祖様が、蛇に姿を変えて、家をしっかり守ってくれているんだって。
 父も母も、だから、その蛇の姿を見なくても、大切にしてましたよ。時々、床下にお神酒を備えたりね。抜け殻は、幸運を呼び込むお守りだからって、お守り袋に入れて神棚に祭ってました。
 
 でも、うちはマンションだからねぇ、って、娘に言ったら、娘は、だから余計に大丈夫だよって、ニコニコしながら言いましたね。おばあちゃんの家は、蛇が一匹で守ってるんでしょって。このマンションには、100個も200個もおうちがあるでしょ、って。だからきっと、蛇さんも、こーんなにこーんなに大きな蛇さんで、みんなに何かがあったら、きっと守ってくれるんだよって。小さな腕を大きく広げて、私に言ってくれました。
 
 そうですね。子供心に、自分の母親の心が痛んでいるのを感じてたんでしょうね。なんとかなぐさめてあげようって、おばあちゃんに聞かされた話を、自分なりにママに伝えてあげようって、一生懸命だったんだと思います。
 
 あなた、今、私のことを変な眼で見てますね。哀れな物を見るような眼で見てますね。
 そうですよ。私はそう信じてるんです。あの子を守ってくれたのは、こーんなにこーんなに大きな、蛇さんだって。
 このマンションの地下に、その蛇さんはいて、このマンションの家の住人たちを、守ってくれているんです。
 
 きっとね、蛇さんは、あの地震の時にも、このマンションを守ってくれたんですよ。
 このマンションだって、あの時の地盤の液状化で、傾いたり壊れたりしても不思議じゃなかったんですからね。
 被害はあったけど、でも私たちが無事でいるのは、きっと蛇さんに守ってもらったおかげなんです。
 大きな蛇さんが、地面の底にしっぽを巻きつけて、愛美が怪我をしないように、マンションを守ってくれたんですよ。
 
 愛美が、あの男に脅されて、マンションの地下室に連れて行かれた時にも、きっと、蛇さんは、あの子を守ってくれたんだと思います。
 あの子に聞いてみてごらんなさいな。何があったのって。
 蛇さんが、あの男の人を呑み込んだんだよって、きっと言うから。
 大きな口で、ごぶりって、頭から呑み込んじゃったんだよって。
 
 蛇って、丸のみしたネズミとかを、体の中に取り込んでから、全身の筋肉を使って、獲物の骨を粉々に砕いて、ゆっくり消化するんですってね。
 あの男の体、そうなってましたよね。
 顔はかろうじて原型保ってたけどね。体中の骨が砕かれて、ただの肉の塊になってた。
 
 東北の、父母の家のあった所に、行ってこようと思っています。
 愛美を守ってくれてありがとうって、お礼を言いに。
 これからも、愛美をお願いしますねって、言ってこようと思っています。
 
 ・・・あの子、今、どこにいますか?無事でいますか?
 泣いてませんか?あの子の傍に行かせてください。あの子に何かしてないでしょうね?
 あの子はどこにいるんですか?あの子をどこにやったんですか?あの子を返して。あの子を抱かせて。あの子を、あの子を、あの子を、あの子を、あの子を・・・・
 
(了)

怪獣のバラード

でかけよう 砂漠捨てて
愛と海のあるところ
〜岡田冨美子 作詞 東海林 修 作曲 「怪獣のバラード」より〜

 
 橘くん、どこに行ったか、知らない?
 水野さん?ああ、あのおじいちゃん?ピアノのある部屋に行ったの?
 こんな本番直前まで?練習熱心なのねぇ・・・違うの?
 ああ、そう・・・そんなに大変なんだ。じゃあ橘くん捕まらないよね。どうしようかな。
 あ、先生がいるわ。ちょっと先生!・・・

 ・・・話できた。
 合唱団の位置のことよ。あれじゃあオーケストラと遠すぎて歌えない。
 「水のいのち」の時には場所を変えようって。先生も了解してくれたわ。
 ちょっと安心した。

 スケジュールきついよね。まだ時差ボケ抜けないでしょ?
 明日の市内観光どうしようかなぁ。ブッチしようかなぁ。なんか、元気残ってないよ。
 どうせ今晩も打ち上げなんだしねぇ。
 おばさんおじさんは元気でしょうけどねぇ。あの人たちの元気はどこから来るのかなぁ。
 若い人たちは元気があっていいわねぇ、なんてニコニコ笑いながらさ、今日も朝6時に起きてセントラルパークをジョギングしてた人たちいたのよ。
 あれが、日本の高度成長を支えたエネルギーなのかしらね。すごいなぁ。
 あのエネルギーを裏方仕事に少しまわしてくれると嬉しいんだけど。

 はい?Hello? No, No, I’m not an orchestra staff. I’m a chorus one. Please ask that guy. Yes, that huge guy. Thanks.

 英語?勉強しましたよ。勉強しろって言われたもん。週に二回、マン・ツー・マンの英語レッスンね。トドみたいにボホボホ笑う金髪のおばあちゃんを相手に、1時間英語だけで喋るの。1時間のうち20分くらいは、おばあちゃんの笑い声聞かされてるわね。笑ってる時間の分だけお金返してほしいわよ。

 そうねぇ、もうあと3カ月くらいかなぁ。

 怖いよそりゃ。時々、すごく不安になって眠れなくなるよ。

 橘くんはいいわよ。会社があるしね。一日のほとんどの時間、仕事のこと考えてればいいわけだし。仕事は東京の本社とつながってるでしょう。でも、私は本当に一人ぼっちで、この街に放りだされるんだからね。
 先生がこっちにいてくれてよかったよ。ほんと。

 アメリカ行くって言われた時は寂しかったけどねぇ。え?先生のことだよ。橘くん?寂しいっていうか、ただびっくりしただけだよ。

 年齢もあると思うんだよね。先生がアメリカに行くって決まった時、私たちまだ大学生になったばっかりだったでしょう。アメリカって、ものすごく遠い国のような気がしたからね。高校生の頃からずっと指導してくれてた先生が、本当に自分たちの手の届かない遠い遠い所に行ってしまうんだって、みんなして泣いたなぁ。

 橘くんの米国赴任が決まった時はね、私ももうこんな年だったしね。海外旅行も何度もしてたし、それこそ、ニューヨークに先生訪ねてきたこともあったし。そんなに遠くに行くって感じじゃなかったよ。

 でもね、一昨日、飛行機で着いてさ。タクシーの窓から、マンハッタンの夜景が見えてきたらさ。急に怖くなってきたね。
 ああ、私は、日本にある自分の絆を、たくさんの人とのつながりを、全部断ち切ってここに来るんだなぁって。そう思った。
 橘くんとか、先生とか、そういう本当にわずかな絆だけを頼りにして、体一つでここにくるんだって。

 高校の頃のことさ。思い出すよね。
 橘くんと私とあなたとさ。しょっちゅう学校の近くの喫茶店で、練習帰りに、お茶しながらだべってたよね。
 あの店、まだあるのかなぁ。あんみつが美味しくてさ。あなたは、甘いのが駄目で、いっつもブラックのコーヒーだった。橘くんはしょっちゅうクリームソーダ頼んでたよね。子供みたいって二人して笑った。どうしても飲みたくなるんだって、橘くん、開き直ってたけど。

 あれ、まだ衣装に着替えてないおばさんたちがいるね。大丈夫かな。ほんとにみんなのんびりしてるんだから、いやになっちゃう。

 私ね、あなたにずっと、謝りたかったの。橘くんのこと。
 そうだね。昔の話だけどね。でも、私が、橘くんと付き合うことにしたのは、絶対、あなたのことがあったからだと思う。
 あの喫茶店で三人でいる時からさ。ずっと私、あなたの気持を確かめたくて、でも怖くて、ずっとその話には触れないように、触れないようにってしてた。
 でもね、橘くんと二人になった時にはさ。あなたの話ばっかりしてたよ。二人して。
 やっちゃんって、いいよねって。さんざん、橘くんに売り込んだりした。馬鹿みたい。

 多分ね、そんなことないよ、お前の方がいいよって、言ってほしかったんだと思う。
 でも橘くん、結構鈍感だから。そういう話より、次の練習計画の話とか、先生の歌の解釈の話ばっかり。
 だからね、私、やっちゃんのこと、橘くんに売り込んだりしてたくせにさ、やっちゃんが、橘くんのこと好きになるはずがないって、高くくってた。ちょっと不安になりながら、あなたの気持ち、ちゃんと確かめた方がいいって思いながら、でも、まさかって思ってた。こんな音楽オタクのこと好きになっちゃうなんて、私くらいなもんだろうって。

 だから、やっちゃんにあの日、「橘くんと付き合おうと思う」って言われた時は焦ったよ。無茶苦茶焦った。
 焦るのと同時に、すごく腹が立った。なんでもっと早く言ってくれなかったんだって。馬鹿みたい。八つ当たりだよね。
 その日のうちに、橘くんに電話して、「付き合って下さい」って言ったの。私から。
 そう。あなたに取られたくなかったから。

 私ね、怖いの。
 橘くんのこと、好きなのは本当だよ。
 でもね、こうやって何もかも捨ててさ。橘くんだけを頼って、体一つで、誰も知らないこんな街にまで来ようって思ってるのは、本当に、橘くんへの愛情だけなのかなって。
 時々怖くなるの。
 ひょっとして私、あの時のあなたへの意地だけで、ここまで来ようとしてるのかもしれない。

 ごめんね。こんなこと、今言う話じゃないよね。
 なんか、時差ボケのせいもあるのかな。徹夜明けの時って、ちょっとぼおっとしちゃうじゃない。酔っぱらった時みたいにさ。そんな感じなのかな。やだ、なんか涙も出てきちゃった。

 ホテルの近くのコンビニっていうかさ。お土産物屋さんみたいのがあったでしょう?
 あそこにさ。一杯Tシャツが並んでたでしょう。I Love NYっていうロゴの入ったTシャツ。
 あれ見てね、今日歌う、「怪獣のバラード」の歌詞を思い出したの。
 
 でかけよう 砂漠捨てて
 愛と海のあるところ
 
 
 私は愛と海のある街に住むんだなぁって、思ったよ。

 なんか落ち着かない。ちょっと、受付手伝ってくる。ちらしの挟み込みとかやってるはずだからさ。

 橘くんはさ、ああいう人だから。なんだかクソ真面目で、不器用でさ。全然かっこよくない。
 だから、一度も私に言ってくれたことがないの。でもね、私、この演奏会の間にね、一度でいいから聴きたいの。彼の口から、たった一言でいいからさ。
 「愛してる」って一言。

 ごめんね、じゃ、行ってくる。

(了)

宝石の歌

あなたなの、マルガレーテ?
答えて頂戴、早く答えて
いいえ!いいえ!もうあなたでは無くなっているわ!
もうあなたの顔では無くなっているわ!
〜グノー作曲「ファウスト」より〜

 
 君はこのメールを見て、すぐに私の家に駆けつけるだろう。そこで君が見るものは酸鼻を極めた光景だろう。それでも君を頼るのは、私が残して行く物の大きさを、私の罪の深さを、心から弾劾できる最善の人だと思うからだ。君がかつて愛したものに、その愛と言う感情のゆえに、今でも責任を感じていると信じるからだ。
 考えてみれば、私の狂乱自体、きっかけになったのは君の愛だった。君が私の前に現れたあの日から、私の心は二つに引き裂かれた。真理恵を愛する兄の心と、君に嫉妬し、真理恵を欲する恐ろしい雄の欲望と。
 真理恵は今、二階の自分の部屋で、か細い声で歌っている。歌いながら、壁に絵を描いている。歪んだ形の無数の円がひたすらに絡み合う、意味の分からない絵を、ひたすらに壁にかきなぐっている。部屋の壁はすでに円で覆われていて、床は血でよごれているから、私は真理恵に、山のような画用紙を買い与えた。真理恵はそれでも、手に持ったクレヨンをひたすらくるくるとまわし続け、円の上にさらに新しい円を重ねながら、壁に絵を描くのをやめない。画用紙は、ただ破るのが楽しいらしい。画用紙を破っているか、線を描いているか。それがあの子の一日だ。
 父が死に、私が若くして会社を継いだ時、一番の気がかりはあの子のことだった。仕事に追われながらも、私はあの子の生活を厳しく律した。年も離れていたからね。父親代わり、という感覚と言うより、完全に、父親になった気分だった。母も私に頼りっぱなしだったから、経済的にも、精神的にも、私はこの家の、家族の柱なのだと信じた。この柱にすがって、母も、真理恵も生きているのだと。だからこそ、私は自分の足で、一人でしっかり踏ん張らねばならないのだと。
 一人で生きられる人間はいない。それは人の傲慢だ。なのに私は、自分が一人で立ち、人を支える幻想に酔っていた。私自身が、人に支えられているということを忘れ果てていた。そしていつか、私を支えている人々も、私から去っていくのだ、ということも。
 母が死んだ時、突然襲ってきた空虚感が、私を心底おびえさせた。父が死んだときにはさほど感じなかった喪失感が、母の死の時に突然の津波のように押し寄せてきた。なぜだろう。父は私に似て、自分が一人で立っているという幻想の中に生きていたからだろうか。私と父の距離は遠くて、職場の理想の上司としては語れても、親としての感覚は希薄だったからかもしれない。だが、母の時は違った。
 母が死んだ時、病院から帰りついた家の中の、空気の密度が変わっていることに胸を突かれた。母、という一人の人間の存在が失われた家は、骨組みだけになってしまったように寒々しくて、どこまでも空っぽな感じがした。どの部屋に行っても、そこに母がいた時の記憶と比較してしまう。母の不在、という圧倒的な感覚が、家のあらゆる空間に充ちていた。その時初めて、私は恐ろしくなった。
 もし、真理恵が嫁に行く日が来たら、この家を去る日が来たら、一体私はどうなるのだろう。私は、母と真理恵の不在を抱えて、この家で一人で生きていくのか、と。
 そうだね。誰か別の女性を愛することができれば、私も真理恵も、こんな地獄に落ちることはなかっただろう。でも私には、他の女性を愛することはできなかった。私は一人で立つことに慣れていて、誰かと何かを分かち合うことができなかった。誰かに私から与えることはできる。あるいは、一方的に奪うこともできる。だが、何かをその人と分かち合うことは、私にはできない。私の心は常に私の中にだけ向いていて、その中で失われたものと、得られたものを勘定しているだけだった。そして余ったものを、真理恵や母に与えるだけだった。そんな数字だけで出来上がっているような精神的奇形、それが私という人間だった。
 自分でも、なぜそういう人間が出来上がったのか、どうしても理解できない。父親だって、会社経営者ではあったけれど、それ以外は平凡な人間だった。母もそうだ。私がどうして、そんな極端な性向を身に付けたのか、私には理解できない。
 一つだけ、ひょっとしたら、と思うのは、真理恵があまりにも美しかったことだ。真理恵がいることで、彼女の美しさを当然のこととして受け入れることで、人が持つ飢餓感や不満のほとんどが解消されてしまったのかもしれない。私たち兄妹は、お互いの存在を何の疑問もなく肯定していた。これ以上に完成された関係があるとは思えなかった。そう、真理恵は私にとって、あまりにも美しすぎたのかもしれない。
 それでも、私にもまだ理性のかけらは残っていたのだ。母を失った後、さらに真理恵を失うことの恐怖感を、なんとか克服しなければ、という思いで、私は真理恵に、私の会社の外で働いてみることを勧めた。そして、真理恵のいないこの家に、私なりに慣れていこうと思った。いずれ私の手元から、真理恵が旅立っていく日のために、いまから慣れていなければならない、と、自分に言い聞かせた。
 でも、私の中で、やはり真理恵は美しすぎたのだ。私の傍によりそって、私の愛を注ぐ相手として、真理恵は完璧すぎたのだ。あの夜のことは、よく覚えている。会社の送別会がある、といって、真理恵の帰宅が遅くなった日だ。私はその頃にはすっかり、真理恵の不在にも慣れていた。少しは寂しい思いもあったが、それは「寂しさ」という言葉を言葉として受け止めているだけだった。真理恵の心が、私を、この家を捨てることなどあり得ない、そうどこかで高をくくっていたのだと思う。
 あの夜、飲み慣れない数杯の酒に頬を染めて帰ってきた真理恵は、玄関先で出迎えた私の視線を、一瞬受け止めて、すぐにそらした。小さく微笑みながら、振り返った視線の先に、君がいた。君は私に向かって、しゃちこばって、気まじめなお辞儀をして、そのまま踵をかえして、夜の街に消えていった。
微笑みを絶やさずに、君の背中を見送っている真理恵は、信じられないほど美しかった。少しのアルコールと、宴会の後の高揚と、そして、君への思いで火照った真理恵の頬が、本当に艶やかに輝いていた。そしてその皮膚の奥に、たぎる肉の欲望が、突然私に襲いかかった。
ああ、真理恵は女になるのだ。そう思った。俺の傍をただ離れていくだけじゃない。真理恵は女になるのだ。心の底でつながっていたはずの俺との絆は、真理恵が女になった時に、完全に断ち切れるのだ、と。
いや、そう思った、というのは正確ではない。そんなにはっきりと、言葉で整理した感情が生まれたわけじゃない。その時私を襲ったのは、猛烈な吐き気だった。耐えられなくなって、トイレに駆け込んで、胃の中のものを全て吐いた。胃液の饐えた臭いの中で、私の中に、意味不明の怒りが込み上げてきた。
だがそれでも、私はまだその思いに戸惑うだけの理性を残していた。なぜ腹が立つのか、なぜこんなに動揺するのか、自分でも理解できなかった。仕事の疲れだろう、と真理恵にはごまかした。そう、私はまだその時、真理恵を本当に愛していた。兄としての正しい愛情を真理恵に向けるだけの理性を残していた。
そして、その夜から、私の本当の地獄が始まった。淫夢だ。
夢の状況はそのたびに変わる。だがその夢の中で、私が組み敷いている女は、私の欲望に引き裂かれている女は、常に真理恵だった。夢の中で私は真理恵を凌辱し、時には真理恵とともに歓喜の声を叫び、時には真理恵の苦痛に喘ぐ声に興奮し、そして最後には必ず、体中の体液の全てが迸り出るような、快楽の絶頂の中で夢精した。淫夢は毎晩訪れるわけではなく、三日間連続することもあれば、ふっと10日間ほど何事もないこともある。いつやってくるかわからない、そして自分で制御することもできない、罪深い夢に私は心底怯えた。自分の中の狂気が信じられなかった。自分がそんな邪念を、血を分けた妹に対して抱いていたことが許せなかった。激しい自己嫌悪と惑乱の中で、私は自然と、真理恵を避けるようになった。家に帰らず、朝まで飲んだくれることが多くなった。
水商売の女の体に溺れようとしたこともある。しかし、行為の最中の女の顔は、全て真理恵に重なって見える。快楽に歪んだ唇の形が、真理恵のそれと重なる。あえぐ声が、真理恵の声に聞こえる。私の中の全てが、体中の内臓の隅々に至るまで、全身が真理恵を欲していた。真理恵を抱きたい、真理恵と一つになりたい。離れようとすればするほど、理性でそれを押さえようとするほど、私の体がそう叫ぶ声が高く、大きくなり、そして淫夢は続き、時には白昼夢になって私を襲った。
私はあの時、家を出るべきだった。全てを捨てて、真理恵を残して、一人自分の中の地獄を抱えて、真理恵から遠い場所に立ち去るべきだった。そうすれば、破滅するのは私だけですんだ。真理恵まで一緒に、破滅させることはなかったのだ。
あの日、なじみの店の女に愛想を尽かされて、着のみ着のままで街に放りだされた時、体が無意識に、足が無意識に、家に向かっていた。気がつくと、玄関先に立っていた。なくさなかったのが不思議だが、家の鍵をちゃんと持っていた。扉を開けて、入ったが、中には人の気配はなかった。
小指の先ほどに残っていた理性が囁いた。今だ。身の回りのものをまとめて、この家を出ていけ。真理恵と絶対に会うことのない、遠い遠い場所へ。自分の中の地獄を抱えて、一人で破滅への道をたどればよい。それが真理恵の幸せのためだ。お前は、真理恵の傍にいてはならない。
誰もいないはずなのに、忍び足になっていた。自分の足跡を、誰にもたどらせまい、と思ったせいだろうか。そっと階段をあがり、真理恵の部屋の隣の、自分の部屋に入ろうとした。そして、最小限の衣類をまとめて、この家を出ようと思った。
階段を登りきって、自分の部屋に行く手前で、人の気配を感じた。凍りついた。真理恵の部屋のドアが、少しだけ開いていた。隙間から、真理恵の姿が見えた。息をのんだ。
真理恵は、姿見の鏡の前に立っていた。薄いスリップ一つを身にまとっていた。そして、首に、小さなアクアマリンのついた、ネックレスを着けていた。頬を幸福に染めて、ネックレスを着けた首を少し右に、そしてまた左に曲げたり、少し体の向きを変えたりしながら、鏡に映る自分を見つめていた。
そこには女がいた。そう、あのネックレスだ。君が、真理恵に贈ったネックレスだ。私の中で、何かが壊れた。音を立てて壊れた。私は泣いていた。真理恵と、私の間の絆が、完全に断ち切れた。真理恵は、もう真理恵ではない。女に、薄汚れた、ただの女になったのだ。
その次の瞬間から、何が起こったのか、何をしたのか、全く記憶がない。気がつけば、真理恵は私の下にいた。顔はひどく腫れあがり、腕の所々には引っかき傷が残り、そして、引き裂かれたスリップから、夢に見た裸体が露わに見えた。私の精液で汚れた太ももが見えた。私はそうして、悪魔になった。
恐ろしいことに、その日から、私の精神はある意味安定した。私はほとんど事務的に、真理恵の自由を奪い、部屋に監禁し、そしてそれが外部の人間に知られないように、あらゆるリスクを想定して手を打った。君の会社はすぐに騙されてくれたが、君を騙すのは難しかった。真理恵の首筋に包丁を突き付けながら、君への別れの手紙を書かせ、しばらく旅に出る、と書かせた。君は数回、私の家に来たけれど、私は常に居留守を使った。ひどく冷静に、このまま真理恵と破滅するのだ、と思っていた。真理恵と地獄に落ちるのだ、と。
そう、私は完全に狂っていた。私の中に生まれた悪魔は、容赦なく真理恵を痛めつけ、苛み、凌辱の限りを尽くすのに、その後突然、自分がさあっと冷めていくのが分かる。自分の罪の重さに震える。力を失った真理恵の体を抱きしめて、泣きながら謝罪の言葉をならべ、傷ついた体を癒し、清める。それでも、真理恵を自由にすることはできなかった。真理恵の体を求める欲望を、抑えることができなかった。
真理恵は必死に自分を保っていた。こんなことが長く続くはずはない。私が狂気の中で目をそむけていた現実に、真理恵は希望をつないでいた。いつか、この地獄には終わりがくる。君との普通の日々が戻ってくる時がくる。この悪魔が破滅して、自分が救われる日が来るのだ。
しかし、結局、真理恵は狂った。私の狂気の結果が、真理恵の中に宿したもののために。
もう戻れない。真理恵はそれを悟ったのだ。もう戻れない。あの頃の自分には。ここまで汚されてしまった自分には、もう戻る術はないのだと。
1週間前の夜だった。帰宅して、真理恵の部屋の鍵を開けると、むっと血の匂いが鼻についた。真理恵は床に倒れており、股間から、おびただしい血と、血の塊のような、肉の塊のようなものが流れ落ちていた。
真理恵は命を取り留めた。救急車を呼ぶこともできず、それでも必死に真理恵の介抱をしていた私の頭は、恐ろしいほど澄み切っていた。真理恵の流した血が、私の狂気を洗い流したように。私は自分の罪を、自分の壊したものの大きさを、そしてそれを償う方法を、一瞬で理解した。やはり私は、もっと前に、自分一人で破滅するべきだったのだ、と。
そして私の代わりに、今度は真理恵が狂気に落ちた。自分が失ったものの大きさと、自分が踏みにじった命への罪の意識に。
真理恵が歌う声が聞こえる。私はこのメールの送信ボタンを押したら、家の庭に出て、車から抜き取ったガソリンを体にかぶり、火をつける。焼身自殺というのは、数ある自殺の中でも最も苦痛が大きいものなのだそうだ。私の中の悪魔を清め、私の罪を購うには、もっともふさわしい死だ。
真理恵には、君がくれたアクアマリンのネックレスをしてあげた。あの子は、本当に天使のように喜んでいた。狂ったあの子の瞳は、どこまでも澄み切っていて、見ているだけで心が洗われるようだ。だから私は、あの子と目を合わせることができない。あの子が与えてくれる救いに、値する人間ではないから。
私の中の悪魔が、炎の中で全て消え去りますように。そしてただ清らかなものだけが、君の手元に残りますように。さようなら。真理恵をよろしく頼みます。

(了)

小さな空

 いたずらが過ぎて
 叱られて泣いた
 子供の頃を思い出した
 〜武満徹 作詞作曲「小さな空」より〜

 
 ごめんなさい、まだやってる?チラシの挟み込み。
 ちょっとね、さっきの親子が気になって。なんか、いないのよ。一度入ってきたのにね。

 そうか、お昼時だからね。外でお昼食べてるかしらね。
 お客様が一人でも多いとね。やっぱり歌いがいが違うから。戻ってきてくれるといいわねぇ。

 紙がうまくめくれないって?そうね、手のひらが乾燥するわよね。
 東京とは大分感じが違うでしょう。こっちは大分乾燥してるからねぇ。
 時差ボケはもう治りましたか?そう、若い人はね。宵っ張りが多いから。それだけじゃなくて、適応力もあるんだと思いますよ。いいわねぇ。

 先生は変わってなかったですか?こちらにいらっしゃってからもう14年たつからねぇ。この合唱団も10年ですよ。びっくりしちゃうよね。あっという間だったなぁ。

 すごいイベントですよね。日本側でも、事前の準備は大変だったでしょう。日本からの旅費とかもねぇ。マンハッタンの教会で、オーケストラ伴奏で「水のいのち」をやるなんてね。

 そうね、あの先生だからできたことだろうけどね。でも、皆さんみたいな方が裏方になって頑張ったからですよ。こちらでもね、合唱団を10年続けるには、やっぱり裏方が大事です。指揮者の先生がどれだけ素敵な方でもね。裏方がしっかりみんなをまとめあげないと、とても続かないですよ。

 10年間かぁ。色んな事がありましたねぇ。本当に。

 私はね、昔から歌は好きだったんです。日本にいた頃からね。夫と一緒に来てから、当たり前のように歌ってましたよ。日本から来たいい先生が、在米日本人の合唱団を作るっていうから、当たり前のように参加して、関わってみたら楽しくてね。夢中でやってるうちに、10年たっちゃったなぁ。

 大丈夫ですよ。まだ随分残ってますよね。それでも半分は挟み込んだかな。
 私はね、あんまり肌が乾燥しないんですよ。手のひらとか、わりといつもしっとりしてる。だから、こういう紙仕事には向いてるのね。

 それにね、こういう単純作業が好きなんです。昔ながらの日本人女性なのかな。繰り返しの多い単純作業ね。頭使わなくて済むでしょう。でも、やってると、だんだん慣れてきて、細かな工夫が加わってきて、単なる繰り返しじゃなくて、どんどん上手になっていくのが分かるでしょう。そういう感覚が好きなのね。

 本当はね、自分のこういう肌って、あんまり好きじゃないの。何だか、じめじめした感じがするでしょう。体の中から、何かじわじわ滲みだしているような感じがするでしょう。だから、からっとした感じのするアメリカに来たのかなぁ。私の若い頃は、アメリカってまだ憧れの国だったからね。夫が、米国本社勤務になるって聞いた時には、嬉しかったですよ。昇進だったし、かっこいいなぁって思ってね。

 でもねぇ、思うことと現実は違うですよ。やっぱり暮らすとなるとね。
 一番困ったのはねぇ、子供だわね。

 アメリカで子供が生まれた時はね、色んなことを考えましたよ。日本で育てるのとは全然違う、素晴らしい恵まれた環境で、日本とアメリカの二つの文化のいいところを一杯吸収できるってね。

 でもね、現実は大変でしたよ。二つの世界の間で、子供が引き裂かれていくのが分かるの。分かるんだけど、どうしても親は、どっちか、じゃなくて、どっちも、って思っちゃうのね。将来に向かって、選択肢は広い方が、って思うわよね。でも、自分の軸足をしっかり決めないで、ただ両方に足をかけていたら、やっぱり引き裂かれちゃうのよ。どちらかにしっかり立ってないと、どっちも中途半端になっちゃう。

 うちはね。失敗しました。

 親が中途半端だったのが悪かったんだって思いますよ。日本を選ぶのも、アメリカを選ぶのも、どっちも中途半端でね。

 息子でした。もう立派な大人です。高校卒業して、西海岸の大学に行きました。それ以来、会ってません。もう10年近いね。

 時々ね。思い出すのよ。息子が家を飛び出した時のセリフとかね。息子と大ゲンカした時に浴びせられた捨てゼリフとかね。そういうのを思い出すのはつらいです。なんだか、自分のことをぐしゃぐしゃに丸めて、どこかに投げ捨てたくなるのよね。そういう忘れたい記憶が、普通に暮らしている生活の中で、突然浮かびあがってきたりするの。道を歩いていて、空を見上げて、ああ、きれいだなぁ、って思った瞬間に、目を吊り上げたあの子の顔が急に浮かんだりね。しんどい。

 今日の演奏会でね、一番好きな歌はね、武満徹の、「小さな空」。
 先生が指導しながらね、おっしゃったの。これはね、って。
 これはね、大人の歌ですよ。清らかな響きで、きれいで純粋なメロディーで、子供みたいな清らかな心で歌おう、って思うかもしれないけど、もっと大人の歌ですよって。
 そうじゃないとあり得ないくらい、不協和音が多いんですよって。
 不協和音だから、美しい。濁っているから、美しい。
 きれいなものばっかりじゃない、汚いものも、醜いものも、全部まとめて一度に響いた時に、さあっと広がるものがある。

 大人になってから、子供の頃の、忘れたい思い出を思い出している歌なんですよって。
 きれいな空、美しい夕焼けを見ながら、なぜかつらいことを思い出すことって、大人にはあるでしょうって。
 そういう成熟した音楽を作りたいんですよって。
  
 いたずらが過ぎて
 叱られて泣いた
 子供の頃を思い出した

 
 先生がそう言った時にね。私、なんだか泣きそうになっちゃっいましたよ。

 あなた、お子さんはいらっしゃる?ああ、まだ独身でらっしゃるの。それは失礼しました。
 ああ、橘さんと?まぁ、それはそれは。いつ?来年?まぁ、楽しみねぇ。

 子供はね。いいですよ。大変だし、私みたいに失敗することもあるけど、でも、いいものです。
 自分のことを、鏡みたいに映し出してくれる。それがつらいことも一杯あるけど、それで広がる世界がある。
 ステンドグラスに映った夕焼けのように、子供の笑顔は、親の心にまっすぐ届くんです。

 息子がね。今日の演奏会に来るっていうんですよ。
 連絡なんか、全然してなかったのにね。ネットで、演奏会があるんだって、見つけてきたんだって。
 この演奏会、お母さんも出るんだろって。ぶっきらぼうにね。僕、ちょうどニューヨークに行く予定あるからって。
 今ね、あの子、日本で働いてるんですよ。不思議だねぇ。親は一生懸命、アメリカ人になろうとしたのに、子供は、一生懸命、日本人になろうとする。
 親が、時々日本を思い出すために、日本の歌を歌っているところに、日本人になろうとする子供が尋ねてくるんです。なんだか変よねぇ。

 ちらしも挟み終わりましたね。そろそろ、楽屋に集合しないと。
 ああ、なんだか緊張してきたなぁ。やっぱり、紙仕事みたいな単純作業はいいよね。こういう緊張とかも、一瞬忘れられるから。

 アメリカの空は広いですよね。ニュージャージターンパイクなんか走ってると、本当にどこまでも青空が続いていく。
 先生は言ってたよね。多分、「小さな空」の空も、とっても広いんですよ。さあっと頭上にどこまでも広がっている空。
 その空を見て、自分の心の中にある、小さな空を思い出す。そういう歌なんです。空を映し出している、自分の心の中にある鏡を覗き込んでいる、そういう歌なんですよって。

 あの子に、私の中の空を、届けようと思います。そういう気持ちで、歌おうって、思ってます。
 あの子に会ったら、一言、言わないとね。これだけは絶対、言わないと。今まで、どうしても言えなかった言葉をね。
 言えるかなぁ。言う代わりに、一生懸命歌を歌って、それだけで疲れ果てて終わっちゃうかもしれないけど。
 「ごめんなさい」って。一言。
 子供はね、親を選べないから。
 じゃ、楽屋に行ってきます。受付、お疲れ様。今日一日、よろしくお願いいたします。

(了)

100枚目の五円玉

 授業中に回ってきたメモには、サトルの名前があって、「放課後、校門に集合」とあった。タダオとミッチーのサインが入っていて、僕はメモの端に自分のサインを書いて、サトルにメモを返した。何が話題かは分かっていたけど、何が目的かは分からない。サトルはいつも、僕らの数歩先のアイデアを出してきて、僕らの度肝を抜く。その日もそうだった。
 「お百度参りをしないか」サトルが言った。
 「おひゃくど?」ミッチーが、コンビニで買った丸いガムを口に放り込んで言った。「なんだそれ?」
 「アンドウのためにさ」サトルが言った。
 僕ら3人は黙った。それが話題になるのは分かっていたけど、お百度参り、というのが何で、アンドウとそれがどうつながるのか、3人ともさっぱり分からなかった。サトルは3人が分かっていないことを、自分だけが分かっている、という事実をしっかり自分で確かめて、しっかり3人にも確かめさせてから、口を開いた。「お百度参りっていうのは、要するに御祈りだよ。神社の境内にある百度石から、神社の本殿まで行って、御祈りをして、また百度石に戻る。それを100回繰り返す。」
 「アンドウのためにやるのか?」タダオが言った。サトルがうなずく。「でもそれで何になる?」タダオが重ねて言った。
 「じゃあ、他に何ができる?」サトルが聞き返した。
 僕ら3人はまた黙った。サトルの言うとおりだ。僕らには何もできない。
 アンドウは、僕らのクラスで、一番ちっこくて、一番弱くて、でも一番しっかりものの女の子だ。いつもうるさく騒いでばかりのシノミヤとかヤスダとかと違って、いつも自分の席に座ったまま、じっとニコニコみんなを眺めている。だけどみんな、決してアンドウをシカトしたりしない。おしゃべりが本気の言いあいになって、右か左かどっちかに決めないといけない時には、誰ともなしに誰かが言う。「ねぇ、アンドウはどう思う?」そうするとアンドウは、ニコニコ笑顔を崩さないまま、「えー、そうだなー」と考え込む。そして、静かに自分の考えを言う。その考えに反論できる奴は、クラスには一人もいない。考え抜かれた、誰もが納得できる道筋を、アンドウは必ず示してくれる。
 みんな、アンドウを、ちっこいけど、弱いけど、でも頼りになる女の子、として見ていた。そのアンドウを、女として、いいよな、と言いだしたのは、サトルだ。
 「アンドウって、いいよな」と、サトルは言った。その時、僕の中で心臓が跳ね上がったのを、僕ははっきり覚えている。後で聞けば、タダオもミッチーも、同じだったらしい。僕は、自分は違う、と言いたかったけど、他の3人と比べて、自分のどこが違うか、はっきり主張することができなかった。僕は自分でも覚えていないくらい低学年の頃から、アンドウをはっきり、女として意識していた。体育の時間、体の弱いアンドウは見学していることが多い。見学して休んでいるはずなのに、アンドウは、ドッチボールが白熱してきたりすると、大声でみんなを応援したりする。頬を真っ赤に染めて、大声を上げる口にあてたアンドウの手の甲に、サラサラの髪が幾筋か流れ落ちている、その手の白さがまぶしくて、何だかドキドキした。そんなことを考えているのは僕だけだ、と、僕は胸を張って言えるんだろうか。
 「アンドウって、いいよな」と、サトルが言った時、僕ら3人はサトルの顔を穴が開くほど見つめた。その3人の顔を順繰りに眺めて、サトルは笑いだした。「分かったよ。みんながライバルなら、抜け駆けはしないよ。」
 そんな会話をしてから、数か月後に、アンドウは入院した。小さい頃から持っていた持病を、しっかり治すための入院だ、と先生は説明してくれた。僕らは誰も、それ以上のことは聞いていなかった。サトル以外は。
 「職員室で、偶然聞いたんだ」サトルは言った。「今日、手術らしい」
 「手術するのか?」ミッチーが言った。声が震えた。「それって、大丈夫なのか?」
 「先生たちの会話によると」と、サトルは言った。「かなりの大手術らしい。」
 サトルが聞いているのに気づいたヤスコ先生は、慌てて言ったそうだ。確かに大きな手術だけどね、大丈夫よ、きっと。
 そのヤスコ先生の「きっと」に、ヤスコ先生自身が、まるで自信を持っていないのが分かった、とサトルは言った。サトルはいつも、人の言葉の裏にある真実を読みとる。僕らには見えないものを見て、僕らの知らないものを僕らに教えてくれる。アンドウが光を照らし、サトルが、そこに見えるものが何かを教えてくれる。そう。僕には分かってる。アンドウには、サトルがお似合いだ。ミッチーも。タダオも、それが分かっている。ひょっとしたら、抜け駆けしない、なんて言いながら、サトル自身もそう思っているかもしれない。
 「お百度参りって」と、タダオが言った。「どこでやるんだ?」
 「布田天神でやろう」と、サトルが言った。「学校から一番近いし、大きいし。」
 「大きいってことは、百度石からの距離も長いんじゃないのか?」ミッチーが、ガムをくちゃくちゃやりながら不安げに言った。
 「4人で分担してやろう」サトルが言った。「それなら大した距離じゃない。」
 「お賽銭はどうするんだ?」と、タダオが言った。タダオはいつもこうだ。サトルが何かやろう、と言いだすと、色んな障害や問題を見つける。自分がそれに気付いたことに得意になってひけらかす。でも、自分で解決策を見つけることはしない。それはサトルの役目だ、と思っている。
 「用意してある」と、サトルは言った。「500円玉を、100枚の五円玉に換えた。」
 「そりゃすげえ」と、3人が声を合わせた。「どこで両替したんだ?」
 「近所のコンビニ」と、サトルが言った。「友達の病気が治るように、お百度参りをしたいんですって言ったら、おばちゃんが泣きながら両替してくれたよ。」
 嘘は言ってない。でも、泣きながら両替してくれそうなおばちゃんのいるコンビニを、抜け目なく探しているサトルが目に浮かんだ。
 「日が暮れるまでに済ませよう」と、布田天神の鳥居をくぐって、サトルが言った。「塾の時間とかを考えると、それがギリギリだろ?」
 サトルらしい現実的な判断だったけど、あとから起こったことを考えると、ずいぶんのんびりしたコメントだったと思う。僕らはまだ、自分たちがやろうとしていることが、どれほど大変なことか、よく分かっていなかった。アンドウの手術、ということの持つ意味を、本当に分かっていなかった。
 「で、どうするんだ?」と、境内を見渡して、どこから出してきたのか分からない飴玉を口に放り込んで、ミッチーが言った。「お百度石ってのがあるはずなんだけど、分からないな」とサトルが言った。
 「巫女さんに聞くか?」タダオが言った。
 「気持ちが神様に伝わればいいんだ」サトルが言った。「この木の切り株をお百度石、ということにしよう。ここがスタート地点。」
 「で、本殿まで百回往復するんだな」と、僕は言った。
 「いや」とサトルが言った。「本殿だけじゃない。裏手にある、末社の方も回るんだ。一通り、全ての末社で御祈りをして、本殿でお賽銭を上げて、戻ってくる。そう決めよう。」
 これで、僕らのお百度参りのルールが決まった。4人で分担するわけだから、一人25回。楽勝だと思った。実際、第一走者のサトルが小走りに末社の方に駆けだしてから、ご神木の切り株の所に戻ってくるまで、1分ほどしかかからなかった。1分×100回で、100分。1時間40分。楽勝だ。
 第二走者がタダオ。境内に横たわっている牛の銅像の頭をぽん、と叩いて、タダオが末社の方に向かって駆けていく。ふざけてスキップを踏んだりしている後姿に、サトルが、「真剣に祈れよ!」と叫んだ。そうだ。これはゲームじゃない。アンドウのために、僕らができる、精いっぱいのこと。アンドウのちっこい体が、メスに切り開かれる。ぶるっと体が震えた。ひょっとして。
 ひょっとして、アンドウの病気って、ものすごく重い病気なんじゃないだろうか。大手術で、アンドウは元気になるんだろうか。死、という単語が頭に浮かんだ時、この前TVで見た、戦争のドラマを思い浮かべた。燃える街の中を逃げまどう人々が、次々に死んでいくシーンを思い浮かべた。そこに、アンドウの姿を重ねてみた。全然現実感がない。アンドウが死ぬわけがない。だって、僕らはまだ10歳なのに。
 第三走者のミッチーは、ちょっと息を切らして戻ってきた。「意外としんどいな」とミッチーは言った。「楽勝じゃん」とタダオが笑った。次は僕だ。まず末社から。
 小さなお社の前で、これも小さな鈴を鳴らして、頭を下げて、手をたたく。そこで初めて、御祈りの言葉を考えていなかったことに気がついた。何て言えばいい?他の三人は何て言ったのかな。迷っている時間はない。適当に、アンドウをよろしくお願いします、と呟いて、次のお社に向かう。何をよろしくか、よくわからない御祈りだったな、と反省して、今度はちゃんと、アンドウの手術が成功しますように、とお祈りした。末社はみんなで五つ。そして、本殿へ。
 楽勝、と思ったけど、ミッチーが言う、意外ときつい、というのも分かる気がした。本殿のお賽銭箱に向かう短い階段を上がる時に、少し足に負担がかかる。これを25回やるのは確かにしんどいかもしれない。でも、と思った。でも、アンドウはきっと、もっと大変なことに耐えている。
 境内の中を行きかう人たちは、僕らのことは気にもとめずに、すたすたと自分の道を行く。子供が神社の境内で、何かのゲームをしている、としか思っていないんだろう。変に注目されると気が散るから、かえってありがたい。僕らは黙々と、同じコースを小走りにたどり続けた。石畳の参道をたどり、小さな鈴をならし、お辞儀をし、隣の末社に移動し、同じことを繰り返し、手に握りしめた五円玉をお賽銭箱に投げいれて、お辞儀をして、戻ってくる。ひとつ前のミッチーが、五円玉が一杯入ったコンビニ袋を渡してくれる。一枚取り出して、握りしめる。五円玉はすぐ、汗にじっとり濡れる。
 異変に最初に気付いたのは、タダオだった。「なんか、おかしい」と、首を傾げた。「なんだよ」と僕が言った。そろそろ息を切らし始めたミッチーが、末社に向かって駆けだしていく。
 「末社が遠くなった気がしたんだ」タダオが言った。
 「遠いって?」サトルが言った。
 「末社のお稲荷さんの前のキツネから、お稲荷さんの社まで」タダオが言った。そこで、ミッチーが戻ってきた。かなり息が切れている。「なんか、今までで一番しんどかったなぁ」と大きな声で言う。僕は駆けだす。まず、末社の端から。
 一つ末社をクリアして、隣のお稲荷さんに向かう。向かい合うキツネの石像の間を抜けて、小さなお社まで。数歩で行ける。全然遠くなんかない。タダオのやつ、何を言ってるんだろう。
 末社を抜けて、本殿に向かおうと振り返って、おや、と思った。牛の銅像の背中が目の前にある。本殿に向かう通り道をふさぐように、銅像が横たわっている。こんな場所にあったっけ。銅像の脇を通り抜けると、本殿の裏手に出た。
 おかしい。そんなはずはない。本殿の正面に戻って、牛の銅像をもう一度見る。本殿を見る。さっきと場所が違う。牛の像と本殿の間隔は、10メートルはゆうにある。でも、さっき、確かに牛の像が、僕の前にたちふさがった。
 ぞっとした。本殿の階段をお賽銭箱まで行って、戻ってくると、ミッチーが、ガムをくちゃくちゃやりながら、コンビニ袋を渡してくれた。僕は黙っていた。タダオも、黙っていた。僕が行っていた間、タダオとサトルがどんな話をしたか、聞きたかった。でも、タダオは黙っていた。ミッチーは、ガムをくちゃくちゃやっていた。
 「サトル、遅いな」タダオが言った。
 僕らは振り返った。サトルは、本殿のお賽銭箱の前にいる。何かやっているが、よく分からない。やがて、ちゃりん、と音がした。柏手の音。そして、サトルが駆け戻ってきた。顔に血の気がない。
 「おかしい」走りだそうとするタダオを制して、サトルが言った。
 「何かあったか?」僕は言った。
 「鈴を鳴らそうとしたんだ」サトルが言った。「でも鳴らせないんだ。普通に目の前に垂れている綱をつかもうとしても、全然つかめないんだ。理由が分からないけど、つかめないんだ。」
 僕らは顔を見合わせた。僕はおずおず言った。「俺も、おかしなことになった。」そして、牛の像の話をした。
 「何かが、俺たちの邪魔をしている」サトルが言った。
 「気のせいじゃないの?」ミッチーが言った。「俺の時は何も起こらなかったぞ。」
 「じゃあ、お前行ってみろよ」タダオが言った。
 「でも、お前の番だろ?」ミッチーが言った。
 「ミッチーなら何も起こらないっていうなら、ミッチーに行ってもらった方がいい」サトルが言った。
 ミッチーは口をとがらせて、駆けだして行った。
 「どういうことだろう?」僕はサトルに言った。
 「分からない」サトルは言った。「ただの勘違いかも」
 「三人して、同時に勘違いするのか?」タダオが言った。
 「ミッチーはどうしてる?」サトルが言った。
 僕らは振り返った。ミッチーは、階段の下に座り込んでいた。泣きそうな顔で、僕らの方を見て、よろよろと立ちあがった。「どうした?」と、タダオが言った。
 「階段が続くんだ」ミッチーは、倒れこむように僕らの間に座り込んだ。「上がっても上がっても、気がついたら、一番下にいるんだ。上がれないんだ。目をつむって、這って上がったら、やっと上れた。」ぜいぜいと息を切らしながら、ミッチーは言った。
 「何が起こってる?」タダオが言った。
 「まだ42回だ」サトルが言った。「あと58回」
 「神様が怒ってるんだ」ミッチーが言った。「神様か何か分からないけど、何かが邪魔してる。何かが怒ってる。やめろって言ってるんだ。」 
 「ということは」僕は言った。「アンドウはどうなる?」
 僕らは顔を見合わせた。
 「ひょっとして」サトルが低い声で言った。「願ってはいけないことを願っているのか?」
 「だからやめようって言ってるんだ」ミッチーが泣き声で言った。
 「待て」僕は言った。頭の芯が、すうっと冷えていくような気がした。「僕らがやめたら、アンドウは死ぬ。」
 「そうか」しばらくの沈黙の後、サトルが言った。「何かが、アンドウをあの世に連れて行こうとしている。そいつが僕らを邪魔している。邪魔しなきゃいけない理由がある。」
 「どういうことだよ」タダオが言った。
 「分からないか?」サトルが言った。「やつらは僕らを邪魔しなければならない。僕らが成功したら、やつらの目的が達成できないからだ。僕らがこのお百度参りを終わらせることができれば、アンドウは助かる。やつらはアンドウを連れていくことができない。だから邪魔している。」
 「僕らがやめたら」僕は言った。ゆっくりと、さっきの言葉を繰り返した。「アンドウは死ぬ。」
 頭の中が冴え冴えと澄み切ってくるのが分かる。こんなに冷静になったことはない気がした。自分たちがやらなければならないことが、こんなにはっきり見えた瞬間はなかった。
 タダオが立ち上がった。手のひらの五百円玉を見つめて、握りなおした。「俺の番だったな」そして、駆けだした。
 境内の中の空気が重くなっている。気がつけば、境内には人影がない。帰宅ラッシュで、境内を通り道にしている会社員の姿が絶えない時間帯なのに、僕ら以外の人影が見えない。ねっとりした空気の中で、タダオがゆっくり駆けていくのが見える。きっと精いっぱい早く走っているのに、恐ろしくゆっくり見える。
 「祈るんだ」サトルが叫ぶ。「スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま、僕らの祈りをお聞き届けください。アンドウを助けてください。手術を成功させてください。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま」
 タダオが戻ってくる。何が起こったのかは聞かずに、僕は駆けだした。手のひらの五円玉が熱く火照っている。スクナヒコナノカミさま、と口の中で呟く。末社の周りの空気が重い。かき分けるようにして進む。空気が重いだけで、今度は異変はない。末社から振り返っても、牛の像はそのまま左手にある。本殿に向かう。階段は4段。しっかり踏みしめる。大丈夫。顔を上げて、茫然とする。
 本殿がどんどん大きくなる。違う。僕がどんどん小さくなっているんだ。お賽銭箱がずんずん大きくなり、家のように、ビルのように、僕の前にのしかかってくる。僕自身がアリみたいに小さくなる。何か大きなものが、僕の上に影を落とす。誰かの巨大な靴の底が、僕を踏みつぶそうと天から落ちてくる・・・
 祈れ、祈るんだ。サトルの声がする。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。
 目をつぶって唱えて、目を開けると、本殿は何事もなかったようにそこにある。激しく高鳴る心臓を押さえて、鈴を鳴らし、お賽銭を投げいれる。
 「祈ればいいんだ」僕は駆け戻ってきて言った。「神様の名前を唱えれば、異変は消える。やつらも邪魔はできなくなる。」
 スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。なんども唱えながら、僕らは走り続けた。空気はどんどん重くなり、一歩一歩進める足は重りのようでも、僕らは歯を食いしばって前に進んだ。ひたひたと、僕らの傍に死神の足音がした。アンドウを連れて行こうとする奴の足音が聞こえた。
 「75回」サトルが言った。「あと少し」
 どーん、と音がしたような気がして、僕の足は動かなくなった。空気はすでに実体のある塊と化していた。黒いねばねばした塊が、アメーバーのように足に絡みついた。スクナヒコナノカミさま。叫ぶように神様の名前を言っても、足の重さは変わらない。振り返れば、粘着質の空気が、境内を超えて布田天神の参道を埋め尽くしているのが見える。黒いタールの海のように波打っているのが見える。そして鳥居の向こう、明るく輝いているはずの繁華街の方角に、闇が見えた。
 「アンドウ」と、サトルが囁くように言った。
 「だからやめようって言ったんだ」ミッチーは泣き出していた。
 闇の中に、白い小さな影が見えた。こっちに向かって歩いてくる。黒いタールの空気の海に向かって、ゆっくりと歩いてくる。アンドウだ。真っ白い服、真っ白い血の気のない顔。表情もなく、光もない瞳に、真黒い波打つ空気が映る。空気の波の一つ一つが、うねうねと何かの形になっていく。何か得体のしれないもの、しかし確かに意志あるものの形になって、うねうねとうごめき、アンドウを迎え入れようとする。
 「いけ、ヒカル」と、サトルが叫ぶ。「あと25回」僕は駆けだす。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。
 アンドウの顔を夕日が照らす。絡みつく空気をかき分けるようにして前に進み、神様の名前を絶え間なく叫びながら、僕は同じルートをたどる。空気ははっきりとした邪悪な意思をもって、僕の足取りを遮ろうとする。アンドウの周りを照らしている夕日の色が、次第にあせていく。それに従って、アンドウの周りの黒い者たちの輪が、次第に狭まっていくのが分かる。
 「あと5回」サトルが叫ぶ。「もうすぐだ。日没までに終わらせないと」
 足を地面からひきはがすのがつらい。その足をまた、地面に下ろすのがつらい。体を前に進めるのがつらい。息をするのがつらい。タダオが這うようにして戻ってくる。ミッチーが泣きながら進んでいく。戦車のようにじりじりと進んでいく。
 「おかしい」サトルが言う。
 「どうした」一つの言葉を発するのもつらい。アンドウの周りを闇が包んでいく。
 「五円玉がない」サトルが言う。
 「じゃあこれで終わりってことか?」タダオが言う。「ミッチー、がんばれ、お前で最後だ」しわがれ声で叫ぶ。
 「違う、そんなはずない」サトルが叫ぶ。「4人で100回回るんだ。4で割り切れるはずだ。終わりはヒカルのはずだ。五円玉の数が間違っていたんだ。1枚足りないんだ」
 「五円玉もってないのか?」タダオが叫ぶ。
 「僕は持ってない。ヒカルは?」サトルが聞く。僕は首をふる。膝ががくがくする。五円玉じゃないとだめだ。同じことを100回繰り返す、だから意味がある。だから願いはかなう。途中でルールは変えられない。
 ミッチーが、息も絶え絶えになって階段を下りてくる。僕らは駆け寄る。3人でミッチーの体を支える。「五円玉持ってないか」サトルが泣き声で言う。あの冷静なサトルが泣いている。ミッチーは首を横に振る。駄目だ、タダオが叫ぶ。コンビニのおばちゃん、数え間違えやがって、ばかやろう。
 夕闇が降りてくる。アンドウが両手を天に伸ばしているのが見える。生きたい、という意思のように、死にたくない、という叫びのように、天に向かって。その指先に、夕日のかけらが引っ掛かっている。アンドウの足元から、黒い闇が這いあがってくるのが見える。
 「駄目だ」僕は叫ぶ。「行っちゃだめだ、アンドウ、行っちゃだめだ」
 僕は末社に向かって走り出す。五円玉はない。でもとにかく走り出す。一つ目のお社。アンドウを助けてください。叫びながら走る。アンドウを行かせないでください。死なせないでください。あいつを助けてやってください。クラスのみんながわいわい騒いでいる傍で、ひっそり微笑んでいるアンドウ。ちっこいのに、大きな上級生が下級生をいじめているのを体を張って止めたアンドウ。僕はずっと小さい頃から、アンドウのことをずっと見てきたんだ。アンドウのことがずっと好きだったんだ。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。畜生、俺の好きなアンドウを、あいつらの手に渡すな。
 ちゃりん、と音がする。気がつくと、稲荷神社の傍らで、狐の像が首を振っている。首を振って、あっち、あっち、と指しているように見える。指している方向を見ると、牛の像が、境内の石畳の上に鼻をこすりつけているのが見える。その鼻のすぐ先に、何かが光っている。そこだけ、タールの黒い空気がない。
 近付くと、金色に光る五円玉が見える。飛びつくように拾い上げて、本堂への階段を駆け上がった。「行け、ヒカル!」サトルの叫び声がした。ミッチーも叫んでいた。タダオも叫んでいた。階段をかけあがり、お賽銭箱の前に立つ。五円玉を投げ入れる。スクナヒコナノカミさま。鈴を鳴らして、二回おじぎ。後ろで夕闇がさらさらと降りてくる音がする。落ち着け。同じことを100回、きちんと繰り返さないと、お百度参りは完成しない。二回拍手。そして、手を合わせて、しっかり祈る。スガワラノミチザネコウさま、アンドウを助けてください。手術を成功させてください。振り返って、駆けだす。切り株が遠い。三人がこっちに手を伸ばしてくる。サトルが手を伸ばしてくる。その手に、その指に、精いっぱい伸ばした僕の指が、触れた。
 どーん、と音がした気がした。勢いあまって、僕はサトルの胸に向かって頭から突っ込んだ。一緒に吹っ飛んだサトルと僕を、タダオとミッチーが受け止めた。僕ら四人は団子のようになって、切り株の脇に倒れこんだ。脇をせかせか歩いているサラリーマン風のおじさんが、くすくす笑いながら振り返って、そのまま歩いて行った。
 気がつくと、境内はすっかり夜で、街灯の灯りと駅前の繁華街の光の中を、たくさんの人影が行きかっているのが見える。僕ら四人は立ち上がる。汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を見合わせる。しばらく、口もきけずに見つめあっている。そして、誰ともなく、にやっと微笑み合う。
 「アンドウにさ」ミッチーが言う。「オレ、コクったことあるんだ」
 「はあ?」3人同時に声を上げる。
 「抜け駆けしてたのか」サトルが言う。
 「悪い」ミッチーは肩をすくめる。「でもさ。その時、アンドウが言ったんだ。私のこと、ずっと見てくれている人がいるのって。低学年の頃からずっと、私のこと見てくれてて、そっと守ってくれている人がいるんだって。その人が見てると思うと、私、強くなれる気がするんだって。」そうして、僕を見つめる。タダオが笑いながら、僕の脇をつつく。サトルが微笑む。あの冷静なサトルの頬に、涙の跡が残っている。そのほほに、深いえくぼを浮かべて、サトルが言う。
「結局、ヒカルがいつも、アンドウを守ってたんだな」
 そんなことない、と言おうとして、僕は耳たぶが真っ赤に火照るのを感じている。

(了)

遥かな友に

 お休み、安らかに。たどれ、夢路。
 お休み、楽しく。今宵もまた。
〜磯部俶 作詞作曲「遥かな友に」より〜

 
 
 あれ、やっぱり違いますか?おかしいなぁ。
 もう一度、ピアノで弾いてもらえます?すみません。
 
 ・・・そうですね。違うみたいですね。
 いや、よく分からんのです。はぁ。テノールの音でもないですか。テノールとバスの中間の音ですか。よくそんな器用なまねができるもんですね。我ながら不思議ですね。なんでそんなに全然違う音が出せるんでしょう。
 いや、はっきり言ってくださって結構なんですよ。確かに、私は音痴なんです。なんで音痴のくせに合唱団に入っちゃったんでしょうなぁ。しかも演奏会のステージに乗るなんて、ほんとにおこがましいというかなんというか。
 いや、なぐさめて下さらんでもいいんですよ。実際、メインステージの「水のいのち」なんか、私は未だに何が何だかわからんのです。オーケストラまでガンガン鳴るでしょう。一つ一つの音も難しいでしょう。色んな音が鳴って、自分が何を歌ってるのか、何がなんだかわからんうちに、気がついたら終わってるんです。困ったもんです。いや、困っているのは私じゃなくて、私の調子っぱずれな声を聞かされている皆さんの方ですな。分かってます。分かってます。はい。
 いや、だから、「水のいのち」はほとんど歌ってないですよ。迷惑かけちゃいかんですから。いや、舞台には立ってます。並んで、口あけてます。でもほとんど歌ってません。橘さんの声を聞いてるだけです。合わせて歌う、なんてこともできませんからね。合わせて歌おうとしても、違う音が出るわけだし。でも合唱団なんだし、混声合唱団なんだから、舞台上に男が立ってた方がいいでしょう?まぁ舞台の上の大道具みたいなもんですわ。いや、本当に。
 
 もう一度、ここ、弾いてもらえますかね。
 
 ははぁ、下がりきらない。まだ高いですか。そうかなぁ。いや、そうなんですよね。ちゃんと歌ってるつもりなんだけど。難しいもんですねぇ。
 いや、橘さんのせいじゃないです。橘さんはよくやってらっしゃいます。いい声だし、私みたいな者の音とりにも付き合ってくださってねぇ。本番当日までこんな状態で、本当、すみません。
 
 今、どこ弾かれました?どこからどこ歌いましたかね?アウフタクト?ああ、この小節の前ね。はぁ。小節の前の拍のことを、アウフタクトっていうんですか。ほほう。
 
 今の合ってます?はぁ、ほぼ合ってますか。その、「ほぼ」っていうのが、「ぴったり」になるまでが遠いんだなぁ。月と火星くらい遠いなぁ。
 
 はぁ。もっとはっきり喋るんですか。「お休み、安らかに、たどれ、夢路」・・・なるほどねぇ、yの子音をはっきり言うといいんですね。橘さん、歌ってみてくださいよ。
 
 あぁ、やっぱりいいですねぇ。橘さん、いい声ですねぇ。上手だなぁ。
 
 いや、そうですね。私がちゃんと、歌えないといけないんですよね。はい。
 
 でもねぇ、ヤ行の発音をはっきりって言われてもねぇ。私ね、50歳くらいの頃に自動車事故でね。顔面フロントガラスにぶつけて血まみれになってね。その時、唇の周りの神経をかなり切っちゃったんですわ。だからね、普段から、ぼそぼそ喋るでしょう。歌を歌うには向かんのですよねぇ。こう発音不明瞭だと。
 
 声はいいんですか?本当ですか?お世辞じゃなくって?そうかなぁ。でも、声がでかくて、音が外れてたら、迷惑の二乗ですよね。そりゃまぁ、正しい音が出せりゃいいですけど。いや、あきらめちゃいないですよ。はい。だからこうやって、最後の悪あがきをしているわけで。
 
 そろそろ本番ですねぇ。緊張してきたなぁ。どうしようかなぁ。やっぱり、この曲でも、大道具に徹しようかなぁ。
 
 そうですね、あきらめちゃだめですね。でも、人間、あきらめが肝心、という言葉もあるしね。どうしようかなぁ。もう一回弾いてもらえます?
 
 うーん、大体合ってますか。大体ね。さっきの「ほぼ」と、今度の「大体」の間の距離はどのくらいですかね。「ほぼ」と、「ぴったり」の差が、月と火星だとしたら?「大体」と「ほぼ」が?月と地球?じゃぁ、「ぴったり」までの距離はあんまり変わらないですかね。変わらないですか。うーん。もう一回弾いてくださいな。
 
 まぁ、無茶な話だったんですわ。70過ぎて、合唱団に入るなんてねぇ。ほら、この前、橘さんが、腹筋ってのはこう使うんだ、って言って、見せてくれたでしょう。あれはびっくりしたねぇ。人間のおなかがあんなにペコペコ動くなんてねぇ。私には絶対無理だねぇ。この腹ですからね。こんな太鼓腹、でかすぎてあんなに動かせるわけないですよ。
 
 ああ、またやる前からあきらめてるね。どうもね、年を取ると、できないことの言い訳が多くていけませんね。というかね。アメリカ人ってのはそうなのよ。できなかったのは自分の責任ではない。なぜならば、っていう理由を並べるのが本当に得意だね。自分のせいじゃなくて、環境のせいだ、他人の協力を得られなかったせいだ、あいつが邪魔をしたせいだ。とにかく、自分のせいじゃない、俺は悪くないっていうのをずっと並べ立ててるからね。あの口の達者なのには閉口だね。
 
 って言いながら、私も言い訳ばっかりしてますなぁ。アメリカ生活が長いですからねぇ。これも言い訳の言い訳ですねぇ。でもねぇ、音痴ってのは生まれつきなんでしょ?これも言い訳かなぁ。いつまでたっても言い訳ばっかりしてますねぇ。
 
 うーん、なんで合唱団なんか入っちゃったんだろう。いや、そこだけは言い訳が効かないねぇ。ははは。自分で選んで、この合唱団に入ってきたんだからねぇ。
 
 そう。去年の演奏会でしたよ。別にね、合唱なんかに興味はなかったんだがね。家内の友達が出るって言うからさ。まぁ暇だから、家内に引っ張られてきたようなもんでしたよ。でもねぇ、先生が舞台で振り返ってね。客席みんなで歌ったでしょう。この歌を。「遥かな友に」を。
 
 あれで思ったんですよ。思ったっていうか、感じた、というか。何かね、雷に打たれたっていうと大げさだけどね。「この歌を歌いたい」って思ったんだ。私も一緒に、あの先生の指揮で、この「遥かな友に」を歌いたいって。だからねぇ、選曲会議にも出たよ。合唱曲なんか一曲も知らないんだけどさ。とにかく、この歌をもう一度歌いましょうって。そればっかり言い続けた。橘さんなんか、迷惑そうな顔してたよねぇ。いや、分かりますよ。橘さん、思ってることがすぐ顔に出るから。今も迷惑そうな顔してますよ。いや、迷惑かけてるのは事実だからねぇ。付き合わせちゃって本当、申し訳ないですねぇ。
 
 はぁ、なんでそう思っちゃったのかなぁ。
 
 先生がね、いい笑顔だったですよ。もともと先生って、丸顔の福々しい顔だけどさ。普段の練習の時の不機嫌そうな顔と、去年の演奏会の舞台での顔は全然別人だよねぇ。なんだろうね。本番になると、なんだか先生の指先から、魔法の粉みたいなのがぷわぁっと噴き出しているような気がしたよ。ほんとに。
 
 そうねぇ。でもね、橘さんには話そうかな。もう一つの、もっと大事な理由をね。
 
 歌が好きな友達がいたですよ。ええ、アメリカ人のね。私の近所の教会の聖歌隊に入っててね。いい声だった。しょっちゅう言ってましたよ。マサル、歌はいいよ。気持ちいいよって。僕はね、音痴だからって、聖歌隊に入るのは断ってたんだけどね。でも、彼が歌ってる姿があんまり楽しそうで、聖歌隊の練習を見学させてもらったりしたね。自分は歌わなかったけど、みんな楽しそうでさ。
 
 いや、彼は会社員だったですよ。アマチュアの歌うたい。私よりも10歳ほど年下だったけど、近所付き合いからもっと踏み込んで、いい友達だったです。一緒にゴルフに行ったり、家族同士でバーベキューしたりね。気の合うご近所さんです。そう。意外とそういう人に巡り合うのって、難しいですよねぇ。
 
 あの日ね。朝でしたわ。いい天気のね。忘れられんよ。私はほら。リタイアした身だから。のんびり朝寝してたんだけどね。隣のね、彼の家からね、金切り声というか、悲鳴と言うか、なんとも言えない獣じみた声が聞こえたですよ。それで目が覚めた。彼の奥さんの叫び声。テレビを見ててね。思わず喉から迸ったって感じだったね。そりゃそうでしょう。自分の旦那が勤めてる会社があるビルに、飛行機が突っ込んだんだから。
 
 彼ねぇ、帰ってこなかったです。骨のひとかけらもね。奥さんはずっとあきらめきれずにいてね。DNA調査で、それこそ爪のかけらでもいいから、戻ってこないかって、ずっと当局と連絡取り合ってたけどね。帰ってこなかった。コンクリートと鉄骨と一緒に、マンハッタンの土になっちゃったですわ。
 
 橘さん、私ねぇ、去年の演奏会でこの曲聴いた時にね、ああ、彼だ、って思いましたよ。彼が、みなさんの声を借りて歌ってる。この私に向かって、歌いかけてるって。
 
 静かな夜更けにいつもいつも
 思い出すのはお前のこと
 お休み安らかに たどれ夢路
 お休み楽しく 今宵もまた

 
 彼の笑顔がね。聖歌隊で、楽しそうに歌ってた彼の笑顔がね。でっぷり肥ったおなかを揺らして、バホバホ笑いながら、いい声で歌うんだこれが。その笑顔がね。ぱあっと浮かんできてね。先生の笑顔と一緒に、私も笑いながら泣いてましたよ。それで思ったんだ。70過ぎて、これといって趣味もなく、ぼんやりこの異国の地で、静かに死んで行くんだろうなって思ったけどね、まだ、誰かに何かを届けることができるかもしれない。天国の彼が、私にこうやって歌いかけてきてくれるのなら、今度は私が歌い返してあげる番だ。この歌を、歌いたい。天国の彼に、歌いかけてあげたいってね。
 
 なんとか、この歌を歌いたいんですよ。「ほぼ」でも、「大体」でもなくて、「ぴったり」歌いたいんですよ。橘さんみたいに歌える人には、なんでもないことかもしれないけど、私には、本当に、火星に行くのと同じくらい難しいことです。でもね、それができたら、なんだか私にも、これからの残りの人生、しっかり悔いなく生きることができるような、そんな気がするんですわ。
 
 ああ、そろそろ開演ですね。ああ、ちょっと震えてきたなぁ。橘さんなんか、緊張なんかしないんだろうねぇ。
 
 そんなことないの?本当に?橘さんくらい歌える人でも、やっぱり本番は緊張するんだ。ちょっとほっとするねぇ。
 
 助けてくださいね。手伝ってくださいね。私が、この歌、ちゃんと、ぴったり歌えるように。少しでも、天国の彼に、私の声が届くように。私はね、彼にどうしても、一言、言ってやりたい言葉があるんです。その言葉が天国に届くように、手伝ってくださいねぇ。
 
 はぁ。簡単な言葉だけどねぇ。口に出すのも照れくさいような、言葉ですよ。
 「ありがとう」ってね。一言ね。
 
 さて、そろそろ舞台袖に集合ですな。参りましょうか。
では、よろしくお願いします。頑張りましょう。私も言い訳言わないで、頑張ります。
 
(了)