オリジナルオペレッタ「昭和ローマンス『扉の歌』その2  第一幕後半〜第二幕冒頭まで

黒田子爵、斉藤、店の外へ出る。
 
斉藤:(玄関先で)では、やはりあの娘が、「扉の歌」の歌い手ですな。
黒田子爵:間違いない。陸軍が動く前に、こちらで手を打たねばな。野口男爵を使おうか。
斉藤:野口男爵を?あの不良華族をですか?
黒田子爵:あれはこういう時にこそ、真価を発揮する男だよ。この時間ならばあの男、この近辺で捕まるはずだ。行きつけの店を知っておる。さ、行くぞ。
 
黒田子爵、斉藤、退場する。明子、店内に登場。
 
明子:源ちゃん、よかったね。
源一郎:え?
明子:雑誌、売れたんでしょう?
源一郎:ああ。でも本当は違うんだ。
明子:違うって?
源一郎:売れたのは売れたんだ。でも、みんなが読みたくて飛ぶように売れたってわけじゃない。
明子:どういうこと?
源一郎:買い占められたのさ。陸軍のわけの分からん連中に。
明子:それって、一体?
源一郎:オレにも分からん。検閲に引っかかった、というわけじゃない。ある日軍服の男が来て、雑誌はあるか、と聞いてくる。ありますよ、と答えたら、全部買いたい、と言ってきた。大した冊数じゃないからね、大した金額じゃないようで、あっさり即金で払ったよ。こちらも気軽に余計なことを聞く雰囲気でもないもんだから、「どんな方々が読まれます?」と、控えめに聞いてみたならば、「前線の兵士の士気高揚に」と木で竹をくくった返事だけ。こんな通好みの文芸誌、前線の兵士が読むわけはない。何か裏があるんだろうが、そこのところはよく分からん。
明子:じゃあ、源ちゃんのあの雑誌は…
源一郎:多分何かしら、軍隊に都合の悪い記事があって、全部ゴミ箱に捨てられたのさ。
明子:そんなの、そんなの…ひどいじゃない。
源一郎:ひどい話さ。でも、この金は現実だ。この金を元手にすれば、もっといい雑誌が作れるよ。
明子:源ちゃん、私…私ね。
 
忘れないでいてね いつでも私は
あなたの側にいて あなたを見つめている
あなたが見つめている あの人のことは
分かってはいるの それでも 私の心は止められない
 
源一郎:
君の視線なら 僕も気付いてる
分かってはいるさ それでも 僕の心は止められない
 
二人:
瞳を見つめて 懐かしさに震える
その思いを 分かち合えても
すれ違う思い 時のいたずらに
二人の心は まだ 重ねられない
分かってはいるさ(いるの) それでも 僕の(私の)心は
止められない

 
源一郎:君みたいないい子がいるのに、なんで真美子なんかに惚れちゃったのかな。
明子:真美子ちゃんと源ちゃんが幸せになってくれるなら、私はそれでもいいの。ただ、源ちゃんに、幸せになってほしいの。それだけなの。
 
平田たち、皇道派軍人登場。乱暴に扉を開け、店に入ってくる。
 
平田:柏崎源一郎は、いるか。
源一郎:(明子を背後にかばい)私ですが。
平田:聞きたいことがある。正直に答えたまえ。君のあの雑誌の「扉の歌」のモデルになった女性を探している。
源一郎:聞きたいことがある、ですか。人にものを聞くときは、まずその理由をいいなさい、って、ご両親に教わりませんでしたか?
平田:両親にはそう教わったがね。大日本帝国が命じるのだよ。語るべきことは語れ、語るべからざることは死んでも語るな。君はただ、私の質問に答えればいい。あの文章のモデルの女性は、どこにいる?
源一郎:ああ、あれは創作ですよ。
平田:創作だと?
源一郎:ええ。ちょいと場末で聞きつけた、わびしい田舎の出稼ぎ娘の悲しいつぶやき書き留めて、それに夜の街に踊るとある華やかな歌姫をば、俺の脳髄の中だけで、しゃかしゃか混ぜたミックスジュース、ほんとのただの、創作さ。
平田:要するところ、「扉の歌」など、この世のどこにも存在しない、と、そういうことか。
源一郎:おっしゃるとおり、ご明察。
平田:(明子に)一杯もらうことにしよう。(テーブルにすわり、仲間を呼ぶ)君たちも飲め。これが飲まずにいられるか。
 
真美子を中心にした仲間達、どやどやと戻ってくる。
 
全員:
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし

 
卓郎:よお、これは未来の日本の文壇を一身に背負って立つ才能あふるる編集者どの、又の名を今宵のスポンサーどの!そろそろお開きって姫様が言うから、戻ってきちまったよ。ほら、あんたの「扉の歌」の歌姫さまのお帰りだよ!
 
源一郎、はっとするが、もう遅い。真美子たち、平田たちに気付き、凝然とする。
 
平田:(ゆっくり立ち上がり、真美子に近づく)君が、「扉の歌」の歌姫か。
真美子:(むっとして)源ちゃんちょっと、どういうこと?ちゃんと説明してくれた?
源一郎:説明はちゃんとしたんだが・・・
卓郎:これは大変失礼を。この歌姫は「扉の歌」のモデルになった歌姫だ、それは確かにそうなんだが、あれはこの柏崎源一郎の頭の中でこしらえた、フィクション、嘘のミックスジュース。
真美子:そうさ、あんたにゃこの私が、「扉の歌」に描かれた、しがない北の国の貧乏娘のなれの果てに見えるかい?
平田:そういうお前の生い立ちは?
真美子:私の父は華族です。遠く大陸満州で、一旗挙げて戻ってきます。
平田:ほお、そしてその父上の、お名前はなんとおっしゃるか?
真美子:沢渡・・・沢渡子爵と申します。
平田:沢渡子爵とおっしゃるか。ほお。あまり聞かない名前だな。
真美子:・・・興した事業にしくじって、ずいぶん前に貧乏華族に。
平田:私の特技の一つでね。人の名前は忘れない。私の頭の中にはね、士族華族の方々の名簿が一冊入っている。この大日本帝国に、士族華族と呼ばれる方が、さほど多くはいないのを、お前さん知っているのかい?
真美子:私は・・・私は・・・
平田:証拠を見せてもらおうか。
真美子:証拠、とおっしゃる?
平田:あんたが華族の娘だと、そこまで言い張る証拠の品、家系図、写真あるいは先祖伝来の何か貴重な品物などの、いかに些細なものであろうと、何かひとつはあるだろう?
真美子:それは・・・それは・・・
平田:沢渡子爵のお嬢さん、この私の目の前に、沢渡子爵という華族の方が、確かにいたという証拠、さあ見せてもらおうか!
 
と、遠くから、鈴の音がする。しゃんしゃんしゃん、と澄んだ音。その場の全員が、耳を澄ます。
 
隆二:なんだ、あの音は?
 
野口男爵、ロシア風の帽子をかぶり、颯爽と登場。
 
野口男爵:
地平線の彼方まで ただ凍てついた大地から
はるばる花の東京に 舞い戻ってきたならば
夜を彩る華やかな ネオンサインの輝きに
乱れ舞う蝶と見まがうは アール・ヌーヴォの天使たち
 
あなたが、沢渡真美子さんだね。
 
真美子:そうです。
野口男爵:よかった。やっと見つかった。
 
妖しき夜の虹の中 舞い飛ぶ五色の蝶のうち、
ひときわ輝く歌姫は わが親友の忘れ形見
美しきその瞳の中に かの人の面影確かめん。
 
真美子:
待ってください、どういうことか
私にはさっぱり…
 
野口男爵:
あなたこそ わが親友の
沢渡子爵が臨終の
最後の息をひきとった
そのぎりぎりの間際まで
行く末いかにと胸痛め
その将来をこの我に
託した娘、その人と。
 
全員:
真美子の夢が、大陸の夢が
今こそここに、現実に!
 
真美子:
それでは私の父親は
 
野口男爵:
実においたわしいことなれど、
シベリアの風が身に合わず
はかなく土と成り果てた。
 
全員:
なんてこと!かわいそうな真美子!
 
野口男爵:
しかし案ずることはない。
沢渡子爵はこの我に
あなたの未来を託したのだ。
私は野口。野口男爵。
さぁ今すぐにわが館へと
旧友の娘をお迎えしよう!
 
全員:
なんてこと!ああなんてこと!
真美子の夢が現実に!
華族の夢が現実に!
 
源一郎:
そんな馬鹿なことがあるもんか 大陸の夢はただの夢 現実になんかなりえない!
 
真美子:
こんな馬鹿なことがあるかしら 大陸の夢はただの夢 現実になんかなりえない!
 
平田:
こいつはとんだ人違い かすかな手がかりたどってみれば お宝どころかお涙ちょうだい、大時代がかったメロドラマ!
 
野口男爵:
これからは君は何不自由なく
私の館で暮らすのだ
今まで散々苦労をかけたが
それもこれで帳消しだ。
 
真美子:
雪に埋もれた国境の
街角照らすガス灯に
夜も知らずに煌々と
笑いさざめく人の群れ
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし
 
橇の鈴音華やかに
アムール川にこだまして
地平線から近づくは
青い瞳の恋人達
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし

 
第一幕 幕 
 
第二幕(野口男爵の邸宅):
  
ぼんやりと浮かび上がる机。プロローグのそれではなく、野口男爵の邸宅の机だ。机の前の椅子に悠然と座る黒田子爵。机にもたれるように立つ野口男爵。談笑している。
 
野口男爵:あの時の平田の顔を、子爵、あなたにも見せたかったですよ。
黒田子爵:とりあえずの一の矢は、なんとかこちらが先んじた。
野口男爵:しかしあちらも一の矢で、手を緩めるような輩じゃない。
黒田子爵:次はこちらが「扉の歌」を、なんとか先に手に入れる。
野口男爵:それでは私はお役御免で、あとは子爵にお任せと、舞台を退場いたしましょうか。
黒田子爵:そういうわけにはいかないな。あの子の心を解き放ち、「扉の歌」を歌わせるには、わしは少々役不足。わしが君を選んだのは、君が女のあしらいに手馴れた色男と見込んだからさ。
野口男爵:それで子爵が「扉の歌」を、見事手に入れた暁に、あの娘は一体どうなります?
黒田子爵:そこから先は我らの領分。君は仕事をこなせばいい。あの子に心を奪われるなよ。あの子はただの美女じゃない。宝の道を開くもの。
野口男爵:それは彼女の意思じゃない。浮世の風に荒れてはいても、もとは鄙びた優しい心の、純な田舎の小娘です。
黒田子爵:一つ忘れてもらっちゃ困る。わしは君の借財を、そっくり肩代わりすると約束した、その約束は、あくまでも、君が自分の分相応に、わしが求めたこの仕事、きっちりこなすのが条件だよ。
 
じっとにらみ合う二人。暗溶。暗い中から、華やかな女中たちの笑い声が聞こえてくる。舞台が明るくなると、野口男爵の邸宅。誰もいない大広間を、忍び足でやってくる真美子。美しいドレスを着ているが、髪がぼさぼさ。上手で女中たちの笑い声がわっと起こり、真美子はぎょっとして、上手から下手まで、ドレスのすそを持ち上げて、男のようにわっせわっせと駆け抜け、下手のソファーの後ろに隠れる。後を追うように、駆け込んでくる女中たち。
 
女中達:
お嬢様 お嬢様 お嬢様
どちらに どちらに どちらに
本当に蝶のように
本当に鳥のように
本当に夢のように
軽やかな方!
髪を結いましょうね
ドレスを直しましょうね
首飾りはどれになさいますか
 
真美子:(ソファーの陰から)見つかったら大変、もう我慢できないわ!
 
女中達:
(真美子を見つけ)見つけた!
 
真美子:見つかった!(駆け出そうとし、女中に囲まれる)
 
女中達:
今度こそご観念願いますわね。
 
真美子:
お願いだからお手柔らかにお願いしますわ
髪を強くひねりあげるのはご勘弁なの
ドレスも重いし 首飾りは肩が凝るし
そんな大きなイヤリング 耳たぶがちぎれちゃう!
 
女中達
お嬢様 お嬢様 お嬢様
きれいね きれいね きれいね
本当に風のように
本当に花のように
本当に夢のように
華やかな方!
着飾って舞踏会に
エスコートは旦那様
二人ならきっと舞踏会の華に
 
真美子:舞踏会の華に…(夢見るように)

 
女中たち、真美子を残して退場。貴婦人然とした真美子が残る。野口男爵登場、そんな真美子を微笑みながら見ている。
 
野口男爵:そのドレスは気に入ったかな?
真美子:え、(どぎまぎ)ええ…こんな素敵なものを、本当に、ありがとうございます。
野口男爵:いちいち礼を言うことはない。沢渡子爵にくれぐれもと、君の行く末を託された私だ。今宵の舞踏会で君は、社交界の表舞台に躍り出るだろう。
真美子:男爵さま、一つ、一つだけ、お尋ねしたいことが…
野口男爵:何かな?
真美子:私、本当は…(口ごもる)
野口男爵:何だね?
 
真美子:
(独白)
言えないわ。それに聞けないわ。どうして私の根も葉もない嘘を
この方が本気になさっているのか
 
野口男爵:
(独白)
嘘つきと そして別の嘘つきが 見えない互いの腹を探り合って
二人の間に真実が生まれるなら…
 
真美子:
一つだけ教えてくださる?
あなたが私に与えてくれたもの
この華やかな心浮き立つ素晴らしいものは
本当に現実のものなのかどうか?
 
野口男爵:
一つだけ君に伝えたいことは
私が君に与えられるもののうち
最も華やかで心やすらぐ素晴らしいものだけを
君に与えたい、そのことだけ。
 
二人:
夢の世界で 二人踊れば
輝かしい未来が、天に輝く
それが刹那の夢の輝きでも
私たちは見る二人の新しい未来を…
 
野口男爵:
一つだけ君に尋ねたいことは
私の思いを信じてくれるかどうか
真美子:
例えはかなく輝く幻の星の光でも
 
二人:
この温もりは確かに二人のもの
 
夢の世界で 二人踊れば
輝かしい未来が、天に輝く
それが刹那の夢の輝きでも
私たちは見る二人の新しい未来を…

 
真美子:私、なんだか信じられないの。男爵のような素敵な方と、舞踏会で踊るなんて、昨日までの私にはまるで夢のようだし…
野口男爵:僕が君を見つけた。君はとてもきれいだ。夢幻だとしても、今の幸福は、僕らにとって真実だろう?
 
真美子、微笑み、挨拶すると、広間を去っていく。野口男爵、その後ろ姿を見送る。

オリジナル・オペレッタ 「昭和ローマンス『扉の歌』」その1(プロローグ〜第一幕途中まで)

登場人物:(登場順)
 
黒田子爵(黒田喜一郎): 軍部の独走を抑えようと画策する政界の黒幕
斉藤(斉藤彰浩): 黒田子爵に共感する穏健派軍人
沢渡真美子: 「扉の歌」を知る歌姫。
柏崎源一郎: 真美子の出演するカフェ「モンマルトル」の常連。売れない文芸雑誌の編集者兼経営者。
卓郎(森下卓郎): 源一郎の友人の売れない小説家。「モンマルトル」の常連の一人。
隆二(大谷隆二): 源一郎の友人の売れない画家。「モンマルトル」の常連の一人。
明子(内藤明子): 「モンマルトル」の女給。真美子の友人。
平田少佐(平田秀次郎): 皇道派軍人で、陸軍諜報部に所属する。
野口男爵(野口大樹): 不良男爵。
モンマルトルの客達・女中達・軍人達
 
 
プロローグ(黒田子爵の私邸):
 
舞台上は闇。
 
ぼんやりと、机が一つ浮かび上がる。机に座っている恰幅のいい黒田子爵。その机の前に立ち尽くしている軍服姿の斉藤。
 
黒田子爵:昭和の御世が始まって、まだ数年にしかならぬのに、今の帝都の有様ときたら、まさに乱るること麻の如しさ…
斉藤:皇道派の一部の将校は、いまや爆薬袋です。統帥権の干犯を叫びつつ、彼らがひたすら向かうのは、軍事政権の樹立と共に…
黒田子爵:それは日本の破滅の道だよ。戦線のひたすらな拡大と、伸びきった兵站を維持できぬ後方部隊、そして糸はいつかは必ず切れるもの。
斉藤:その糸をなんとかつなぐ、夢物語。それがにわかに現実味を…
黒田子爵:物部の埋蔵金とは、大きく出たものさ。(苦笑しながら、立ち上がり、机の上の雑誌を、斉藤に投げる)56ページのコラムだよ。
斉藤:(雑誌を繰り、読み上げる。その背後に、「扉の歌」のメロディーが流れる)「その娘の生活は歌にある。歌は彼女の命であり、歌は彼女の神である。」
黒田子爵:3段目の文章を読んでご覧。
斉藤:「彼女は時折口ずさむ、『扉の歌』と呼ぶ歌を。つらい浮世を生きるうち、己の行方に迷うとき、心をこめて彼女は歌う。どこか哀しいその歌を。どこか優しいメロディーを。心をこめて歌うなら、必ず目前に扉は開き、新たな道が通じると。『扉の歌』の所以を問えば、遠く平安の時代から、蝦夷と呼ばれた東北の、荒ぶる人々の口の端に、貴き宝を封じたる、扉を開く呪文なりと、代々伝わる歌という…」子爵これは!?
黒田子爵:物部のつたえた「ひらけごま」さ。そしてお前が教えてくれた、平田が見つけたという埋蔵金の地図…
斉藤:平田はこの雑誌の記事を?
黒田子爵:まだ知らぬとは思うがな。早く先手を打たねばならん。わしは今すぐにでも、この記事を書いたという若い記者に会うつもりさ。
 
暗溶
 
序曲
 
第一幕(カフェ「モンマルトル」):

 
序曲がそのままに、幕が開くと、それは、真美子の歌うカフェ「モンマルトル」のレビューステージである。
華やかな衣装をまとった真美子が歌い、客席も合唱団も共に歌う。
 
真美子:
一夜の夢の いたずらに
胸に残るは その瞳
うつつの街をさまよえば
全てこの世は幻と
 
合唱:
時計の針に背中押されて すし詰めメトロで都会に出れば
この東京はジャングルさ。
あちらこちらで愛をささやく 恋人尻目に円本かかえ
インテリ気取って闊歩する
ロマンスよりもインテリジェンス、それが昭和の俺たちさ!
 
真美子:
あたしの熱を冷ましてよ
この胸の火を収めてよ
夢で出会ったあの人が
今宵もささやく愛の歌
目覚めてみれば胸騒ぎ
頬の火照りが冷めやらぬ
 
一夜の夢の いたずらに
胸に残るは その瞳
こころ奪われさまよえば
この世に未練もついぞなし

 
いつの間にか、黒田子爵と斉藤、場末の酒場にふさわしい服装に変装し、店のテーブルについている。やってきた女給の明子に、気前よくチップを払い、酒を注文し、真美子の歌に耳を傾ける。
 
源一郎:夢に出でしその方は、まさに真美子の王子さま。
卓郎:ならば真美子は夢の王女か。
隆二:夢の王女に乾杯!
 
源一郎:
夢の荒野にひたすら彷徨い 
現のこの世に目覚めてみれば
この世もまさしくゆめまぼろしさ
 
卓郎:
モダンガールの群れる街角
求めるものはここにはない!
 
隆二:
ではしっかりとまぶたを閉じて
夢の世界に旅立とう!
 
全員:
時計の針に背中押されて すし詰めメトロで都会に出れば
この東京はジャングルさ。
ネオンサインに輝く街角 溢れる愛に背中を向けて
インテリ気取って闊歩する
ロマンスよりもインテリジェンス、それが昭和の俺たちさ!

 
真美子:さぁ、インテリジェンスもいいけれど、お店のツケはもうきかない。
隆二:おいおい姫様、そりゃないよ!
明子:いいえ、今日は払ってもらいますからね!
卓郎:よしきた合点承知のすけ、来月になりゃこの俺の連載小説が新聞に載る、その原稿料で払ってやるさ!
源一郎:ほお、そいつは初耳だ。その奇特な新聞の名前を是非とも聞きたいね。
卓郎:一夜のゆめまぼろし新聞
隆二:そんなこったろうと思ったよ。
源一郎:一夜のゆめまぼろしか、しかしこのカネは(と、ポケットから紙幣を出す)本物だぜ!
 
全員歓声を上げる
 
卓郎:一体全体何事だ?
隆二:まさか、お前に日の目が向いたか?
源一郎:そのまさか、さ!雑誌が売れた。それも完売だ!
 
全員、驚嘆の声。
 
源一郎:やっと時代がこのオレにおいついてきたあかしの金さ。今日の払いは勿論のこと、1つき2つき、いや半年と、たまり溜まったツケの飲み代、この札びらでお釣りがくるぜ!
 
全員:
時計の針に背中押されて すし詰めメトロで都会に出れば
この東京はジャングルさ。
ネオンサインに輝く街角 溢れる愛に背中を向けて
インテリ気取って闊歩する
ロマンスよりもインテリジェンス、それが昭和の俺たちさ!

 
隆二:日本の文壇に革新をと、新感覚にアブストラクト、あらゆる最新潮流をこれでもかとばかりつめこんだ、あのがちがちの文芸誌が、まさか完売ときたもんだ!源一郎がこの歌姫をモデルに筆を走らせた、あの「扉の歌」の文章が掲載された号だろう?
卓郎:われらが歌姫、「扉の歌」のヒロイン、真美子万歳!
真美子:ふざけた冗談お言いでないよ!私があんな貧乏臭いはかない歌姫のモデルだって!?だから源ちゃんに言ったんだ、この真美子様はおかんむりだよ!
源一郎:おお我が憧れの歌姫様、あなたの足元に跪く哀れな崇拝者の過ちを、どうか広い心を持ってお許しくださいまするよう、心よりお願いたてまつりまする。
隆二:じゃあ、あの名文「扉の歌」は?
卓郎:真美子がモデルじゃないのかい?
源一郎:ちょいと場末で聞きつけた、わびしい田舎の出稼ぎ娘の悲しいつぶやき書き留めて、それに真美子の華やかさをば、俺の脳髄の中だけで、しゃかしゃか混ぜたミックスジュース、ほんとのただの、創作さ。
真美子:甘い言葉を耳元で、「お前をモデルに一編のはかなく哀しい物語、俺の雑誌に掲載しても、構やしないか」なんてささやかれ、思わず軽くうなづいた、そのお返しがこの始末だよ。なんで私が東北のわびしい田舎のぽっと出の貧乏娘に仕立て上げられ、「扉の歌」の歌姫と冷やかされなきゃならないのさ。満州に行った父さんが私に言って聞かせた言葉、思わず忘れちまったのが、今となっては悔やまれるよ。「文士気取りの若者と、山師と株屋の男にだけは、ひっかかっちゃぁいけないよ」ってね。
 
源一郎がっくりし、全員どっと沸く。
 
卓郎:しかしながらお姫様、あんたもこんな場末のカフェの歌姫風情の分際で、我々時代のモダンボーイを袖にするとは解せないなぁ。
真美子:冗談ばっかりお言いでないよ。今じゃこんなうらぶれた今日明日知れぬ身の上だけど、昔はまさしくお姫様、私の父さんは華族だよ。
隆二:おやそいつは御見それしやした。
 
全員、笑うが、真美子がすっくと立ち、だまりこむ。
 
真美子:信じないやつはほっとくさ。私の父さんは華族なの。今じゃ確かに落ちぶれて、遠く満州の北の果て、いつかは一旗挙げようと、今日も汗水頑張ってる。明日になるか、明後日になるか、きっときっと近いうち、父さんは私を呼び寄せる。遠い北の街にある大きな大きなお屋敷に。そこで私は本当に、お姫様になって暮らすのさ。
 
雪に埋もれた国境の
街角照らすガス灯に
夜も知らずに煌々と
笑いさざめく人の群れ
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし
 
橇の鈴音華やかに
アムール川にこだまして
地平線から近づくは
青い瞳の恋人達
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし

 
卓郎:よおし、それじゃぁ河岸変えて、夜の東京で飲みなおしだ!
隆二:源ちゃん、行くぜ!
源一郎:ああ、スポンサーはオレで結構さ、でもちょいと仕事があってね。
真美子:明子ちゃん、私も出かけてくるわね。
明子:はいはい、お店は開けとくよ。
 
真美子の歌とダンスに盛り上がった客達、その余韻のままに、町へと繰り出していく。店には、源一郎と、そして片隅の暗がりに、黒田子爵と斉藤が控えている。
 
源一郎:「地平線から近づくは 青い瞳の恋人たち…」か…
黒田子爵:(呟くように)「その娘の生活は歌にある。歌は彼女の命であり、歌は彼女の神である。…」
源一郎:(気付き)それは…
黒田子爵:あの子を見ていると、この文章を思い出すよ。先日買った雑誌で読んだんだがね。
源一郎:それは、僕の文章だ。
黒田子爵:…おお、君が?それはまた、本当に?
源一郎:「扉の歌」の文章でしょう?
黒田子爵:そうそう。「つらい浮世を生きるうち、己の行方に迷うとき、心をこめて彼女は歌う。どこか哀しいその歌を。どこか優しいメロディーを。…」いやぁ、そんな歌をわしも持っていたら、この世も少しは住みよいんだがねぇ。
源一郎:扉の歌はあの子にとって、ふるさとの心の支えなんです。
黒田子爵:しかし、あの子の父親は、華族だという話だが?
源一郎:ああ、さっきの歌ですか。あれはね、全部、嘘ですよ。
黒田子爵:嘘だとな?
源一郎:あの子のふるさとは東北の、山の奥深い田舎村。近年続いた冷害で、この東京のかすかな身寄りに、身売り同然に身を寄せた、近頃よく見る田舎の娘さ。
黒田子爵:「なんで私が東北のわびしい田舎のぽっと出の貧乏娘に仕立て上げられ・・・」なんぞとさっきあの娘、君に啖呵を切っていたがな。
源一郎:それは僕の文章に、自分の故郷をまっすぐに言い当てられた狼狽さ。
黒田子爵:君はどうしてそのことを?
源一郎:一度僕がこの店で、暇にあかせて店番してた、そこにあの子の東京の身請け人の男とやらが、尋ねてきたことがあったのさ。話を聞くまでこの僕も、あの子の嘘を頭から、すっかり信じていたもんだったが。
黒田子爵:そんな田舎の小娘が何ゆえ遠い満州の豊かな暮らしを夢に見る?
源一郎:この世のうつつがあまりにもあの子にとって辛いから。あの子の両親は冷害で背負った借金返せずに、つもり積もった心労で、既にはかなくなりました。あの子の語る満州の大金持ちの父親は、こんなに辛い現実をなんとか生き抜くあの子なりの、切ない知恵の生み出した、悲しくはかない夢なのさ。
 
そして夢見るあの娘に 僕ができる全ては
夢を語るその唇 見つめ続けること
夢の大地を見つめる 遠い瞳の奥に
僕の場所がないのは 分かっているのに
 
夢は夢、けして届かず、それははかなく朝日に消える
夢は夢、知りながらも、それを心の支えに生きる
あの娘の夢を醒ますために 僕ができる全ては
ただ、あの瞳を見つめ続けること

 
黒田子爵:君は彼女に恋してる。
源一郎:ご明察の通りです。
黒田子爵:(立ちあがり)さて、そろそろ行かねばならん。(ポケットから紙幣を取り出し)これを受け取ってくれたまえ。
源一郎:一体なんのつもりです?施しを受けるいわれはないが。
黒田子爵:これは施しではないのだよ。君があの文章に織り込んだ君の真情が、一人の読者の胸の奥に、さわやかな風を届けてくれた。これは君の文章へのささやかなお礼だと思ってほしい。
源一郎:文士は文章で稼ぐもの。遠慮なく、いただいておきます。ありがとう。
 
黒田子爵、斉藤、店の外へ出る。

大地讃頌

母なる大地を 平和な大地を
大地を誉めよ、誉めよ、讃えよ
(大木惇夫 作詞 佐藤眞 作曲「大地讃頌」より)

 
 ああ、春江さん。
 来たのね。やっぱり来たのね。来ると思ってた。
 今、最終曲ですよ。もうすぐ、終演。ちゃんと間に合ったのね。本当に、よかった。
 
 手のひら、冷たいねぇ。でも、ちゃんと感じるよ。
 幽霊でも、ちゃんと、手のひらの感じがするんだね。
 幽霊って、海を越えることができないって、誰かが言ってたけど、やっぱり嘘だったんだなぁ。
 私ね、絶対あなたが来るって思ってたの。
 お葬式のお知らせが来た時も、そう信じてた。あなたは絶対、ニューヨークに来るって。
 あなたが来たいと思ったから来たのか、
 私が、来るって信じたから来たのか、
 どっちなのかしらね。
 どっちでもいいけどね、そんなこと。
 
 あなた、にこにこしてる。色んな背負ってたもの、振り棄てて、自由になった顔してる。
 私も、そういう風に、あなたに笑ってあげたらよかったね。
 佐和子さんや美奈子ちゃんに、そうやって、屈託なく笑ってあげられたらよかったね。
 二人とも、ここに来てくれてるのかしら?そうなの?
 だったら、笑って挨拶してあげないとね。
 
 ああ。「海」ですよ。
 あなたと一つだけ、意見が一致したことがあったねぇ。
 「水のいのち」は男の歌だってね。
 いつまでたっても、どこにも留まっていられない、男の歌だってね。
 だから、あなたも私も、あの人の「水のいのち」が、大好きなのに、大嫌いだった。
 
 あの人の指揮してる顔、本当に、いいよねぇ。
 私、舞台袖で、こうやって、指揮しているあの人の顔を見るのが好き。
 あなたもそうだったのよね。
 私もあなたも、あれにやられちゃったんだもんね。
 どんなにしんどいことがあっても、どんなにつらいことがあっても、あの笑顔を見たら、もう全部、忘れちゃうよねぇ。
 
 嬉しいかって?嬉しいですよ。あなたが来てくれて、本当に嬉しい。
 あなたが亡くなったって聞いた時、泣きましたよ。本当に、半年くらい、ずっと泣いてた気がする。
 色んな言葉、あなたに言いたかった言葉たちが、でも言えなかった言葉たちが、全部全部あふれ出てきて、一日中、叫ぶようにあなたに話しかけてましたよ。
 あの人もそうでした。あの人は言葉じゃなくて、音楽で。
 私たちみんな、残された者たちみんなで、あなたを知っている人たちみんなで、あなたに向かって、必死に何かを伝えていた。
 だから嬉しいですよ。こうやって、あなたがここに来てくれて。
 私たちの声が、天国に届いたんだなって。
 呼び戻されて迷惑だったかもしれないけどね。いいでしょ。どうせ長居する気もないでしょうに。
 
 終演ですよ。聞こえる?この拍手。すごいねぇ。教会の高い天井から、拍手の音が降り注いでくるみたいねぇ。
 本当に、この演奏会ができてよかった。あなたのおかげ。あなたが、あの人を支えてくれたおかげです。本当に、ありがとう。
 
 そりゃあ、私も支えましたよ。あなただけに手柄を一人占めさせる気はないですよ。
 あなただってそんなこと考えてないでしょう?
 私とあなたで支えたんです。あんな大変な人を、あんなわがままで自分勝手な人を、一人で支えるのなんか無理だもんね。
 あなたが生きてる間から、口に出さなくても分かってましたよ。あの人を、私一人で独占することなんか、無理なんだって。
 あなただって、あの人を一人占めしてるわけじゃないんだって。
 自分を慰めながら、自分に誇りも持ってましたよ。
 
 ねぇ、指揮者贈呈の花束、一緒に持って行きましょうよ。いいわよ。絶対、あの人気がつくから。二人で持って行こう。ね。
 
 ほら、あの人気がついたでしょ?コンマスの人が面喰ってたわね。おっかしい。他の人にはあなたが見えないのねぇ。あの人が、空中に向かって握手しているの見て、みんな目を白黒してたね。はははは。
 
 あの人、退場してくるわよ。あら、隠れちゃうの?ずるいなぁ。
 
 見た?あの人の顔。口から泡でも噴きそうな顔してたわよ。まさに幽霊を見た人の顔だったわね。ざまあみろよねぇ。春江さんの人生、私の人生、さんざん弄んだんだから、今日くらい、二人であの人を弄んでやりましょうよ。ははは。
 
 あの人の挨拶が終わったら、アンコールです。「大地讃頌」。あの人、ちゃんとまともに挨拶できるかしらね。幽霊と握手した直後だもんね。はははは。
 
 あの人のこと、一人占めになんかできないって、分かっててもねぇ、やっぱり、あなたが憎かったよ。そりゃあ憎いよ。
 本当にあの人が好きなのか、あなたに取られたくなくて、ただ意地を張ってるだけなのか、なんだか分からなくなったことだってあるよ。
 あなたが佐和子さんを産んだ時には、何度も、あなたたち親子を殺そうと思った。何度も、何度も。
 女としても、舞台を作る同志としても、結局私は、あなたにかなわなかった。あの人と同じ場所に立つことができなかった。それが悔しくて、あなたが憎くて、本当に、気が狂ったようになった時期もありました。
 
 でもねぇ。あなたがあの時、私の前で土下座して、子供を産ませて下さいって言った時、何だか、あんまり自分がみっともなくて、あなたのことよりも、自分が情けなくて、死にたくなりましたねぇ。
あの人が、何があっても、私のいる家に帰ってきたのは、私が大事だったからなのか、そうしないと、私が死ぬと思ったからなのか、本当のところはよく分からない。
だからかなぁ、何があっても、あの人が帰る家だけは、しっかり守らなきゃって思いましたね。
私のことが、あなたより大事だから、私の家に帰って来てくれるのかどうか、そんなこと分からないけど、帰って来てくれるのなら、もう一度帰ってきたいって思ってもらえるように、精いっぱい、いいお家にしようって。
 絶対これだけは、あなたに負けるもんかって。そう思ってた。
 
 そう思って、アメリカくんだりまで、あの人に付いてやってきちゃいました。
 あなたへの意地もあったのかもねぇ。
 私はいつも、あの人が帰る場所になるんだって。
 あなたがあの人と一緒に舞台を作る。そして、私が、あの人の帰る場所になる。
 この場所だけは、あなたに渡さないって、必死だったんだろうねぇ。
 
 だから、あなたが死んだ時、あんなに泣けたんだと思いますよ。
 ずっと綱引きして、ずっと引っ張ってた綱が、急にぷつんと切れたみたいに。
 
 だから、あなたがこうやって、幽霊になっても戻ってきてくれたこと、本当に嬉しい。
 綱引きの綱、天国からもずっと、引っ張ってくれてるんだねぇ。
 あなたが死んだからって、あなたと私の戦いが終わったわけじゃないんだ。
 これからもずっと、あなたと一緒に、あの人を支える戦いが続くんだ。
 そう思えることって、本当に、幸せなことだと思うのよ。
 
 あの人の家を守っているとね、一つ、役得があるんです。
 多分、あなたの役回りでは、味わえないこと。
 あの人の子供たち、合唱団のみんな、舞台を一緒にした仲間たちが、
 私の家に遊びに来てくれること。
 あの人の家、私の家を、自分の家みたいに、「ただいまぁ」って言いながら、訪れてくれること。
 
 あの人は海。あの人は水。
 そして、私は、大地。あの人を支え、あの人をめぐる人々を支える、大地。
 私ね、立派な大地になろうと思うの。みんなを支える、ゆるぎない大地に。
 
 春江さん。もう行くのね。そんなにニコニコ笑いながら、もう行くのね。
 私ももうすぐ、そっちに行きます。
 その日まで、私たちのこと、見守っていてね。
 天国はきっと、ここよりずっといい所だと思うけど、
 たまには、この舞台に、たくさんの思いが集う場所に、戻ってきてくださいね。
 その時は、みんなに言うのと同じ言葉を、私、あなたに言うからね。
 「おかえりなさい」って。必ず言うからね。
 必ず、笑って言うからね。
 
 さようなら、春江さん。
 ありがとう、春江さん。
 そしてきっと、また、おかえりなさい。春江さん。
 
母なる大地のふところに
われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ
大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ
平和な大地を
静かな大地を
大地をほめよ たたえよ土を
恩寵のゆたかな大地
われら人の子の
大地をほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を
たたえよ ほめよ
たたえよ 土よ
母なる大地を ああ
たたえよ大地を ああ

 
(了)

オルゴオル

 雪になった。
 一面がれきに覆われた街の残骸の中に、米軍と自衛隊が切り開いた道が一本伸びている。がれきの上にも、道の上にも、真っ白な雪がしんしんと降りてくる。
 あきらめて、そろそろ帰ろうか、と思った。日が暮れてきている。電気はまだこのあたりには復旧していなくて、夕闇が降り切ってしまえば、月のない夜は真の闇になる。遠くに点々と散らばっている、街の所々に駐車された車のヘッドライトだけが頼りになる。その車も、ガソリン不足の最近ではほとんど見えない。
 拾い集めたものを詰め込んだバッグを抱えて、立ちあがった時、かすかに、音がした。
 小さくきしむような音と一緒に、柔らかな金属が、丸い優しい音の粒を、ぽろん、ぽろん、とはじきだす音が聞こえた。
 手にした懐中電灯をつけて、音のした方に向けてみて、初めて、その子に気付いた。
 赤いセーターに、白いスカート。暖かそうな毛糸のロングソックスをはいて、私と同じ方向を見つめている、背中が見えた。その背中が振りかえると、真黒な瞳が二つ、私の方にくるん、とまっすぐな視線を投げてきた。
 「オルゴオル」と、その小さな女の子は言った。「音したね。」
 「したど思ったがな」と、私は言った。
 二人、しばらく立ちつくしていた。街は静まり返っている。遠くで、車の音がした。
 「もう遅えぞ」私は気がついて言った。「どっから来た?」
 女の子は、山の方向を指さした。「文化会館か?」と聞くと、うなずく。「ほんだば、一緒に帰るべ。暗くなっと、泥棒が出るって噂だ。」
 女の子はぶるっと身を震わせて、私の方に手を差し伸べた。握ると、冷え切っている。黒い髪の上に積もった雪のかけらが、子供の身震いに合わせてプルプルと震える。情け容赦のない冷気が、壊れた街の上に降りてくる。
 自分の首に巻いたマフラーを子供の首にかけてあげた。子供の柔らかそうな顎が、毛糸の中に埋まった。
 「オルゴオル、見つからなかったね」女の子が言った。
 「もう遅いがんな」私は言った。「明日、また探すべ。」
 「なんか、見つかった?」女の子が言った。
 「いろいろ」私は言った。「アルバムとか、茶碗とか。」
 「オルゴオルも、探した?」女の子が言った。
 「探したけんども、ながった」私は言った。
 オルゴオル。
 オルゴオルには、あまりいい思い出はない。小学校の頃のことを思い出す。
 工作の課題で、オルゴオルを作ったことがあった。出来合いの小屋の中にオルゴオルを仕込み、オルゴオルと一緒に回る水車をセットする。その水車に、彫刻刀で模様を刻み、全体に色を塗る。自分でデザインしたアラベスク風の模様を、家に持ち帰ってこつこつ刻んでいた。完成すれば、その美しい文様は、なぜか懐かしいあの音色とともに、くるくると回るはずだった。こたつにもぐり込んで、まだ仕上がっていない水車を、試しにオルゴオルにセットしてみて、うまく回るか試してみようと奮闘していた時だった。
 電話の応対をしていた母が、困った顔をして、こたつの傍にやってきた。私の同じクラスの女の子の、母親からの電話だった。私の不用意なからかいの言葉が、ひどくその子を傷つけたらしい、と、私の母は言った。クラスのすみで、いつも座って微笑んでいる子だった。伏し目がちの、長いつややかな髪の子だった。
 「xxちゃん、家で泣いてるってよ」と、母は言った。
 突然、胸が熱くなって、オルゴオルのゼンマイを巻く指に、必要以上の力が入った。ネジがガリっという耳障りな音を立て、歯車が飛んだ。ゼンマイが妙な形にねじれた。
 顔がカッと熱くなって、涙がこぼれた・・・なぜか分からなかった。手や足を使わなくても、人を傷つけることができる。それに気付かなかった自分の浅はかさ。自責と後悔。そして、私がその子に寄せていた好意と、その思いを裏返しにした自分の心の醜さ・・・感情は自己嫌悪の迸りになって、私は思い切り、自分の手首に噛みついた・・・
 「くれたのは、パパだよ」女の子が言った。「私の誕生日に。」
 「そうか」私は言った。「そりゃ大事なもんだな」
 巨大な黒い波が、大事なものを根こそぎ押し流していっても、心の中の記憶は消えない。思い出は消えない。オルゴオルの思い出が、ポロリ、ポロリと、私の心の中に浮かんでは消える。
 あの人の思い出にも、オルゴオルが絡んでいる。おおらかに笑う人。一人でどこまでも軽やかに走り続ける人。急な坂でも何くそと、ガーガーエンジンをぶんまわしながら駆け昇っていく軽自動車のような人。2つ年上の、大学のサークルの先輩だった。
 大学を卒業してすぐに、遠い国に旅立つことになったあの人を、サークルの仲間で見送りに行った。何か、記念になるものを手渡したい、と思って、でも照れくさくて、何も持たずに空港に行った。友人が回覧してきた寄せ書きに、「お元気で」としか書けなかった。もっと気の効いた言葉がいくらでもあるはずなのに、何も思いつかなかった。本当に言いたい言葉も、本当に渡したい物も、何一つ、あの人に届けることができなかった。
 出発ゲートの近くのレストランで、見送りに来た仲間連中で食事をしていた時、あの人が少し席を外した。今しかない、と思った。ちょっとトイレに立つふりをして、店を出たあの人を追いかけた。
 レストランの外の、真っ白な光の溢れる通路の真ん中で、あの人は、スーツ姿の男性と話をしていた。男性が、あの人に小さな箱を渡していた。箱を空けたあの人の手の上で、ぽろん、ぽろん、と、優しい音が鳴った。その音を、大事そうに、そっと、あの人は自分の両の掌で包み込んだ。
 オルゴオルの思い出は、そのまま自己嫌悪の思い出につながっている気がする。楽しい思い出よりも、悲しい思い出、辛い思い出の方が、心に残りやすいだけなのかもしれないけれど。オルゴオルの音は、人の記憶をかき回す。家も何もかもが流されてしまっても、決して流し去ることができない記憶の奥から、自分の見たくないものまで表面に浮かび上がってくる。星のようにかすかな音の粒とともに、雪のような柔らかな音の粒とともに、傷ついた心に落ちてきて、肌にひやりと哀しみを残す。
 「どんなオルゴオルだった?」私は言った。
 「箱。引き出しがついてて、引っ張ると、上の、白鳥の湖の人形が踊るんだ。」女の子が言った。
 「バレリーナの人形だな」私は呟くように言った。
 「白鳥の湖の人形。」女の子が言いなおした。
 オルゴオル。
 うちのオルゴオルはなくなった。もう2年も前の話だ。
 結婚した時、妻が持ってきたオルゴオルだった。会社の同僚だった妻。誰の話も、瞳を丸くして、まっすぐ視線をこちらに向けて聞き入る妻。この女の子の邪気のない視線に似た瞳。その瞳に見つめられると、どぎまぎした。
 妻の持ってきたオルゴオルは古いもので、やっぱり、箱の上に白いバレリーナの人形がついていた。引き出しを引くと、人形がくるくると踊る。曲は「白鳥の湖」だった。イヤリングやネックレスなんかの装飾品入れになっていて、朝、妻が身支度をするたびに、短調の悲愴なメロディーが鳴る。私はなんとなくそれが気に入らなくて、別の曲にならないのか、なんて聞いたことがある。妻は、ちょっと驚いたような顔をして、大きな瞳で私を見返した。夫婦の間で、少しネジがきしんだような音がした瞬間。
 結婚して二年目に、妻が妊娠した。つわりがあまりにひどく、しばらく入院することになった。妻は、オルゴオルの箱を持ってきて欲しい、と言った。私が、病室にじゃらじゃらとアクセサリーを持っていくのは不用心だし、と言うと、箱だけでいいから、とこだわった。
 「オルゴオルがないと、寂しいんだもの。テレビとかラジオはやかましくって疲れるし。オルゴオルの音がいいんだもの。」
 私は約束して、家で箱からアクセサリーを出し、他の身の回り品と一緒にまとめて荷造りをした。病院に持って行って荷物を開けると、オルゴオルは見当たらなかった。家にもう一度戻って探しても、出てこなかった。退院してきた妻と一緒に探しても、出てこなかった。家を失ったアクセサリーたちの山が、寂しそうに震えているだけだった。
 妻の私を見る目が、その日から少し変わった。赤ん坊は早産だった。助からなかった。以来、妻はオルゴオルを買おうとしない。アクセサリーは、味気ないプラスチックの小物入れに納まっている。口には出さないが、あれは私が捨てたのだと信じているのだと思う。私に向けられるまっすぐな視線で、子供を殺した男を見るように私を見る。
 「うちだね」突然、女の子が言った。マフラーをくるくると丸めて、私の手に預けた。周りを見回すと、そこには何もない。白い区画割りのひもが張られた更地があるだけだ。
 「行くよ、ママが待ってる」と、子供が、私の手を引こうとして、ぽかん、と口を開けた。丸い瞳が、くるっとあたりを見回す。私もつられて、視線を浮かせた。
 かすかに、ぽろん、と音がした。雪の粒のはじけるような。遠い和音・・・
 「オルゴオル!」
 女の子は叫ぶと、駆けだした。止める暇もなかった。あっという間に、白いひもを飛び越えて、夜の闇に消えた。叫ぼうとした声を、正面から来る車のヘッドライトが踏み消した。
 「こんな時間に何してるんです?」自衛隊員が車から声をかけた。
 「探し物してて、遅くなって。」マフラーをポケットにしまいこみながら、私は言った。
 「避難所ですか?」と聞かれてうなずくと、「お送りしましょう」と言ってくれた。
 「女の子、そっちさ走っていかなかったべか?」と聞くと、不思議そうに首を横に振った。地面が揺れた。津波警報を知らせるサイレンが、けたたましく鳴り始めた。
 妻は、避難所になっている文化会館の床に座り込んでいた。「また揺れたね」と、私を見上げて言った。何の感情もこもっていない声だった。悲しみも、喜びも、夢も希望も、何もかも波に押し流されて、揺れる大地に粉々に砕かれてしまった声だった。
 「あんまり、大したものはみつかんねかった」段ボールで区分けされた小さな我が家に、バッグの中のものをそっと取り出して、並べた。泥で汚れた通帳。泥で汚れた手紙の束。泥で汚れたアルバム。泥で汚れた本。泥で汚れた食器。
 一つ一つの物を見て、妻はそれでも歓声を上げた。能面のようなだった顔に、少し血の気が上った。
 「顔色悪ぃこと」私が言った。
 「大丈夫」妻が言った。
 「仮設住宅の建設予定地ば通ってきた」私は言った。「妙な女の子がいた。建設予定地のあたりで、消えてしまった。」
 その時、音がした。小さな炎がはじけるような音。
 妻の瞳に光がともった。「オルゴオル?」
 私は、バッグを探った。バッグは空っぽだった。音は続いている。「白鳥の湖」。
 ポケットの中に違和感があって、探ると、押し込まれたマフラーの中に、固い感触があった。マフラーの中から、四角い箱が出てきた。箱の上のバレリーナの人形のチュチュは、泥にも汚れていない。真っ白なチュチュを着けた人形が、ゆっくりと回っている。
 「オルゴオル出てきたの?」妻が言った。瞳に光がたまって、そのまま涙のしずくが落ちた。「どこで見つけたのす?」涙声で言った。
 私は言葉を失って、オルゴオルを見ていた。妻は、手を口にあてて、えずくような音をたてた。顔から血の気が引いた。
 「なした?」と私が聞くと、妻は、「あのさ」と言った。「できたみたいだもの。」
 私はぽかんと口を開けた。妻は恥ずかしそうにうつむいた。まつげの先に、涙のしずくが、宝石のように光って、きらきら揺れている。
 そうか。突然分かった。あの子は、未来だ。何もかもなくした我々に、未来から、希望を届けにやって来てくれたのだ。
 「ちゃんと産めるべか。こんな時に」妻は言った。
 「産めるべ」私は言った。言いながら、オルゴオルのネジをそっと巻いた。確かな、優しい楽音が響く。避難所の人々が、何人か、顔を上げて、こちらに向かって微笑んだ。「ちゃんと産まれるさ。仮設住宅が、この子の初めてのうちになるんだもの。女の子だべ。」
 「なして女の子す?まだ無事に産まれるか分かんねぇのに・・・」
 「大丈夫さ。女の子だべ。赤いセーターと、白いスカートの似合う、おっきなまんまるの目ぇした、女の子だべ。」
 私は、妻の手のひらに、オルゴオルをそっと置いた。妻の手の中で、オルゴオルは鳴り続けていた。

(了)

水のいのち その2

 降りしきれ雨よ 降りしきれ
 全て許し合うものの上に
 また許しあえぬものの上に
 ~高田三郎作曲 高野喜久雄作詞「水のいのち」より~

 
 この漢字は、なんて読みますか?
 さんしょう、ですか。たたえる?あ、ほめることね。なるほど。大地讃頌。大地を誉める、ってことね。へぇ。
 僕はこっち育ちです。だから、漢字が難しい。ひらがなとカタカナは大丈夫。こっちでね、子供のころ、補習校に通ってたから。けど、途中でやめちゃった。親とけんかしたね。なんで僕だけ、他の子供と違うことをしなきゃいけないのかって。Fairじゃないって。泣いてね。もったいないことしました。
 
 今、日本で仕事しながら、日本語勉強してる。変ね。でも、日本でも、しんどいよ。日本人の顔してるから、みんな普通に日本語で話しかけてくるけど、こっちの日本語がちょっと変でしょ。みんなびっくりする。そんなに変じゃない?勉強したから。昔は大嫌いだったのに、今は日本に住んで、日本語大好き。変だね。
 
 お母さんとずいぶんケンカしました。お母さんは僕に日本語を勉強して欲しかったから。日本語の宿題破って捨てたりした。悪い子だったね。
 
 さっきのはケンカじゃないね。分かってます。でも、あなたのママ、泣いてたよ。大丈夫?
 
 今はトイレに行ってる?はい。
 
 僕、うるさいですか?
 
 日本人はね、知らん顔するのが礼儀だよね。アメリカ人はね、知らない人でもにっこりするのが礼儀だから。日本に住んでて、戸惑うことあります。うるさかったら、言って下さいね。
 
 日本のどこから来ましたか?神戸?さっき、お母さんが持ってたの、お酒ですよね。お酒屋さんですか?日本酒って、美味しいよね。さっぱりしたワインみたいな感じ。大好きです。
 
 僕?今はね、東北に住んでる。大船渡って知ってる?知らないよね。岩手県の三陸海岸です。そこの水産加工会社。大学で生物学勉強してね。魚が専門。それが縁で、今の会社で働いてる。小さな会社でね。雰囲気いいよ。
 
 え、やっぱりアクセント変ですか?東北弁入ってます?そうか。でもあなたの言葉もちょっとアクセント変。関西弁ね。日本にいたら絶対会わない人たちが、日本全国から集まって、ニューヨークで会ってますね。ははは。
 
 三陸の魚は美味しいよ。東京あたりの高級なカキとかね、大抵三陸から来てる。神戸あたりでカキっていえば、広島でしょう。広島のカキは小粒で味が濃いよね。三陸のカキは大粒。すごく立派だよ。
 
 大船渡にもね、美味しい日本酒がある。酔仙っていってね。昔の酒蔵を見たことがあるよ。立派な酒蔵。今は内装を変えて、ギャラリーになってる。コンサートとか、絵の展覧会とかやってます。昔の酒蔵をそうやって利用するのって、他の街にもあるんだってね。古い建物で、とっても雰囲気がいいよ。神戸にも、そういう場所があるかもしれないね。
 
 誰か、演奏会に出るんですか?あ、お祖父さんが。すごいねぇ、あの指揮の先生が、お祖父さんなの。へぇ。
 
 僕はね、お母さんが出演者。それで来ました。東北からわざわざね。東北から東京に出てくるのと、東京からニューヨークに来るのと、あんまり時間変わらないですよ。新幹線の駅まで、大船渡から出てくるのが大変なんです。そこから東京に出て、成田に行って、それだけで、一日がかり。
 
 お母さんに会うの、久しぶりです。
 
 前半、どの曲がよかったですか?怪獣の歌とか、楽しかったね。
 
 僕はね、「小さな空」が好き。きれいな曲ですよね。
 
 神戸、大きな地震ありましたよね。大丈夫だった?
 
 そう、大変でしたねぇ。酒屋さんだもんねぇ。割れたビンとか、大変だったでしょう。
 
 大船渡もね、最近ちょっと大きな地震がありました。震度5くらいの。びっくりしたね。西海岸にも地震はありますけど、日本ほど多くない。
 
 大船渡の人はね、地震が来ても落ち着いてる。慣れてるんだって、笑ってました。津波だけが怖いって。津波は地震がなくても来るからって。昔ね、チリで大きな地震があった時、太平洋を越えて津波が来たそうです。僕の会社の社長さんが子供の頃ね。街がずいぶん流されたそうです。津波、怖いですよね。
 
 さっき言った酒蔵のギャラリーもね、その地震で少し壊れたです。しばらく閉鎖しててね。今年の夏に再開して、最初に、合唱団のコンサートやったです。そこでね、「水のいのち」をやったの。
 
 最初の歌でね、感動した。
 
 降りしきれ雨よ
 降りしきれ
 全て許し合うものの上に
 また許しあえぬものの上に

 
 喧嘩した時のね、お母さんの顔思い出してね。泣いちゃった。
 
 社長さんにね、その話したらね、言われたです。親は大事にしろって。社長さんね、子供の頃のチリ地震の津波で、お母さん亡くしたそうです。今でも時々、その時のこと夢に見るよって。
 
 泥に汚れた、古い写真見せてくれたです。
 津波で流された家の傍に、落ちてたそうです。お母さんの写真。
 写真だけ残して、お母さん、海に流されたんだって。
 写真になって、帰ってきたって。
 
 だから、お母さん大事にしろって、言われました。
 
 ええ、いい社長さんです。もう家族みたいね。日本の、お父さんお母さん。僕には、二つの国に親がいる。どっちも大事にします。
 
 これ、ちょっと食べません?うちの会社で作ったの。かまぼこね。美味しいよ。本場だから。
 お母さんに食べさせてあげたいって思って、持ってきました。
 
 これ食べてもらってね、お母さんに、
 「美味しいね」って、一言、言ってもらえたら、
 僕、すごくうれしいと思うんです。そう思って、持ってきました。
 
 美味しい?よかった。きっとあなたのお酒にも合うね。
 そろそろ休憩終わりますね。
 あ、あなたのお母さん、戻ってきました。

(了)

ダニロと小源太と忍者のお話

 かなちゃんはアメリカに行くことになりました。
 パパのお仕事の関係で、ニュージャージーという所に住むのです。
 調布のおうちで、かなちゃんと一緒に住んでいる、たくさんのぬいぐるみのお友達もみんな、ニュージャージにお引越しです。
 中でも、かなちゃんの大親友の、クマのダニロと、パンダの小源太は、飛行機に乗って、かなちゃんと一緒に旅のお供をすることになりました。
 「空港で変な扉を覗きに行って、そのまま迷子になっちゃだめだよ」と、別の荷物で送られることになったペンギンのペンちゃんが言いました。
 「そっちこそ、貨物室の中では大人しくしてないとだめだぞ」と、ダニロが言い返します。
 でも、ダニロも小源太もちょっぴり心配です。
 ダニロも小源太も、飛行機に乗るのは初めて。
 それに何より、ニュージャージー、ってどこなんでしょう。
 かなちゃんはニコニコしながら、「地球の裏側だよ」と言っていました。
 地球の裏側って、どれくらい遠いんでしょう。
 ダニロは、かなちゃんの家族旅行にお付き合いしたことがあります。
 あの時は、とても長い時間、車に乗って行きました。
 富士山のすそ野まで行ったんです。
 きっと、富士山に行くより遠いんだろうなぁ。
 「そりゃ遠いよ、富士山は調布からだって見えるけど、ニュージャージは見えないもん」と、小源太が言いました。
 「じゃあ、きっと時間がかかるねぇ。富士山に行くのの倍くらいかかるねぇ」と、ダニロが心配そうに言いました。
 「大丈夫だよ、飛行機は、車よりもずっと早く飛ぶんだよ。」と、ペンちゃんが言いました。「きっと富士山に行くのと同じくらいの時間で着いちゃうよ。」
 ペンちゃんはそうは言いましたけど、なんだか自信なさそうです。
 「大丈夫だよ」と、小源太は胸を張りました。「なんていっても、アメリカには、忍者がいないからね。」
 「それはそうだよね、忍者は日本のものだから」と、ダニロがうなずきました。
 「忍者?」とペンちゃんは言いました。「なんで忍者が出てくるの?」
 「あれ、話したことなかったっけ?」小源太が言いました。「僕たち二人が、かなちゃんの家に来る前のことだよ。」と、小源太は話し始めました。
 
 僕が生まれたばっかりの時、お店のご主人が僕を見て、最初に言った言葉と言えば、「パンダってのは、鼻の頭が黒くって、なんだか焦げたみたいだよなぁ」っていう一言だった。それで、僕はそれ以来、ずっとコゲタって呼ばれてた。僕はその名前が嫌いでね。ずっと別の名前にあこがれていた。お店が夜になって、僕らぬいぐるみが動けるようになる時間、僕はこっそり店を出て、自分にもっとふさわしい名前がないか、街の中を歩き回った。いろんなおうちの色んなぬいぐるみたちに、君の名前はって、聞いてみた。中にはパンダのぬいぐるみもいたけれど、大抵の子は、「タンタン」とか、「ポンポン」とか、パンダっぽい名前の子ばっかりで、コゲタ、なんて間抜けな名前の子はいなかった。僕は自分にふさわしい名前を探して、夜な夜な街をさまよっていた。
 そしてある時あるおもちゃ屋で、ダニロに会った。その頃ダニロは、お店の店番のお兄さんの話相手になっていた。髪を金色に染めたお兄さんは、とっても優しい人だったけど、ちょっと言葉づかいが乱暴で、ダニロはいっつも、「だろー、だろー」って呼ばれてた。そのうちお兄さんは、それが呼びかけの挨拶なのか、ダニロの名前なのか分からなくなって、ダニロのことを、ダロって呼ぶようになってた。
 僕は自分の名前が気に入らないんだ、ってダニロ、その頃は、ダロって呼ばれてたクマに向かって言った。ダロも、深々とうなずいた。僕もだよ。僕にはきっと、もっといい名前があるはずだ。二人して、それを探しに行こう。
 そうして僕らは、夜の街をさまよった。僕らにふさわしい名前がどこかにあるはずだ。色んなおうちの色んなクマや、色んなパンダに尋ねてみた。でも、なかなか素敵な名前は見当たらない。
 そうして二人で歩いていたある夜、僕らがあるお家の中に入っていくと、そのお家に、忍者が忍び込んでいた。天井裏にこっそり隠れて、お家の人の様子をうかがっていた。忍者は夜のお仕事だから、時々僕らの仲間がうろうろ歩いているのに出会うことがあって、その時もそんなに驚かなかったらしいけど、僕らがそのお家のクマに自己紹介をしているのを聴いているうちに、なんだか我慢ができなくなったらしい。
 「僕はパンダのコゲタです」「僕はクマのダロです」「僕らにもっといい名前をつけてくれませんか?」
 忍者は天井裏で思わず噴き出してしまって、僕らに見つかってしまった。忍者はバツの悪そうな顔をして、天井裏から降りてきた。夜、人に見つかって困るのは、動いているぬいぐるみだけじゃなくて、天井裏の忍者だって同じだ。
 「このうちの人には内緒だぞ」と、忍者は僕らに言った。
 「内緒にする代わりに、僕らにいい名前をつけてください。」僕らは言った。
 「名前と言うのはそんなに簡単に変えられるものじゃないからなぁ」と、忍者は言った。「結構覚悟が必要なんだ。名前で人の性格とか、様子まで変わってしまうものだからなぁ。」
 「だからこそ、僕らはこの名前がいやなんです」僕もダロも必死に言った。「コゲタ、とか、ダロ、とか、なんだか中途半端です。まともなぬいぐるみの名前じゃありません。もっと何かしら、ちゃんとした名前があるはずなんです。」
 「でもお前さんたちは、まだお店にいるんだから、飼い主さんが別の名前を付けてくれるだろう」忍者は言った。
 「でもお店のご主人が、すっかり僕らを、コゲタとダロ、だと思ってるんです。飼い主さんに渡すときにも、きっとその名前で渡されるに違いありません。」ダロはほとんど涙ながらに訴えた。夜の街で相談できるのはぬいぐるみばかりだったから、人間の忍者さんに相談できるのは僕らにとっても天の救いだと思えたんだ。
 「しょうがない。じゃあ、こうしよう」と、忍者は言った。「名前を変えるのは大変なことだが、名前の一部を入れ替えることはできる。俺の名前の一部をあげよう。俺のニンジャのニを、君にあげるよ。あと、ニンジャのンを、君に」
 そう言い終わらないうちに、その忍者の体はシュルシュルっと小さくなって、シュルシュルっと細くなって、ニョロニョロ動くヘビになってしまった。ヘビは恨めしそうに僕らを見上げると、「しまった、だから名前は大事だって言ったのに。他の忍者に知らせなきゃ」と言いながら、ニョロニョロとそのお家を出ていってしまった。
 
 「なんで、忍者はヘビになっちゃったの?」とペンちゃんが言いました。
 「忍者は自分の名前のニを僕にくれたんだ」と、ダニロは言いました。「おかげで、僕はダロ、から、ダニロになれた。ンをもらったコゲタは、小源太になれた。でも、忍者に残ったのは、ジャ、だけだった。蛇と書いてジャと読むだろう?それで忍者は蛇になっちゃったんだ。」
 「だからダニロも僕も、忍者の仕返しが怖くて、夜になってもこのお家の外には出ないんだ」小源太が言いました。「でもアメリカには忍者はいないからね。僕らも久しぶりに、夜歩きができるってわけさ。」
 
 「かなちゃん」とパパが新聞を見ながらかなちゃんを呼びました。「明日、マンハッタンのセントラルパークで、ジャパン・デーってのがあるんだって。日本文化の色んな紹介イベントがあるらしいよ。行ってみる?」
 「面白そうだね」とかなちゃんは言いました。「小源太とダニロも連れて行こうかな」
 「忍者ショーとか、あるらしいよ。」とパパは言いました。
 かなちゃんの部屋で、誰かが小さく叫ぶ声が聞こえた気がしました。「今の何?」パパが言いました。
 パパとかなちゃんは顔を見合わせて、しばらく耳をすませていましたが、もう何も聞こえません。きっと空耳だったんだね、と、二人は、明日のセントラルパーク行きの相談の続きを始めました。

(おしまい)

鹿

 昔、村の娘ん子が、山ん子を好きになった。
 山ん子は、山人の子供だ。村の者のように、田畑耕して、暮らしを立てている者の子ではない。山に分け入り、木の実や獣を食って生きている者の子だ。木で細工物を作り、獣の肉を乾し、茸や漆を取って村に売りに来て、わずかな穀物や塩を手に入れる。そんな者の子に、村の娘ん子を取られるわけにいくものか。娘ん子のふた親はたいそう怒って、娘ん子を納屋に閉じ込めて、柱にくくりつけた。山人は移り住む者だ。冬の訪れに従って、住みやすい南へと峰伝いに国境を越えていく。しばらく娘ん子をしばりつけておれば、山ん子もあきらめて、別の山に移って行ってしまうじゃろ、みんなそう思った。
 娘ん子は毎日、納屋の隅で泣いておった。娘はいつも首から、真っ白な小さな木の細工をぶら下げておった。それは好いた山ん子がくれた、木の鹿の細工であった。娘ん子はそれを見ては泣き、自分を縛っておる縄を見ては泣いた。縛った親も不憫とは思うけれども、相手が山ん子ではとても許すわけにはいかねぇ、と、ここは心を鬼にして、娘を一歩も納屋の外には出さなんだ。
 季節は過ぎ、初雪が、山肌をうっすらと染めた。山人たちが移る頃だ。納屋の窓から見える白く染まった山を見て、娘ん子は狂ったように泣いた。山ん子も同じ思いだった。灰色の空から、ちらちらと降りてくる冬の精を、たまらん気持ちで見ておった。何度となく村へ降りようとしたけれど、同じ山人に止められた。下手すりゃあ、村の者になぶり殺しにされる。けれども、山ん子はそんなことはもう怖くもなかった。とにかく、あの娘ん子が欲しい。そのためなら、命なんぞどうでもよかった。
 明日は別の山に移ると決まった夜。山ん子は、とうとう、山を降りていった。山人に道は要らぬ。木から木へと飛び移っていく。村へ通じる道に降り立った山ん子は、人の気配にぎょっとした。ふりむくと、山に通じる道の先に、山人の娘が一人、目をぎらぎらさせて立っておった。山ん子は一言も言わずに、口をきっと結んで、風のように村へと駆け下りていった。
 翌朝、村は大騒動になった。娘ん子がいない。山狩りが始まった。山人たちは早々と、別の山に移ったらしく、山の集落はすでに空っぽになっていた。けれど、山ん子と娘ん子は、まだそう遠くへは行っていないはずだった。山人たちに道は要らぬが、娘ん子はそうはいかない。村人たちは、山と山の尾根伝い、山と山の谷伝いに、二人を探した。けれど、無駄だった。三日後には、村はすっかり昔通りに戻っていた。娘ん子のふた親ばかりは、すっかり年を食った顔で、畑に出ておったけれども。
 二人はしかし、まだ山人たちには追いつけていなかった。山ん子は色んな隠れ場所を知っていて、昼はそこで二人身を寄せ合って眠り、夜になるとけもの道を歩いた。山ん子は夜目が効いたから、娘ん子にはしんから真っ暗な中でも、器用に道を選ぶのだった。
 そろそろ追っ手もあきらめたろう。山人たちがいる山はもうすぐだ。やっとこ安心して、二人は手を取って、谷川の傍を歩いていた。夕暮れ時。山の中の空気が、シン、と冷え始める時。耳の中がすうっと寒くなって、なんとなし、山が大きく見える時。
 「鹿じゃ!」
 叫び声に、はっと二人が顔を上げた途端、娘ん子の胸に矢が突き立った。山ん子は見た。あの山人の娘が立っていた。村への道で、目をぎらぎらさせていた娘だ。川の向こう岸の岩の上で、弓を構えていた。山ん子は、泣き出しそうな、笑っているような、くしゃくしゃな顔をして、山ん娘の方を見ていた。山ん娘は、あの時のように、目をぎらぎらさせていた。夕日の中で、それはウサギの目のように、真っ赤に染まって輝いていた。
 娘の声に、山人たちが集まって来てみると、岩の上で山ん娘が、呆けたように座り込んでいた。皆はそこから谷川を見下ろして、声もなかった。
 二頭の白い鹿が、胸を射抜かれて倒れているのだった。白いその毛並みは神々しいようで、夕日の中で金色に輝いていた。鹿の片割れの首には、朱に染まった小さな木の細工が下げられており、それはよく見ると、木刀で器用にこしらえた、小さな鹿の形をしているのだった。

(了)